記憶喪失になった俺は、婚約者が誰なのか思い出さないと詰む

司尾文也

本編

第一章

第1話 婚約者を探せ

 気づけば、病院のベッドの上に転がっていた。


 それ以前の記憶はない。言葉は話せるし、社会常識的なものはきちんと覚えているのだが、自分の名前や過去の思い出なんかはひとつ残らず抜け落ちてしまっていた。


 今日まで16年ほど生きてきたはずなのに、その間に蓄積してきたものを全て失ってしまった。途方もない喪失感と、不安に襲われる。


 それから二か月ほど、入院しつつ記憶の回復を試みたが、結局何ひとつ思い出せなかった。


 病院の先生がいうには、俺の名前はかすみ青斗あおとというらしい。それを聞いても特に思い出すことはなかった。まるで自分のことじゃないみたいだ。


 記憶が戻らないのと同じくらい、あるいはそれ以上に気になっているのが、入院中のこの二か月、誰一人として面会に来ないことだ。

 仮に人間関係がボロボロで、親しい仲の友人が皆無だったとしても、普通に考えて家族は来るだろ。どれだけ忙しくても一度くらい顔を出さなきゃおかしい。


 俺は家族と不仲だったんだろうか。絶縁状態にあるとか。それとも、元々天涯孤独の身? わからない……わからないのは不安だ。これから俺はどうなるんだろう。


「────失礼致します」


 そんなある日、病室に一人の女性が現れた。


 年齢は20代前半くらいだろうか。コスプレみたいなコテコテのメイド服を格好良く着こなし、ピンと背筋を伸ばして、プログラムされているのかというほど丁寧で精密な礼を披露した後、一切の感情がこもっていない真顔で口を開く。


「お迎えにあがりました」

「……お迎え?」

「出ろ、釈放だ」

「いや、俺は逮捕されてるわけじゃないから。……え、ないよね?」

「冗談ですよ。ただ退院するだけです」


 どうやら彼女は、真顔でブラックなジョークを言うタイプらしい。こっちは記憶がないんだから、判別できない冗談を言うのはやめてほしいところだ。


「え、えと、あなたは? ごめんなさい、俺記憶がなくて……」

「承知しております。しかし、そうですか。わたくしのことも忘れてしまわれたのですね」


 その無表情に変化はないが、心なしか彼女が少し悲し気な目をしたように見えた。


「やっぱり……俺の知り合いですよね。どんな関係だったんですか?」

「それはもう、熱く愛し合った仲です」

「えっ」

「私たちは何度も体を重ね、互いの将来を誓い合ったのです」

「えっえっえっ」

「冗談ですよ」

「────何なんだよ! もう‼」


 思わず怒鳴り散らしてしまった。でもいいよな? これ、俺には怒鳴り散らす権利があるよな?


「ですが、あなたに将来を誓い合った婚約者がいたのは事実です」

「……本当に? 俺に婚約者が?」

「はい、誓って嘘ではございません。私の目を見てください」


 そう言われても……何を考えているかわからない真っ黒な瞳が映るだけだ。どちらかと言えば、信頼できない目をしている。


「もし、それが本当だとしたら、俺はそんな大切な人のことまで忘れてしまったんだな。俺はこれからどうしたら……」

「今後のことは私にお任せください。身の周りのお世話は私が一通り行いますので生活において不自由はさせません」


 自分の家がどこかもわからない状況で、彼女の言葉は頼もしい事この上ない。しかし同時に疑問でもある。


「それは……ありがたいけど、なんでそこまでしてくれるんです?」


 記憶の無い俺だが、現代日本において、メイドなんてそういうコンセプトのカフェでしか見ないような存在であることは知っている。

 家事の代行サービスを頼むとか、掃除の業者を雇うとかならまだともかく、身の周りのことを全部やってくれる使用人がつくなんてよほどのことだ。


 俺はそこまでしてもらうような価値のある人間なんだろうか。


「あなたの婚約者から、あなたのことを任されているからです」

「……任されてる?」

「事故に遭い、瀕死の重傷を負われたあなたを、彼女は持てる限りの資金と権力を行使して助けました。本来なら助かる見込みはないと思われたあなたを、色々と際どい手まで使って救ったのです」

「そ、そうだったのか。でも、俺はその人のことを忘れて────」

「ええ、ですからあなたは彼女を探し出さなくてはなりません。誰の手も借りず、自分の力だけで」

「探し出すって……教えてはもらえないんですか? あなたは、俺の婚約者のことを知ってるんでしょ?」

「甘ったれるな‼」


 突然大きな声を出されて、俺の肩はビクンと跳ね上がった。


 な、なんで急に叫んだんだこの人……相変わらず顔は無表情だし……。


「婚約をした覚えがなく、それどころか過去の記憶が全て消えてしまっているのであれば、それは果たして同一人物と言えるのかどうか、彼女は判断しかねているのですよ。助けたはいいものの、目覚めた人物は果たして本当に自分が愛した男なのかと」

「そ、それは…………」


 答えようがない。かつての自分のことなど全く知らないのだから。今の俺とかつての俺とでは、全く人格が違うことだって考えられる。


「ですから、あなたは証明しなくてはならないのです。記憶を戻すにせよ、もう一度彼女に惚れ直すにせよ、あなたがかつてと同じように、自分の意思で彼女を選ぶ男であるということを」

「な、なるほど、そういうことなら……」

「ちなみに、もし婚約者が誰であったのかを自力で突き止めることができなかった場合、治療費とこれからかかる生活費の一部をあなたに請求する……とのことです」

「うぐっ……ま、まあ、仕方ないか。結婚するわけでもない他人のために、大金を払う義理なんてないよな。……ところで、それっていくらぐらいなんです?」


 恐る恐る聞いてみると、彼女は顔の前に2本の指を突き出した。薄暗い病室に燦然と輝くブイサインだ。


「……二百万か……結構な額だな……払えるかなぁ」

「いえ、もう一声」

「え? じゃ、じゃあ、まさか、二千万? おいおい、マジかよ。一生ものの借金になるな……死ぬまでに用意できるかどうか」

「いえいえ、もう一声」

「は?」


 彼女はブイサインをチョキチョキとハサミのように閉じたり開いたりした後、淡々とこう告げる。


「二億です」

「ニオク⁉」


 ────間違えたら即人生詰みの婚約者当てクイズが始まった瞬間であった。

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