口づけを交わした時

「なんだぁその目はぁ!?」


 ツグミの表情に逆上した男が立ち上がろうとする。それに対してツグミは沈黙したまま、男の喉につま先を蹴り込んだ。


「ウゲッ!?……うう、ぐ、ぐ……!!」


 男が苦しそうに喉を抑え、四つん這いにうずくまる。ツグミはその様子を見下ろしながら、隣、つまり女子トイレの方に耳を傾けた。そこには婦警が一人いて、こちらの様子をうかがっているはずだ。それらしい反応はない。それで、いい。男の声は潰した。続きを始めよう。


(何をしやがる!!)


 怒った男がナイフを振り回しながら立ち上がる。

 ここでツグミは、人質の少女がトイレの個室から体をのり出して、こちらの様子を見ていることに気づいた。


「中に隠れて」


 そう短く言ってツグミは少女を個室に押し込む。すると、少女が小さく悲鳴をあげた。


「あっ!」


 少女を匿おうとしていたツグミの背中を、男がナイフで斬りつけたのだ。だが、ツグミは表情を変えず、再び短く少女に指示を出す。


「鍵をかけて」


 言われた通り、個室の鍵をかけた。だが、少女は思う。自分をかばってくれた、このお姉ちゃんはどうなってしまうのだろうか?と。やがて、トイレ内に肉を打つ音が何発も響いた。少女も、先ほどまで何度も聞いていた音だ。人が人を殴る音である。


(やめてよ……!やめてよ!!)


 少女は心の中で悲鳴を上げる。きっと、さっきのお姉ちゃんは、男に何発も殴られているにちがいない。いたたまれなくなり、個室の鍵を開け、外の様子をうかがう。たしかに、何発も殴られ、顔から血を流し、ひざまずいていた。男の方が、である。


(どういうことなんだろう?なにがおこっているの?)


 またたくまに何発もツグミに殴られた男も同じ事を思ったらしい。


「な……なんなんだ……!?どうなってんだ……!?」


 口がきけるようになったのか。ツグミは男が最初ビニールも剥がさずに噛みついたおにぎりを拾い、その外装を剥いた。男の方はその行動の意味がわからず、困惑している。


「おにぎり。もう一つどうぞ」

「うひぃ!?」


 ツグミに優しくそう言われ、得体の知れない恐怖を感じた男が悲鳴をあげる。ツグミはすぐにナイフを持つ男の手をねじりあげ、肩で息をしている男の口に乱暴に米の塊を押し込んだ。


「むぐん!?」


 完全に腰がくだけている男の足を払うと、そのままツグミは、合気道でいうところの一教の体勢で男を抑え込んだ。ナイフをもった男の手をねじりあげたまま、肩の関節を極め、うつ伏せに抑え込んだということである。これが合気道であれば、相手の反撃能力を奪っているのでこれで終わりである。だが、ツグミはここで終わりにはしない。肩を手で抑えるかわりに膝を乗せ、男の耳の後ろにある血管、あるいは神経を、自由になった手で何度も殴打する。


「…………」


 それを見ていた少女は、いつの間にか両手をきつく握りしめていた。明らかにツグミの暴力は正当防衛の範疇を超えている。というより、殺しにかかっている。だが、暴行を受けた少女からすれば、男には怨みこそあれ同情の余地はまったくない。


「やって……!」


 思わずそんな声が漏れる。徹底的にその男を壊してほしい。少女はそう願ったのだ。


「やっちゃえー!!」

「―――――――っ!?」


 少女のそんな応援に応えたというわけでもないが、ツグミは男の肩を脱臼させた。言葉の無い悲鳴がトイレに満ちる。もう抑え込む意味はない。男の手からナイフをもぎ取る。吐瀉物と共に口中のおにぎりを吐き出した男の三半規管は、すでにツグミによって麻痺させられていた。這いずって振り返ると、ナイフを持ったツグミが見下ろしている。北風よりも、なお冷たい。氷の表情をその顔に浮かべて。


「わあああっ!?うあああああああ!?」


 男は恐怖で完全にパニックになった。涙、鼻水、小便。出せるものは全て出しながら、今のところまだ無事な左腕で我が身を守ろうとしている。


「なんなんだよぉおお!!お前は、なんなんだよぉおお!?」


 その男の言葉に、ナイフを握って迫るツグミの足が止まる。子供のように泣きじゃくる男をしばらく見下ろし、やがて答えた。


「私も……ずっとその答えを探している……」


 そして、持っていたナイフを小便器に投げ捨てた。


「確保!!容疑者の身柄確保!!」


 複数の巡査によってトイレから引きずりだされる山田某を見ながら、柴田巡査長は後悔の念に苛まれていた。


(やはり、村雨ツグミを一人で行かせるべきではなかった)


 女子トイレで様子をうかがっていた氷川婦警の報告によれば、最初こそおとなしくツグミの差し入れを食べていた男が、人質の少女にも食料を与えたとたん、パニックを起して暴れ始めたというのである。男から暴行を受けた少女はもちろん、ナイフで切りつけられた村雨ツグミもまた、氷川婦警に連れ添われて救急車に乗っていた。


(しかし、男がパニックを起こしただって?)


 柴田は報告を聞き、そして自分でも男の体を確認する。右の肩が外れ、顔が血にまみれて腫れ上がっているのは、勝手に暴れて自らを損ねた結果だと解釈できなくもない。だが、右耳の後ろに広がっている内出血の痕は、明らかに別人からの暴力によるものだ。だが、そんなことがありうるのだろうか?人質の少女か、ツグミか、あるいは二人がかりで、か?廃人のようになって呆然としている男は、何も語らない。


「あの子は魔法少女なのか……」

「え?なんですか柴田さん?」


 そばにいた巡査につぶやきを聞かれた柴田は、すぐに首を振った。


「いや、なんでもない」


 まだまだ片付けなければならない仕事が山積みなのだ。つまらない妄想にふける時間はないと、自分に言い聞かせた。


「えっと……本当に脱がないとダメですか?」


 人質の少女と手を繋いで救急車に乗り込んだツグミは、いつもの気弱そうな顔をして、そう尋ねた。


「当たり前です!あなた、ナイフで斬られているんですよ!」


 婦警がピシャリと叱る。ツグミの背中に、斜めの赤い筋が15センチ以上も伸びている。最終的には縫うしかないだろうが、せめて傷口を清潔に保ち、軟膏とガーゼで保護したい。だから上着を脱げというのだが、ツグミが渋るのである。


「はい……わかりました」


 ツグミは仕方なく、上半身裸になった。人質の少女もまた点滴を腕に刺して座っていたのだが、ツグミの体を見て感歎の声をあげた。


「うわぁ、すごい!」


 ツグミの体には無数の傷跡があった。それもただの傷ではない。刃物で斬られたような傷、槍で刺されたような痕、あるいは火傷の名残。他にも複数ある打撲痕は、ただ階段で転んでついたというわけではあるまい。いずれも古傷で、今回の事件とは関係がないのは明白だ。


「ごめんね、恥ずかしいからあんまり見ないでほしいかな……」


 ツグミは苦笑しながら少女にそう言うが、言われた少女の方は首を横にふる。


「ううん!はずかしくなんかないよ!お姉ちゃん、かっこいい!かっこよかったよ!さっきも……!」

「お嬢ちゃん」


 婦警が少女の言葉をさえぎった。


「さっき見たことは、私とお姉ちゃん、3人の秘密にしてくれるかな?その方が、お姉ちゃんのためにもなるから」


 少女はキョトンとしていたが「お姉ちゃんのためにもなる」という言葉を理解し、うんうんとうなずく。


「わかった。わたしたち3人のひみつ、ね」


 そう、少女二人に連れ添う氷川婦警は見ていたのである。ナイフを手にした屈強なコンビニ強盗を、ツグミが拳一つで叩きのめす場面を。何故ツグミが豹変したのか、少女を保護した今となっては、氷川にもわかっている。そして、同情している。


(嘘の報告をするのは悪い事ではありますが、これがせめてもの罪滅ぼしです)


 氷川もまた、柴田と同様に、後悔の念に苛まれているのだ。だから、警察官失格だろうが、ツグミが罪に問われないように嘘の報告をした。自分の判断が遅れたせいで、ツグミの背中に新しい傷を増やしてしまった、そのせめてもの償いとして。


「お姉ちゃん、なおるんだよね?」

「大丈夫だよ。これくらい、お医者さんが治してくれるから」


 そうやって少女に無理に笑顔をつくって答えるツグミの額から、油汗が流れている。これからどんどん、熱が出てくるだろう。入院は避けられまい。


「それより、あなたは大丈夫なの?」

「うん!わたしはだいじょうぶ!げんきな子だもん!」


 少女の言葉を聞いたツグミは涙を流した。


「どうしたの?お姉ちゃん?」

「……お姉ちゃんは、本当は泣き虫だから……」


 少女の健気さに心を打たれたのだろう。氷川にもその気持は理解できた。

 救急隊員がツグミの古傷について尋ねたが、氷川は一言だけ口にする。


「それは警察の方で捜査します」


 おそらく、ツグミを診察する医者にも同じことを言わねばならないだろう。しかし、内心こうも考えていた。


(ですが、魔法少女の負傷を詮索するのは、警察の職務に含まれていませんから)


 柴田とは違い、氷川は確信をもっているようだ。


 時刻は午後8時をとうに過ぎていた。


「はい……はい……それでは、よろしくお願いします」


 氷川婦警は病院の公衆電話の受話器を降ろした。そして、再びそれを持ち上げ、別の番号にかける。やがて、電話がつながった。


「氷川です。柴田巡査長、こちら城南中央病院ですが……」


 氷川はツグミたちが無事治療を終え、今は同じ病室のベッドで横になっていることを話した。そして、柴田の方からも報告を聞いた氷川は怪訝な表情を浮かべる。


「保護者がいない?」


 人質にされた女児の保護者がわからないというのだ。考えてみれば、たしかに不思議だった。正午から午後5時まで拘束されていたのにもかかわらず、女児の保護者らしき者は一向に現れなかった。いくらなんでも、娘が帰ってこなければ公園まで様子を見にくるくらいのことは誰でもしそうだが。


「でも、私があの子から聞いた名前と住所は……」


 それは柴田がすでに問い合わせていた。たしかにその住所には人が住んでおり、娘も一人いる。だが、名字は一致しても、名前が違うというのだ。そのような子は知らない、娘なら家でくつろいでいるところだ、と。


「……わかりました。私の方は、もう少しあの子たちの様子を見てから署に戻ります」


 氷川は再度、受話器を降ろした。


 病室に入ると、ベッドに横になっているツグミと目があった。服を着ているが、すでにその下には包帯が巻かれているはずだ。


「やっぱり、傷口にばい菌が入っているとかで。今夜から熱が出て、それが下がったら退院してもいいそうです」


 ツグミの報告に、氷川がうなずく。


「あの……婦警さん?」

「氷川です」


 そう短く自己紹介をする。


「氷川さん。たぶん、私がやっちゃったこと……ごまかしてくれたんですよね?その……すみません」


 ツグミも察しがついている。でなければ、今頃しつこく事情聴取をされているはずだ。


「いいんですよ。私はあなたが好きですから」

「はい?」

「じゃなかった。私が好きでやったことですから」


 氷川は隣のベッドに目を向ける。カーテンで区切られているその向こうで、少女は寝息をたてていた。


「すっかり疲れて、眠っています」

「そうですか……」


 となると、彼女から保護者の事を聞くのは翌朝でいいだろう。


「ツグミさん、私は署に戻ります。どうか、あの子の力になってあげてくださいね」

「わかりました。氷川さん、おやすみなさい」


 ツグミは病室を後にする氷川の背中を見送った。


 ツグミはそっと、カーテンを指でずらし、隣のベッドで寝ている少女を見る。過酷な一日だったはずだが、その寝顔はあどけない赤ちゃんのようだった。


「ふふ、天使みたい」


 そういえばこの子はツグミのことを「お姉ちゃん」と呼んでいた。居候先の糸井アヤや鷲田アカネとは、年の差はあっても対等な友人としてお互いに接していた。だから、こういう本当に妹みたいな存在に、ツグミはかつてない庇護欲をそそられていた。


「おやすみ……」


 ツグミは自分も眠るために、目を閉じた。まだ早いが、疲れているのはツグミも同じだ。


 夜11時。少女は目を覚ました。隣から聞こえてくる音のせいだ。


「お姉ちゃん?」


 自分のベッドから降りた少女は、仕切りのカーテンを開いてツグミを見た。ツグミはびっしょりと汗をかき、荒い呼吸を繰り返している。たぶん、その音で少女は目を覚ましたのだろう。


「お姉ちゃん」


 もう一度呼びかけてみたが、ツグミは目を覚まさない。少女は医者が言っていた事を思い出す。ナイフで斬られた傷口に雑菌が入り、体の免疫がどうのこうのとかで、とにかく今夜は熱に苦しむだろう、と。たしか、そんな説明だった。

 ツグミは悪夢にうなされているようだった。少女はそっと、彼女の額に手を置く。


「!!」


 少女は驚いてすぐに手を離した。熱が出ている。だが、それが手を離した理由ではない。ツグミの記憶が少女に流れこんだからだ、というのも語弊があった。少女は今までに何度か、この自身に備わった不思議な力で他者の記憶を覗いたことがあるのだ。だから、問題なのは記憶が流れ込んできたからではなく、その記憶の内容だ。血、断末魔、そして常闇トコヤミの沈黙。

 少女は再びツグミの額に手を置く。今度は落ち着いて、それを観ることができた。


「暗闇姉妹……」


 少女がつぶやく。


(すごい……!このお姉ちゃん、本当にすごい人だ……!)


 そして少女は、自分たちに連れ添っていた婦警の言葉を思い出す。


「お姉ちゃんのためにもなる……」


 少女は考えた。目前に横たわっている、この人のためになってあげたい。自分に備わっているもう一つの不思議な能力は、たぶん一生で一度きりしか使えない。だが、それをこのお姉ちゃんのために使うのならば、決して惜しくはない、と。


「お姉ちゃん……」


 少女は病室に置かれた椅子をツグミのベッドの脇に寄せ、そこに膝を乗せた。ツグミの顔を覗き込めるように。


「だいすきだよ。また、会いにいくから」


 そして少女は、そっと自分の唇を、ツグミの唇の上に重ねた。


 午前0時。ツグミは静かな吐息をたてて眠り続けている。だが、隣のベッドから、少女の姿が消えていた。彼女がどこへ行ってしまったのか、それは誰も知らない。

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