北風と太陽の時

「おい、山田ぁ!」


 城南署巡査長の柴田が、拡声器でそう呼びかけるのはこれで何度目だろうか?


「お前は完全に包囲されているぞ!速やかに人質を開放し、ナイフを捨てて、両手を上げて出てきなさい!」


 そうやって公園の公衆トイレに呼びかけるが、返事がない。言葉通り周りを囲んでいる巡査たちがその目で指示を求めるが、柴田は首を横に振った。


 事件の経緯はこうである。

 本日正午頃、付近のコンビニで強盗事件が起こった。容疑者は無職の山田某、36歳。当初、女性店員にナイフを突きつけ現金を奪おうとしたが、店内のバックヤードから現れた別の男性店員に驚き、逃走。その後、店員から警察に通報があり駆けつけたのだが、コンビニから400メートルほど離れた公園に侵入し、そこで遊んでいた女児を人質にとって男子トイレに立てこもったのだ。時刻はすでに午後5時を過ぎている。


「ねぇ、あんた。スナイパーライフルとかで犯人を狙撃できないのぉ!?」

「無茶言わんでください!」


 柴田巡査長は、そんな無責任なアドバイスをしてくる野次馬の老婆に呆れている。

 アメリカの映画ではないのだ。日本の警察にそんなことはできない。だが、仮に許可されたところで難しい。トイレの裏面にある小さな窓は生け垣と隣接しているし、入り口は中で用を足す人間が見えないように折れ曲がっている。トイレの壁はコンクリート製だ。女子トイレの方に婦警が一人待機して隣の様子をうかがっているが、彼女に壁をぶちやぶって、人質を救出しろと願うのは酷だろう。婦警が女子トイレの入り口から首を出し、男子トイレ側を覗こうとするが、すぐに「来るな!来るな!」と男の声がわめき、急いで首を引っ込めた。


「おそらく犯人は奥の個室にいますね」


 婦警からの無線連絡に柴田は耳を傾ける。


「人質の女の子は?」

「わかりません。さっきまで声は聞こえていたのですが……」


 それは柴田も聞いていた。犯人にトイレに連れ込まれた女児は、最初の数時間は外で待機していた柴田たちにも聞こえるほど大きな声で悲鳴をあげていたのだ。だが、決死の抵抗を思わせるその声も、聞こえなくなってから1時間以上たつ。最終的にどうするにしても、せめてその子の安否を知りたかった。


「あの……お巡りさん」

「はい?」


 柴田はパンパンに膨らんだコンビニの袋を抱えた少女に声をかけられた。身長は145cmくらいだろうか?小柄だったので幼く見えたが、実際は高校生くらいだろう。黒々とした艶やかな髪が腰にかかるほど長く伸び、それでいながら癖毛が強く、あちこちで飛び跳ねながら自己主張をしている。柴田は、彼女をどこかで見たような憶えがあった。


「君は?」

「村雨ツグミです。あの、お昼にコンビニで強盗と出くわした者です」

「ああ、どうりで」


 見覚えがあるはずだ。この子なら、今は女子トイレで待機している婦警が、事件の事情を聞いていたのを柴田も知っている。もっとも緊急事態であるから、彼女への事情聴取もごく短いものだったが。


「で、それは?」

「差し入れを持ってきたんです。お腹も空いているだろうし、喉も乾いているかもしれないから……」

「ああ、それは」


 ありがたいことだ。そういえばお昼の休憩をとる直前に出動したので、まったくその通り、空腹なのに今さら気づいた。だが、柴田が「ありがとう」と言って手を伸ばすと、ツグミは袋を引っ込めてしまった。


「え?」

「ごめんなさい。お巡りさんじゃなくて……」


 ツグミは男子トイレの方を指さした。


「まさか犯人に!?」


 ツグミはうなずく。というより、犯人にも食事をあげることになるのは結果論だ。ツグミが心配しているのは人質になっている女児の方である。巻き込まれたツグミは当然、事件の経緯を知っていた。そして、かれこれ4時間以上、女児が人質として拘束されているのも知っている。彼女にせめて食事や飲料を持っていってあげたいと考えるのは当然であった。

 その説明を聞いた柴田は婦警に無線で連絡し、同じ内容を伝える。


「どう思います?」

「たしかに、その必要がありますね。犯人はトイレの入り口には近づきませんから、蛇口で水も飲んでないはずです。まさか便器の水は飲めないでしょうから、犯人はともかく、人質の少女が脱水していないか心配です」

「それでは……」


 持っていくしかないだろう。だがここで、ツグミの口から意外な言葉が飛び出す。


「私が行きます」

「「えっ!?」」


 無線機越しに会話が聞こえた婦警にさえ、その言葉は衝撃的だった。


「そんな、危険だ!」

「だからって、お巡りさんが持っていっても、きっと怖がりますよ。そう、あの人、怖がりなんですよ。だから、私なら大丈夫だと思うんです。その……小さいから」

「しかし……」


 柴田が言葉につまると、ツグミはさらに続ける。


「それに、人間ってお腹が空くと怒りっぽくなるんですよ。ご飯を食べたら、もしかしたら女の子を離してくれるかもしれませんよ?」


 柴田は眩しい物を見るような目つきでツグミの顔を見た。さっき見た時は気づかなかったが、その目に芯の強さを思わせる光が宿っているのがわかる。


「やらせてあげましょう」

「氷川さん!」


 婦警からの言葉に柴田は驚く。


「いえ、やらせてあげてください。彼女は、命に変えても私が守りますから」

「わかりました、氷川さん。責任は自分が持ちますから。それに……」


 柴田巡査長は改めてツグミの瞳を見る。


「この子なら大丈夫だって、そう思い始めた自分がいるんですよ」


 ツグミは恐る恐る男子トイレに入っていった。すえた匂いがツグミの鼻をつく。ここに食べ物を持ち込むのはご飯の神様への冒涜のような気がしたが、今だけは目をつぶってもらおう。


「山田さーん……わっ!」


 そう呼びかけるツグミの首にナイフが突きつけられる。


「な、なんだてめぇは!?サツか!?」

「こ、こんな警察官なんていませんよ。それに、私とはさっき会いましたよ、コンビニで」

「ああ……」


 山田は胸を撫で下ろす。たしかにさっき見た顔であるし、こんなガキが自分を捕まえるためにここに来るとも思えなかった。だが、突きつけるナイフだけは離さない。


「なんの用だ!?」

「食べ物と飲み物を持ってきたんです。あの……女の子に食べさせてあげたいと思って。お腹を空かせていたら可哀想だから……」

「そうかい。だが、俺の方が先だ」


 そういって男はやっとツグミの喉からナイフを離し、もう少し奥に入れと手招きする。ツグミはその通り男子トイレの内部へと進んだ。奥にある個室のドアが少しだけ開いている。そこに人質の女児がいるのだろうか?


「どうぞ」


 ツグミはコンビニのおにぎりを犯人の手に渡した。だが、男は頑なに、右手のナイフを離そうとしない。もちろん、片手ではおにぎりを包むビニール袋をうまく剥がせるはずがない。ツグミが今度はペットボトルのお茶を紙コップに注いでいると、男は外装のビニールごとおにぎりを食べようとかじりついた。もちろん、うまくいかなかったが。


「もう……仕方がないなぁ」


 ツグミはもう一つおにぎりを取り出すと、床に膝をつき、ビニールの外装を自分の手で剥き始めた。男は紙コップに注がれた緑茶を口に運びかけるが、急に動きを止める。


「ちょっと待て。まさか毒でも入ってんじゃねぇだろうな?」


 それを聞くと、ツグミは無言で紙コップを奪い取った。男が「あっ」という間にそれを一気に飲み干す。


「……おにぎりも毒見しますか?」


 ツグミはすでに一つ分、ビニールの外装を剥いている。


「いや、いい……」


 ツグミの膝に置かれたおにぎりをとろうと男が手を伸ばすと、ツグミがそれを止めた。


「てめぇ、何の真似を……!」


 男がナイフを振りかざすが、ツグミの次の行動が男を驚かせた。おしぼりである。コンビニで配られるウェットティッシュ状のおしぼりで男の左手を拭いているのだ。


「もういいですよ」


 ツグミが優しくそう言うと男は、ナイフを握りしめて振り上げていた右手を徐々に降ろしていった。ツグミと同じように膝をつくと、彼女が差し出すおにぎりを掴む。一口齧ると、中に入っていたのはシャケだった。男の目から、そのシャケよりも塩辛い物が流れる。


「うめぇ……うめぇよぉお~」

「えっ!?」


 驚いたのは、再び紙コップにお茶を注いでいたツグミの方である。さっきまで獰猛な顔をしていた男が、今はその顔をくしゃくしゃにして泣いているのだ。無理もない。


「どうしたんですか!?」

「あったけぇんだよ……あんたが、あったけぇんだよ。あったけぇ……あったけぇ……」


 大の男に目前でおんおん泣かれても、ツグミは困る。だが、なんだか目の前の男が、ただ体だけが大きい子供のようにも見えてきた。その男の人生などツグミには知る由もないが、おそらく人から優しくされたことがほとんど無かったのかもしれない。


 だが、男の方を心配しても仕方がない。ツグミはきっぱりと男に言う。


「山田さん。そもそもこの食べ物は、あなたが人質にしている女の子に持ってきてあげたんです。彼女にこれを食べさせても構いませんね?」

「あ、ああ……」


 意外と強い剣幕で迫るツグミに、男はまるで姉にでも叱られたかのようにバツの悪そうな表情を浮かべる。


「それともう一つ」


 ツグミは警察にも事前に話していなかったことを男に提案した。


「人質を私と交換してください」

「なに?交換?」


 男が意表を突かれたように驚く。


「人質は一人で十分なはずですよね?私が代わります。たぶん、その子、疲れていると思うから……」

「…………」


 男は沈黙した。だが、これは肯定の沈黙だった。この先どうなるにしても地獄だろうが、それならせめて、この『あたたかい』少女となるべく一緒にいたいと思ったのかもしれない。


 ツグミはおにぎりを食べ続ける男を後にして、トイレの奥にある個室に近づいた。すると、すぐさまそのドアが閉まる。やはりそこに人質になった女児がいるのだ。近づいてきた影を、犯人の男だと思って怖がったのだろう。


「大丈夫だよ。私、食べ物をもってきたの」

「たべ……もの…………?」


 個室のドアが少しずつ開き、中から少女が顔を出した。ツグミは当初、人質にされたのは小学生の女の子だと聞いていた。たしかにそうなのだろう。顔つきは幼い。だが、発育がいいらしく、身長はツグミと同じくらいだったし、胸にも膨らみが見えた。


「…………」


 少女を見て言葉を失ったツグミは食料の入った袋を思わず落としてしまった。人質の少女はすぐさまお茶の入ったペットボトルを掴み、それをラッパ飲みする。相当喉が乾いていたのだろう。だが、それだけではない。左目に、まるでパンダのように、青黒い打撲痕がついている。男に拳で殴られたのだろう。そしてなにより、彼女の着衣が乱れているのをツグミは見逃さなかった。


「あなた……」

「ああん?」


 左手にこびりついた米粒を舐めていた男が、その声に振り返る。


(誰だ!?)


 男が一瞬そうたじろぐほど、ツグミの表情が一変していた。男の背後に立つツグミは、氷の表情で見下ろしながら言う。


「あなた、この子に何をしたんですか?」


 トイレの外で固唾を呑んで見守っている柴田巡査長は、イソップ寓話の『北風と太陽』を思い出していた。最終的に旅人に上着を脱がせたのは暖かい太陽だ。だが、なぜか同時に別のイメージも浮かぶ。

 一ヶ月前に柴田は、蜘蛛の魔女に襲われて重傷を負ったことがあった。その蜘蛛の魔女を殺し、自分の怪我を治してくれた、黒いドレスの魔法少女。夜の闇に消えたその背中と、犯人に向かっていったツグミの姿がダブるのだ。


(いいや、そんなはずがない)


 柴田は内心そうつぶやいて頭をふる。


(別人だ。あんな凍てつくような魔法少女のはずがない)

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