波打つ水平線

 シオネの家を出発した後、昨日星を眺めた高台に上り、そこから地上へ上るときのような魔法を魔法陣を使わず一人でできるように簡略しておいたものを使い、二人で海へ飛び込んだ。やがて何事もなくあの草むらに帰られた。


「まさか、濡れもせず帰れるとは……」


 行きよりもすんなりと濡れずにたどり着いたことにシオネは驚いているみたいだった。


「行きはナギさんと二人で魔法を使って濡れたのに、なぜキミ一人だけだった帰りは濡れてないんだい……?」

「ふふん……一度……やった、ことは…………いくらでも……できる……」


 私は魔法を褒められたことが嬉しくて、少し得意げになりながら鼻を鳴らす。


「なるほど。キミが天才と呼ばれる理由は高い魔力だけではないみたいだね」

「……?」


 首を傾げた私にため息をつきながら呆れているシオネ。その様子に反射で頬を膨らませる。


「もしや、自覚症状ないのかい? 魔法がどうなのかは知らないけど、普通は物事を一回やっただけで覚えられるのは極めて稀だよ」

「そう……なの……?」

「ミナモ! もう帰って来たの?」


 二人で話をしていると、森の奥から姉が駆け寄ってきた。姉が待ってくれていると思っていなかった私は、驚きながらもその顔に安心して姉に駆け寄った。


「お姉ちゃん……! どう、して……ここに……?」

「いやー、そういえば帰りのこと考えてなかったなって二人帰ってくるまでここで待ってた」

「ここで……!?」


 姉は照れ臭そうに頭を掻きながらさらっと言った内容が衝撃すぎて目が飛び出るかと思った。


「ずっと……?」

「うん。野宿してた」

「帰って……くる、のが……もっと……遅、かったら……どう……してた、の?」

「そのまま待ってたよ?」


 自分の姉の極限まで吹き飛んだ部分を初めて知って唖然とする。ふと横にいるはずのシオネがいないことに気づいた。


「シオネ……?」


 きょろきょろと辺りを見渡すと、アランヴェールを包む大きな泡の傍で倒れていた。少しでも動いてしまえば海の中へ落ちてしまいそうな場所にいたシオネに最悪の未来を想像をして恐怖に駆られながら走り寄った。


「シオネ……! 意識……失って、る……」


 この風景は記憶にあった。姉へのプレゼントを買ったときの帰りにシオネが「僕」から「私」になったときに意識を失ったときのと一緒だ。


「とりあえず私が負ぶっていくから、一緒に城に帰ろう」

「え……? でも……ここから……お城……遠い……」

「大丈夫。メイドさんのバイタリティをナメるんじゃないわよ?」


 そう言いながら軽々とシオネを背中に乗せてすたすたと歩きだす姉の後を私は遅れないようについて行く。



***



 お城へと戻る道の途中、私は姉に地上であったことを話した。祭りの話、星の話、そして、五年前の話と、本物のシオネは「私」であるということも。そのことを聞いた姉は「あのバカ、話さないって約束だったじゃない……まあいつかバレると思ってたからいいけど」と少し悪態をついていた。五年前、記憶を消されたのはシオネと私だけだったらしく、姉はそのことをすべて憶えていたらしい。確かによく考えればカンナさんも、雑貨屋の丸メガネの女性もシオネと私の顔を憶えていた。


 そして、私はその話をしながら辿り着いたお城の自室で、ある思いが心の中で浮かんでいた。シオネが話の中で整理がついてないと口に出すのを拒んだものの正体。海の中でのシオネを思い出すたび、地上でのシオネを思い出すたび、それは私の中にあるものと同じような気がしてならない。昔と今の私たちが同じ思いだったのなら。そしてそれが、シオネを縛る呪いになってしまったのなら。


「気持ち……整理……つけ、なきゃ…………シオネ、も……私、も……!」


 未だ意識を失っているシオネは私のベッドへと寝かされている。私はベッドの横から眺めるその寝顔に心を決めると、シオネが起きたときのために置手紙を残し、私は部屋を飛び出して姉の元へと向かった。


「お姉ちゃん……!」

「ミナモ? どうしたの?」

「えっ、と……シオネに……プレゼント……した、くて……!」


 突然現れるや否やそんなことを言う私に、姉はくすりと笑い出した。


「……ふふっ。懐かしいなぁ。五年前のミナモも、同じこと言ってたんだよ? リボンをプレゼントしたいからって」

「あ……うぅ……」


 なんとなく、思いの丈すべてを見透かされている気がして、恥ずかしくなる。あのリボンを見習って……五年前の自分を見習ってプレゼントで想いを伝えようとしているのは、バレているみたいだ。


「それで? 成長した今のミナモはなにを贈りたいのかな?」

「それは、ね……」


 私は姉の横に移動して背伸びをする。しかし目的の場所には届かなくて、そんな私の様子を見た姉が耳打ちをしたいことを察してくれると、私の口元まで耳が来るようにしゃがんだ。そのまま私はぽしょぽしょと喉を震わせない声に手を添えて願望を伝える。


「……うえっ!? 成長しすぎじゃない!?」


 私の贈りたいものを聞いた姉は、少し顔を赤らめながら飛び跳ねた。私は大体そんな反応を返される気がして構えていたので少し照れ臭いだけで済んだ。


「大人びてるなぁ……でも、ミナモにはまだ早いんじゃないかなー、あはは……」

「ううん……! 今、じゃないと……ダメ……なの……! 安い……もので……いい、から……!」


 私はありったけの感情をこめて姉にねだる。しばらく難しい顔をした姉は、やがて少し諦めたように首を縦に振った。


「……はぁ、こりゃ私のおこづかい吹き飛ぶなぁ。わかったよ。ミナモがそんなに言ってるとこ、今まで見たことないからね。でもその代わり! ……ちゃんとシオネに渡すのよ?」

「……うん…………絶対……」


 シオネへのプレゼントを買うために、もう一度街へと繰り出す。未だに記憶に焼き付いている、小さな銀色の光を求めて。



***



「はぁ……」


 ため息が広い部屋には響かず消える。ミナモと一緒にいても広いこの部屋は、一人じゃどこまでも続く平原より広く感じた。


 ため息の理由はただ一つ。目を覚ましたらミナモの部屋に一人でいて、近くに「地上にはもう行ってきました ゆっくり休んでください」と置手紙があったこと。


 ミナモと一緒に地上を見て回りたかった。別にミナモが行けたのならいいけど、一緒に行きたかったというのも本心。寝て起きたら変わらず海の中にいて、気づけばもう地上に行った後。一人世界から取り残された気分だった。


「せめて、ミナモとナギさんが編んだ魔法くらいは見たかったな……」


 膝を抱えながらベッドの上でいじけていると、カチャ、と物音を立てないように恐る恐る扉が開いた。いじけている姿を見られないようにと抱えていた膝を下ろして平然を装う。


「シ、シオネ……?」

「ミナモ。どうしたの? なんか、よそよそしい?」


 扉を盾のようにして身を隠すミナモは、なんだか少し様子がおかしい。そう思った矢先、ミナモがすたすたと私の前に来たと思えば、ぶつかりそうな勢いで両手を私の目の前に伸ばしてきた。


「こ、これ……! 受け取れるか……よく……考え、て……!」


 伸ばした両手の中には一つの小箱があった。私がそれを手に取ると、ミナモはそれを確認した途端走ってどこかへ逃げてしまった。


「あっミナモ! ……私、なんか悪いことしちゃったかな……」


 嵐のようなミナモが去って行った後の部屋には、静けさだけが残る。吹き抜けるような寂しさに物悲しくなって、ミナモに渡された手元の小箱を開いてみる。


「指輪……?」


 その小箱の中に入っていたのは、銀色の小さな指輪。


「綺麗……」


 光が銀色に輝いて、シンプルな装飾が可愛らしい。その可憐でどこか健気なその指輪に、私の心はさっと奪われていった。


 指輪を持ち上げて、そのままベッドに倒れ見上げるようにぼーっと眺める。指輪の中から見る世界は、私の手のひらに易々と収まってしまうくらいに小さい。


 けれど、その小さな世界の中に、私の意識は吸い込まれて行って、眠くなるような感覚がしてくる。


「あ……れ……?」


 瞼が重い。目の前の小さな世界がぼやけてうまく捉えられない。やがて私の意識は完全に落ちて、指輪を持ち上げていた腕がすとん、とベッドの上に落ちた。



***



 真っ暗闇な空間で、一人漂う。


 なにも聞こえない。目も閉じて、なにも見えない。白も黒も、わからない。


 なのに、一つの景色が見える。感情が、伝わる。もう一人の自分が伝えてくれているように。


「ああ、あのときの」


 目の前に見える銀色の光に、聞こえない言葉をこだまさせる。それはナギさんへのプレゼントを買いに行ったとき、雑貨屋の中で一際ミナモが目を輝かせ眺めていたもの。


「……はは、指輪か。子どものお遊びだな。だが、真っ直ぐなものだ。……迷っている時間はないみたいだよ、僕も、キミも」


 もう一人の自分を、軽々しく嘲笑うつもりだった。子どものおままごとと、一蹴するつもりだった。


 ――ああ。ここには、悲しみが満ちているな。



***



 ……黒だ。目を開けて、飛び込んだ景色に対する最初の感想はそれだった。段々となにか水に浮かんで揺られているような感覚がして、やがて自分が知らない場所にいるんだと自覚する。


「ん……ここ、どこ……?」


 真っ暗な空間。人の気配も、なにかあるような気も、一切ない。とりあえず身体を起こした。すると水に浮かんでいた感覚は確かにしていたのに、周りには水滴一つもなかった。


「お目覚めかい?」

「誰? ……っ!?」


 目の前の暗がりから現れた人物に息を呑んだ。その人物は、私と同じ身長で、私と同じ体形をした、私と同じ顔を持つ人物だった。


「……もしかして、あなたが本物のシオネなの?」


 そう訊くと、目の前の人物は少し考えるような素振りを見せると、ゆっくりと口を開いた。


「いや。本物のシオネは、キミだよ」

「えっ?」

「自己紹介が遅れたね。僕はシオネ。キミのもう一つの人格であり……ニセモノのシオネだ」


 耳に直接聞こえてくるほど胸がうるさく騒ぐ。心臓の音を大きく鳴らす自分と、目の前に映る自分のどちらが私なのかわからなくなりそうだ。


「ははっ。口が開いて、いい顔だ。でも僕としてはそんなに緊張しないでもらいたいんだがね。今から話すのはそう、キミとミナモの、未来の話だ」


 そう、やけに悲しい顔をして笑う目の前のもう一人の自分から聞こえてきた話は、すぐに飲み込める範囲を軽々と超えていた。五年前ミナモと私は出逢っていて、そのときの記憶が消されたときに「僕」が生まれて、その「僕」が海にもう一度飛び込んだことでミナモと再会した。


「そんな記憶、私にはないよ……」

「なくて当然だ。だってその記憶は僕が奪ったんだから。けれど、そのリボンがあることが一番の証拠だろう。キミはミナモから貰ったそのリボンすら、疑うのかい?」


 なにも言えなかった。大切な人から貰った大切なもの。誰かは忘れていても、大切なものであると憶えていたもの。それがミナモから貰ったものであるなら、記憶が消えたとしても大切だと憶えていても理解できる。


「……ねぇ、訊いてもいい?」

「なんだい?」

「あなたは、どうしてもう一度海に飛び込んだの? どうして、アランヴェールにもう一度来たの?」


 訊いた瞬間、目の前の自分の顔に暗い、暗い影が落ちた。


「ミナモに、逢いたかったんだ」

「ミナモに?」

「ああ。……さっき、僕が君の記憶を受け継いだことで生まれたと、そう言ったね。あのとき、キミから受け継いだものは記憶だけじゃなかったんだ」

「え……」


 暗い影が更に濃くなる。その姿に嫌な予感がして逃げたくなって、目を逸らしそうになってしまう。けれど、目の前の自分から目を離すことはできなかった。


「記憶とともに、キミの思考や、感情も受け継いだんだ。そして五年前のキミは……ミナモに恋をしていた」


 胸の鼓動がドクン、と大きく鳴った。


「ただ仲のいい友達同士だったなら、記憶を消されなんかしなかったさ。けれど、キミたちは、お互いをどうしようもないほど好きになってしまった。魔法で街を統べる王族の後継者である娘が、魔法も使えない人間に恋をした、その上女の子にだ。流石に見過ごせなかった王様に、二人は引き剥がされた。そして、そのどうしようもない恋心は僕に受け継がれた」

「それじゃあ、あなたは……!」

「ああ。ご察しの通り、どうしようもなくミナモを好きになったさ、今もね」


 嫌な予感が当たった。目の前の自分が顔を上げたとき、頬に伝う雫を見てそう確信した。


「でも僕はニセモノだ。ミナモを好きなのは、本物のシオネであって、僕じゃない。……けれど、耐えられなかったんだ……!」


 今まで堰き止めていたものが決壊したように、ぼろぼろと目の前の自分の目から涙がこぼれてくる。どんどん目を赤くしていく自分を見ると、心が抉られていくのを感じた。


「五年間ずっと毎日、ミナモのことを思い浮かべた! そのたび自分が好きになってはいけないと心を押し殺した! 苦しかった、狂いそうだった、壊れそうだった……! ……やがて、自分が本物のシオネだと騙れば、好きになっても許されるんじゃないかって思った。キミの人生を自分勝手に奪って、僕のものにしてしまえば、なにをしてもいいんじゃないかと思って、もう一度海へ飛び込んだ」


 そこまで言ったあと、目の前の自分は弱々しく地面にへたり込んだ。ぽたぽた、と止まない雨が地面の上に落ちていく。


「でも、違った……! 恋心と一緒に受け継いだ、キミ譲りの優しさが……っ! キミの人生を奪うことを躊躇ったんだ……!」


 崩れ落ちた自分は、涙を腕で乱暴に拭うと、私の目を見て言った。


「だから、お願いだ……キミの優しさで、僕をキミの中から消しておくれよ」

「なに、言って……」


 面と向かって、自分自身を消せと、そう突き付けられた。恋心に苦しむもう一人の自分を。


「どうして……あなたはなにも悪くないでしょ? なのになんで消えなきゃ……」

「悪いことなんて、いくらでもしてるじゃないか。キミの人生を奪いかねないことをしたんだぞ? 海に身を投げたり、今日だって、地上でキミの両親と別れを告げた」

「だからって、あなたが消えるのなんて、おかしいよ……」


 私は頭を抱えた。今目の前にいる自分は、確かに悪いこともしたかもしれない。けれど、私が忘れていたミナモのことをずっと憶えていてくれた。ミナモにもう一度廻り逢ってくれた。ナギさんへのプレゼント探しを手伝ったのだって、今目の前にいる自分だ。


 それになにより、目の前で苦しんでいる人を消すなんて、私にはできないよ……。


「だが、キミも見ただろう? ミナモがキミに渡した指輪を」


 この真っ暗な空間に目を覚ます前に渡された小箱。その中には、一つの銀色の指輪が入っていた。そのときミナモは、やけによそよそしかった。


「キミだって、もうこのプレゼントの意味はわかっているだろう。ミナモだって、もう一度キミと廻り逢って、もう一度キミに恋をしたんだ。他の誰でもない、キミに」


 目の前の自分は、涙を流しながら最大限に明るく笑おうとしながら、私に告げた。


「だから、その指輪を受け取るんだ。ミナモの想いを、受け止めるんだ。……そうすれば、僕はキミの中から消えられる」

「っ、そんなの……!」


 私はその笑顔が痛くて目を逸らして逃げた。


 ニセモノだから、消えるなんて、やっぱり受け入れられないよ……。今目の前に、あなたはいるじゃないか……! ミナモだって、本物もニセモノも、自分は自分だと、崩れ続けていく私の心を支え続けてくれたんだ……だから、だからっ……!


「私は、ミナモが好き!」

「は……?」


 目の前の自分と同じ目線になるように私は座り込んで、その自分の手を取って言った。


「あなたの話を聞いてようやく気づいたよ……私はミナモが好き。そして、あなたもミナモが好き。そうでしょ?」


 ぽかんと、目の前の自分が呆ける。その顔が頭に入ってこないほどにいっぱいいっぱいになりながら、ただ目の前の自分に向けた拙い言葉を一つ一つ紡ぎ出そうとする。


「でも、あなたが好きなのも、私が好きなのも、今のミナモ。もし、あなたが私の恋心を盗んだだけなら、あなたが好きなのは五年前のミナモになるはずじゃない?」

「……なにが言いたい」

「あなたは自分自身で……『僕』という一人の存在として、ミナモを好きになったんだよ」

「っ……!」


 目の前の自分の心が揺れるのを感じた。痛いぐらいに、はっきりと。か細い息を一生懸命吸うようにしながらただ私のことを震えながら見つめる自分が崩れてしまわないように、私は握った手にさらに力を込める。


「だって、あなたが好きなのは今のミナモ。そしてもしその感情が私から奪った感情なら、私は今のミナモを好きにならないと思うんだ。だから、同時に僕と私が今のミナモを好きになったのは、どちらもニセモノなんかじゃない、本物の感情なんだよ。優しさだってそう。あなたに優しさを譲ったのなら、私の優しさは私の中にはないよ」


 私は目の前の自分に一生懸命笑いかける。元気づけられるように、私まで泣いてしまわないように。ただ一心に手を握りながら。


「それにさ。あなた、ミナモに逢いに海へ飛び込んだんでしょ? なんの考えもなしに。それはもう、あなたがあなた自身の感情を持ってる証拠じゃない?」


 するりと、目の前の自分の手が私の手から崩れ落ちた。彼女の膝に落ちたその手の甲には、目から落ちた雫がぽつりと垂れた。


「もしそうなら、僕は……僕はっ……! どうすればいい……?」


 脆く、崩れていく自分をこれ以上零れてしまわないように、その形が保てるように、私はぎゅっと、彼女の身体を包み込んで抱きついた。


「あなたのままでいようよ。その感情も、痛みも……全部美しい、あなたのものだよ」


 背中をできる限り優しく擦る。とんとんと叩いたら、どれだけ優しくしようと砕けてしまいそうだった。私の肩が濡れていくのを感じる。


「あなたはあなただよ。今、私の目のにちゃんといるでしょ? それが本物の証」


 そう言うと、目の前の自分がぎゅっと私の服の背中部分を掴んだ。なにかに耐えるように、皺になってしまうくらい、強く。


「……やっぱり、キミは優しいな。でも……それでも僕は、キミの中からいなくならなくちゃならない」

「どうして?」

「だってこれは二人の恋なのに、僕が混ざるのなんて変だろう? それに……僕は、キミやミナモに対しての償い方をこれしか知らないんだ。僕のことを本物と言ってくれた、キミをこれ以上穢したくない……だから、僕の最期の頼みを聞いてくれるかい?」

「……なぁに」


 聞きたくなかった。だって、その願いを叶えてしまえばあなたは消えるんでしょう? そんなの、私には叶えられないよ。でも、私よりももっと苦しそうな自分の表情を見てると、自然と続きの言葉を促していた。


「ミナモの気持ちを受け止めてほしい。そしてキミから……『私』の口から、ミナモに好きと伝えてほしい。そうすれば、僕はキミの中から消える」


 そう言った瞬間、私の腕の中からするりと彼女が抜け落ちていった。


「待って!」


 どれだけ掴んでもすり抜けて、どれだけ手を伸ばしても届かない。すぐそこにいるのに、目の前でまだ泣き崩れて苦しんでいるのに。そんな自分に、触れることすらできない。


「私にはその願い事叶えられないよ! だって、あなたが消えちゃうもん!」


 どんどん目の前の自分が崩れ落ちていく。それに合わせて、どんどん視界もぼんやりとしていって、自分が遠く離れていく。


「ははっ、とことんキミは優しいな。けれど好きと言えないのは辛いだろう? キミだってミナモのことが好きなのに。だからもう、これ以上キミを苦しめたくはない。その気持ちを伝えて、僕を消してくれ」

「消えちゃやだよっ、せっかくあなたと逢えたのに! もっと話したいことがあるのに!」


 未練がましい言葉をいくら投げかけようと、それらもするりと抜けていく。最後に浮かべた、彼女の優しい心を映した笑顔だけが、鮮明に見えた。


「さようなら。……頼んだよ」

「待って、待ってよ……!」


 置いてかないでよ……。



***



 次に目を覚ますと、そこはベッドの上だった。ミナモのベッドについている、天蓋が目の前を覆う。


「シオネっ……! 起きた……?」


 横から声がして、振り向くとミナモが心配そうに顔を覗き込んでいた。


「ミナモ、どうしたの? 辛そうな顔」

「だって……あの、あと……見に来て、見たら……シオネ……倒れて、て……」


 指輪を渡された後、私は指輪を眺めた直後に意識を失い、あの真っ暗な世界に行った。その意識を失っていた間に、ミナモが部屋を訪ねてきたのだろう。そのときに私が気を失っていたら、驚くのも無理はない。


「ごめんね、迷惑かけちゃったね」


 私は上半身だけ起こして、目を瞑って俯く。そして胸の手を当てて、先ほど起こったことに頭と心の中を少し整理すると、ふと不思議なことが起こっていることに気づく。そのことに胸の辺りがじわりと滲むのを感じると、おもむろに口を開く。


「……あのね、今、起きた途端、知らない記憶を思い出したんだ。知らなかったはずの記憶を。そしてその記憶の中で、私は自分のことを『僕』って呼んでた」

「……! それ、って……!」


 ミナモが目を見開いて見つめてくる。急に流れ込んできた、知らない記憶。それは、間違いなく目の前で崩れていった彼女のものだった。


 ミナモに力なく微笑みかけると、私は続きを口から零した。


「胡蝶の夢なんかじゃなかったんだ。ちゃんと、現実だった。……でも、肝心の胡蝶が、もう一人いるはずの記憶の持ち主が、夢の中から帰ってこないんだ」


 胸に滲んだものが全身に行き渡るのを感じた。それは私の心を空虚に染めて、もう一つあったはずの心がなくなって、ぽっかりと穴が開いたことを知らせた。


「消えちゃった……! 全部、私に託してっ……! まだ全然おしゃべりできてなかったのに……! 悲しい顔してたのにっ……どこかに、行っちゃったよ……!」


 大粒の涙が落ちてきて、布団を濡らした。ミナモが、なにも言わず私を横から抱きしめてくれた。それが痛くて、胸の奥に深く刺さって、辛くないのに、ありがたいのに、涙が止まらなかった。

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