空へ落ちる、海に浮かぶ星
「ミナモ、起きて」
揺れる。ゆさゆさと揺らされている。
「起きて。朝だよ」
優しく落ち着いた声とともに、瞼に陽の光が差しこんでくる。それに朝だと気づくと、私は身体を起こそうとする。
「ふわぁ……」
「おはよう、ミナモ」
「おは……よう……シオネ…………シオネ……?」
寝ぼけた目をこすりながら、シオネを見る。どこか違和感を感じた目の前の人物の少し暗い瞳を見て、その違和感がわかった。
「……もし、かして……僕の、方……?」
「……ふふっ。すごいね、ミナモ。一瞬で見抜いてしまった。……そんなに、『私』と僕は違っていたかい?」
「はっきり……違う……わけじゃ……ない、けど…………少し……目が……曇って、て……」
「目が?」
「うん……寂しそう、な……目……」
「寂しそう……そうか。そんな目をしているんだね、僕は」
私から目を逸らし、遠くを見るその瞳が、少し揺らいだ気がした。私はそれに首を傾げると、シオネは小さく笑った。
「ほら、早く起きて支度をしないと、ナギさんに怒られてしまうよ」
「そう、だ……」
今日、私はシオネとともに地上へと行く。一切変わらないこの街の空と違って、白い綿が浮いたり、上から水が落ちて来たりするような、そんな未知の世界に行くんだ。
「……よし」
私はドキドキしている胸の前でぎゅっと手を握って、ベッドから降りた。
***
ベッドから起きて少し経つと、朝食を持ってきた姉と出会う。
「あなたはっ……!」
その姉はシオネの違和感に気づくや否や、鋭い視線で貫いた。
「どうしてあなたがいるの!」
「たまたま起きていたのが僕だった。それだけだ」
「馬鹿言わないで……! あなたとミナモを二人っきりにさせるわけにはいかない」
「どうしてだい?」
「あなたがいると嫌なことが起きるからよ! あなたがいなければ、あの夜ミナモが辛そうな顔で私の部屋の戸を叩くこともなかった!」
険しい顔で大きな声を出す姉にすくんでしまう。けれど、シオネと一緒に行かなければいけない理由がある。一緒に行くと、約束したから。私は二人の間に分け入って姉にしがみつく。
「おねがい……お姉ちゃん……! 一緒に……行かせ、て……!」
「ミナモ……? どうして、この人といるとまたなにか辛いことが起きるかもしれないんだよ?」
「シオネも……『私』の方、も……行って……ほしい、って……!」
「え?」
「昨日……約束……した、の…………どんな……シオネ、でも……一緒に……行く、って……! それに……僕の、方……だって……悪い子じゃ、ないもん……!」
必死に目尻に涙を浮かべながらしがみつく私に、やがて姉は優しくぽん、と手を乗せた。
「……そう。ミナモがそこまで言うなら、仕方ないか。一緒に行ってもいいわ。けど、もしなにかあったら、ミナモはこの人から離れてね」
「やれやれ、そこまで信用されてないんだね」
「とぼけてんじゃないわよ……!」
「やめて……!」
もう一度怖い顔に戻った姉に必死に負けない声を出す。姉のメイド服に涙を染み込ませんとばかりにぎゅっとしがみつく。
「仲、良く……して……」
「……ごめんなさい。私、少し頭に血が上ってるみたい。悲しませたいわけじゃないのに。……こんなところでたむろしてる場合じゃないわね。そろそろ行きましょうか」
姉が私を優しく離して、部屋の扉を開ける。とうとう向かうんだ、シオネの故郷に。私は姉とシオネの溝に少し引っ掛かりながら、その部屋を後にした。
***
何度目かの城からの抜け出しを成功させ、姉に連れられるまま街の通りを真っ直ぐと歩いた。魔法を使おうと考えていた場所があるらしく、そこに向かっているのだが、今まで歩いたことのないくらい長い距離をずっと真っ直ぐ歩いているだけで、一向にその場所には着かない。
「ま……だ……?」
森のように木々が立ち並んでいる中を私たちは突っ切っているのだが、普段脚を使うことがない私は極限まで疲弊して、あと散歩でも進めば倒れてしまいそうなほどへろへろだった。
「もうすぐだから、頑張ってくださーい。このあと魔法だって使わないといけないんだからね?」
「えぇ……」
「大丈夫、ミナモならできるさ」
姉の言葉を聞いた瞬間眩暈がするくらいに絶望した。けれど隣にいるシオネが私の手を握って励ましてくれたおかげで、少しだけ視界がまた開けた。
数分後、周りの木々が少しずつ少なくなっていき、やがて開けた空間に出た。
「着いたよ」
その場所は草むらに覆われていて、人がいる気配は一切ない。そしてなによりも目を引くのは、その空間の端、そこには空にあるようなこの街を海と隔てている大きな泡の膜が触れられるような位置に存在していた。
「ここは……」
「……? なにか……知って、るの……?」
「いや、なんでもない」
目の前の景色にシオネが含んだ言い方をして、その顔を伺う。けれど言葉の真意までは読み取れず、訊いても首を振られるだけだった。
「ここは街の端っこなの。つまり街を包んでいる泡の一番端、この膜の先を行けば海の中よ」
「なるほど。地上に行くには海の中へ潜る必要がある、それでここで魔法を使うというわけか」
姉が「ご名答」とシオネを指差す。そのあと自分が持ってきている鞄の中から、一つの大きな紙を取り出した。
「それは?」
「魔法陣。超ざっくりいうと大きな魔法を使うときに使うものなの。地面に書くの面倒だから紙に書いて持ってきたわ」
昨日私と一緒に大きな紙に書いた円形の模様。とてつもない大きさで人が横に寝ても収まってしまうくらい。書くときは二人で床に置きながら書いていた。これが今回の魔法を使う上で要となるものだった。
「二人とも、この円の真ん中に立ってちょうだい」
促されるままシオネと私は円の真ん中に向かい合って立つ。それを確認した姉と目を合わせて頷くと、私は聞き手と逆の手をシオネの手と繋ぐ。
「握ってて、もらっても……いい……? その、方が……力が……出るから……」
「……ああ」
シオネに手をぎゅっと握られる。そこから伝わる温もりが、シオネの期待とともに私の中へ流れてくる。私は手を握ったまましゃがんで、足元の図が書いてある場所に聞き手を乗せる。
「それじゃあ、いくよ。――いってらっしゃい、二人とも」
「うん…………いって……きます……!」
その言葉を合図に、姉と私は描いた魔法陣に魔力を注ぐ。するとシオネと私を包むように一つの大きな泡が作られていく。やがてその泡が膜を膨らませて丸く綺麗な形になると、シオネと私の身体はこの街を囲っている泡の膜を破ってしまわないようにすり抜け、海へと飛び込んだ。
「うわ……ぁ……」
「怖いなら、こっちの手も握ってあげよう。僕には、それくらいしかできないからね」
「……! うん……あり……が、とう……」
そのまま私たちの身体は街の地面から離れて落ちていく……いや、厳密には浮いていく。
下で手を振る姉がどんどん遠くなって、やがて見えなくなった。海の中では私たちを包んでいる泡の外が青く染まり、水に流されるような感覚を得る。
「不思議な……感覚……」
泡の中は空気で満たされて、息も不自由なくできるけど、身体は水の中にいるような感覚で、泳ぐこともできる。魔法を編んだときの想定通りになっているみたいでホッとするが、それでも不思議な感覚に落ち着くことはできない。やがて青の色がどんどん淡くなって、光が見えてきた。
「もうすぐ、地上だね」
「うん……!」
そのまま光に包まれるかのように、私たちは目の前で揺らめいている空を突き抜けた。
「……ふわぁっ……!」
その空を突き抜けると、ぱん、と泡が割れる音がした。
「……? わっ……! つめ……たい……!」
「大丈夫かい、ミナモ。僕に掴まって」
急激に服の中に水が染み込んできて、頭の中が真っ白になってしまう。シオネに手を引かれながら、私もシオネの身体に必死にしがみつく。
「地上に着いたみたいだ。ほら、上を見上げてみて。海とは違う青色。雲もあるよ」
「……! これが……空……あれ、が……雲…………ふわ、ふわ……」
淡い水色の海に浮かんで悠々と泳いでいる白いふわふわ。あれが泳いでいる場所は、アランヴェールの空よりも遠い場所にあるように感じられた。
「地上に着いたけど、泡が割れてしまったね。今僕たちは海の上にいるみたいだ」
「海の……上……! ここ……海の……一番、上……なんだ……!」
「全身びしょ濡れなのになんだか楽しそうだね」
地に足がつかない不思議な感覚。シオネが手を離せばどこまでも落ちて行ってしまいそうな不安定な場所にいるのに、私の心は浮かれたまま。
「おーい! お前シオネじゃないかー!? なんでそんなところにいるんだー!」
「っ!?」
不意にどこかから大きな声が聞こえてきて、シオネの身体がびくっと跳ねた。
「シオネ……? あれ……誰……?」
声が聞こえた方向を見ると、海の上に大きな木の籠のようななにかが浮かんでいて、その上に立って私たちに手を大きく振る男の人がいた。
「あっ、船のおじさん! えへへ、ちょっと海で泳いでた!」
「……!?」
シオネが一瞬黙ったかと思ったら、次に口を開いたときには朗らかな声とともにその男の人に笑顔で手を大きく振り始めた。まるで「私」のように。でも、シオネの瞳は雲に覆われた月のような暗く静かな色のままだった。
「泳いでたってお前……今引き上げるから待ってろー!」
***
私たちは呼びかけてきた男の人とその人が乗っていた大きな木の籠に一緒にいた数人の大人達に引き上げられて、その籠の上に乗った。
「ありがとうおじさん!」
「お前どこ行ってたんだ? 急にいなくなったって、みんな心配してたぞ?」
船の上に乗ると慣れた手つきで服から水気を絞り取るシオネと、それを心配そうに見る男の人、シオネからおじさんと呼ばれたその人が会話を始めた。けれど私の意識はシオネの暗い瞳に吸い込まれたままだ。
「ミナモ……ミナモ?」
「はっ……」
不意に耳元でささやくように静かで落ち着いた「僕」の声が聞こえた。気づかぬうちに会話は終わっていたようで、船の上の大人たちは先ほどのおじさんに指示されてなにかをしているみたい。
「今からおじさんたちが船で街まで送ってくれるらしい。さっきの船乗りのおじさんは知り合いだったんだ。助かったよ」
「ふね……?」
「ん? ああそうか、海の中だと船はないのか。この乗り物のことだ」
シオネが木の籠に向けて人差し指を下に差す。今私たちを乗せて少し大きく揺れ始めたその籠はそのようにいうらしい。
「海の上を移動するための乗り物だ。揺れるから、掴まってるといい」
そう言って私に手を差し伸べてくれる。私はその手を取って、わけもわからぬまま水の上で揺られる不思議な感覚に翻弄されていた。
***
「じゃあな。お父さんお母さんにちゃんと会うんだぞ」
「うん、バイバイおじさん」
船に揺られる時間はすぐに終わって、気づけば街の端っこであるという船の乗り降りをするところに下された。泡に包まれてからのたったの数分……もしかしたらもう少し経っているかもしれないけど、長い時間経っているわけでもないのに地に足つけて立つ感覚が久しぶりに感じる。
おじさんたちを乗せた船が再度海に消えていくのを眺め終わると、振っていた手を下ろすのと同時に顔から明るさを消したシオネが口を開いた。
「さて、行こうか」
「行くって……どこ、に……?」
「……僕の家だ」
「……!」
「ミナモ、少しいいかい?」
シオネが身体ごと私に向けて真剣な表情を顔に宿す。その様子にごくりと唾を飲むと、シオネが再度静かに喋り始める。
「話を、合わせてほしいんだ」
「話を……?」
「ああ。……僕は、さっきまでみたいに『私』を演じる」
「そう、だ……さっきも…………どうして……『私』、に……?」
「……今は答えられないかな」
それだけいうと、やや強引に私の手を引いていく。その勢いに取り残されてしまわないよう私も少し速めに歩を進める。
街の中に入ると、その景色は妙に見覚えがある気がした。それはそうだ。この街が、私の故郷の元になったのだから。ところどころ……というよりほぼ違うはずなのに、少しだけ似ている部分があたり一面に散りばめられて、不思議な感覚。シオネが来るまでまともに故郷の街並みを見たこともなかったのに、昨日今日の景色が懐かしく感じる。冒険という新鮮な記憶が強く刻まれたからだろうか。
街の中へと入り込んでいくうちに、街の真ん中に一際目を引くものがあった。
「……!? 私の……お城……!」
街の中心、どこからでも見えてしまうくらい大きな建物を指差す。それは私が住んでいたお城と瓜二つの姿をしていた。
「キミのではないけどね。確かにキミの住む城の元になったものだ。今考えると、本当にそのまま街を作ったみたいだね」
「こんなに……似てた、んだ……」
その姿を見ていると、少しだけ知らない土地への恐怖心が和らいでいくのを感じた。
「着いたよ」
「え……早、い……」
その城に釘付けになっていたからか、気づかぬうちに周りの景色は変わっていて、立ち止まったシオネは目の前の建物を指差した。その建物を見た瞬間……というより、建物の周りを見たとき妙な違和感を感じた。
「教会……?」
教会の姿は欠片もない、ただの家なのに、その場所はどこかカンナさんがいる教会のような雰囲気が漂っていた。
「もしかしたら、元々この場所には教会が立っていたのかもね。今は別の広い場所に移ったからここは住宅街になっているけれど、アランヴェールはここに教会があったときに作ったのかもしれない」
「あ……」
アランヴェールは、街をそのままそっくり鏡写しにして作ったと聞いた。その街を作ったときにここに教会があったとするなら、初めて街へ冒険に繰り出したときにシオネが「家に着く抜け道」を記憶通りに通ってその結果教会に着いたことにも説明がつく。
「無駄話をしていないで、さっさと入ってしまおうか」
シオネが目の前の扉を開ける様子に、私はごくりと唾を呑む。扉を開けた先には、二人の大人が中にいた。
「シオネ……!」
「お母さん!」
中にいた女性を見てシオネがお母さんと言った瞬間、シオネは「私」へと化けた。そんなシオネにお母さんと呼ばれた女性は近づいてそっと抱き寄せた。
「どこに行ってたの、心配してたのよ! 帰ってきてよかった……」
「お母さん、苦しいよ……」
涙を浮かべてシオネを離さんとする女性に苦笑いを浮かべるシオネ。その様子を見ていた家の真ん中くらいにいた男性もこちらに寄って来た。
「おかえり、シオネ。そちらのお嬢さんはお友達かい?」
急に私を指差されびくっとしてしまう。私が緊張のあまり喋り出せずにいると、横からシオネが女性に抱き着かれながら手助けをしてくれた。
「この子はミナモ、お友達なんだ。帰る場所がないっていうから、連れてきちゃった」
驚いてシオネの方を見る。確かに帰る場所は地上にはないけれど、迷子のようにそう言われて少し不満。けれど話を合わせてくれと先ほど言われたので私は無言で首を縦に振る。
「シオネ、見ず知らずの子を……!」
「いいじゃないか、母さん」
男性は目に涙を浮かべたままシオネに物申そうとした女性を優しく留めた。
「シオネはそんな悪い子を連れてくるような子じゃないよ。それに、行くところがないなんてかわいそうじゃないか。だからせめて、どこか行く場所が見つかるまで家にいさせてあげてもいいんじゃないかい?」
「お父さん、だからって……」
「お願い、お母さん。ミナモを一緒にいさせてあげて……!」
「……お願い……します……!」
必死にお母さんに掛け合うシオネの姿を見て、自然と私は女性に頭を下げた。その姿に折れたのか、女性はため息をついた後、仕方なさそうに言った。
「わかったわ、シオネがそこまで言うなら。少しだけだけどね?」
「やった! ありがとう、お母さん!」
「ありがとう……ござい、ます……」
そんな風にして、私はシオネの家族の一員となった。
空き部屋はないから、とお母さんにシオネと一緒の部屋に入ることを申し訳なさそうに伝えられたけど、海の中では私の部屋で元々二人で過ごしていたので全く気にならなかった。むしろありがたかった。
「話を合わせてくれてありがとう」
お母さんが出て行って、二人きりになった部屋の中で「僕」に戻ったシオネがそう言った。部屋の中はあまり広くはなくて、私の部屋と比べたらものすごく狭かった。
「すごいよね、『私』は。その優しさで、みんなから信頼されて、すんなりとミナモを家に上げられてしまった」
「もしかして……『私』に……なったの、って……私を……家に……入れる、ため……?」
「さて、どうだろうね」
手を広げてはぐらかすシオネに、少し頬が膨れる。そうしていると、シオネは服のポケットからなにかを取り出した。
「あ……それ……」
びしょびしょに濡れてしまったそれは、数日前『私』の方のシオネが書いていた、地上に上がったら私とやりたいことをまとめた手紙だった。海の上に上がったとき、魔法の泡が割れて服の中に水が染み込んでしまったから、その拍子に濡れてしまったんだ。
「心配はないよ。内容は全部覚えてる」
「でも……まだ……開いて、ない……」
濡れてしなっとなってしまった手紙は未だ封をされたままだ。けれど目の前のシオネは当たり前のように答える。
「僕はシオネだからね。『私』がやったことも、すべて記憶の中にあるんだ」
『私』の記憶も、僕の方にはあるのだろうか。『私』の方は僕であるときの記憶は一切ないのに。それは本物のシオネである『僕』の特権なのだろうか。少し、不条理だ。
「ほら、俯いている時間はないよ。やりたいことをやるんだろう?」
「えっ……?」
下を向いてしまった私の手を取ってシオネは部屋の扉の前に立つ。
「今日は偶然にも祭りの日だ。『私』が言ってた、灯送りの、ね」
「あ……」
「祭りの日には、街も賑やかになる。ちょっとした屋台も出るんだ。手紙の中には、その屋台をミナモと一緒に回りたいとも書いてあったよ。それとも、行かないのかい?」
あのとき、私と小指を交えたシオネの笑顔を思い出す。無邪気で、純粋で、私と地上に行くことを心から楽しみにしていて。薄暗い夜の部屋で、一人手紙に願いを綴ったシオネの気持ちを、無下にしたくない。
「ううん……行く……! お祭り……行き、たい……!」
私の言葉を受け取ったシオネは私に笑って返すと、手を引いて狭い部屋の中から出て行った。
***
お祭りを理由にシオネのお父さんとお母さんからそれぞれおこづかいをもらって外に出ると、先ほど街に来たときよりも人がごった返していた。
「もう祭りは始まっているみたいだね。この波に乗り遅れてはいけないよ」
「あ、待って……シオネ……」
シオネは先ほどよりも力強く私の手を引っ張って人の波へと入り込んでいく。少し見える横顔には、うっすらと笑みが浮かんでいるような気がして、もしかしたらシオネも少しだけ浮かれていたりするのかな、なんて思った。
行き交う波の中、私たちは気になる屋台をそれぞれ回っていった。おいしそうな食べ物やお菓子、カンナさんの教会にいる子どもたちと同じくらいの年の子たちが集って楽しんでいる遊び。街のど真ん中でやっている見世物。目につく一つ一つが、私のとってどこまでも刺激的だった。
食べ物を売っている屋台を回ればすぐに両手が塞がり、くじ引きをやっている屋台でくじを引けば外れしか出なくてとことん落ち込んだ。この街の住人は魔法を知らないから、驚いてしまわないように魔法は使わないでくれ、と言われていたのに輪投げという遊びをやっている屋台に行ったときは、無意識に魔法で輪の軌道を変えようとしてしまい、それを察したシオネに止められた。
一方のシオネは、この街では結構顔が広いらしく、屋台を営んでいる大人たちにしばしば声をかけられていた。そのたびにシオネは『私』を演じて明るく振舞っていた。
「お城に籠っていたお姫様には未知の世界といった感じかな。見たことないくらい羽目を外しているね」
「そう……かな……」
嬉しそうに笑うシオネに言われて気づく。知らぬうちに私の手を引いていたシオネは私の後ろにいて、今は私がシオネを引っ張っていくような形になっていた。
「そんなにぐいぐい引っ張っては、転んでしまうよ?」
「ご、ごめん……なさい……」
自分のはしゃいでいる姿にようやく気付いて、私は恥ずかしくなってパッ、とシオネから手を離してしまった。
「ははっ……おや、もう、こんな時間か」
シオネがぽつりと言った。それに反応して空を見上げると、赤く焼ける空に濃い紫に広がる深い空がゆっくり静かに染め上げられていた。
「すごい……綺麗……」
赤くなる空なんて初めて。深い紫に広がる空だって見たことがない。海の中の夕方よりも明るく、海の中の夜よりも暗い空に、私は目を輝かせた。
「そろそろ、星が見られるかもしれないね」
「星……!」
前からずっと、地上に行くという話をする前からずっと約束していた、いつか一緒に星を見るという夢。もう少しすれば、その夢が叶うかもしれない。私はもう一度赤と紫が広がる空を見上げた。
「少し移動しようか。星が一番近くに見える、お気に入りの場所があるんだ」
***
私はシオネについて行き、森のように木々が立ち並んでいる街の外れを二人っきりで歩いていた。その風景はどこか見覚えのあるもののような気がして、この既視感はおそらくアランヴェールにあった景色と重ねているのかな、と今までのことからそう考える。
「着いたよ」
周りの木々が少しずつ少なくなっていき、やがて木々を突き抜けると、開けた空間に躍り出た。
「ここって……」
私はその草むらを眺めて既視感の正体を思い出す。ここはアランヴェールからこの街に来るとき、ナギと地上へ行く魔法を使ったあの場所とそっくりだった。
「思い出した、という感じだね。そう。あの草むらの元になったのはここさ、ここも街の一番端にある。この街で一番高い場所にある高台でね、一番空が近くに見える。それに、下を見れば海も見えるよ」
シオネと手を繋ぎながら目の前の地面が途切れた部分から下を覗いてみると、想像以上に高かったこの場所に足がすくんでしまった。
「あはは、少し怖かったかい? ここは崖になっているからね、落ちたら海に真っ逆さまだ」
「そんな……軽く……」
「それに、海を見るのにわざわざ下を見る必要はないよ。ほら、横を見てみて」
私の右方向に差された指を辿るように視線を横に動かすと、先ほど私たちが船に乗ってたどり着いた場所と、そこの近くに広がる砂浜があった。その奥に広がる大海原も見えなくなるくらい遠くまで見通せる。
「すごい……」
「気に入ってもらえたみたいでよかった。……まだ星が出るまでは時間があるから、少し座って雑談でもしてようか」
そう言ってシオネは草むらの上に腰を落とす。私もそれに倣って横にくっついて膝を抱えながら座る。
「……」
おしゃべりをすると言っていたのに、シオネはなにも喋らない。心を読めない表情は、変わらずそのまま。
それならと、私は今まで気になっていたことを切り出してみることにした。
「ねえ……シオネ……」
「うん? どうしたんだい?」
「……本物の……シオネは……もし、かして…………『私』……の、方……なの……?」
それは、船のおじさんにあって『私』を演じ始めたとき。お父さんやお母さん、この街の誰に逢うときも、すべて『私』となって存在したシオネを見続けて、私は一つの答えが頭の中に浮かんでいた。
「……月が綺麗だね」
「ごまかさないでっ……!」
「ははっ、弱ったな……」
シオネがまたさりげなく笑ってはぐらかした、と思った。けれど、シオネの上に張り付いた笑顔は引き攣っていて、私の胸の内にふっと風が吹いた気がした。
「……カンナさんにでも倣って、少し昔話でもしようか」
私から目を逸らして、シオネは目の前に広がる海を見た。海は沈んて行く太陽の最後の輝きを消させはしないと言わんばかりに輝いて、遠くで空と海が一つになる場所をも赤く燃え上がらせていた。シオネはその場所よりも、もっと遠いどこかを見つめているような瞳で、ぽつりと告げた。
「――五年前、キミと『私』は出逢っていたんだ」
「えっ……」
耳を疑った。固まってしまって、返す言葉がしばらくでなかった。
「どういう、こと……? それに……『私』……?」
「そう。『私』の方だ。五年前の『私』は、とあることで海に落ちたんだ」
「とある……こと……?」
「ここから、落ちたんだ。綺麗な星に見惚れて。『空に広がる星を掴んでみたい』と思ったんだ。それで、そこの崖の端っこまで行って手を伸ばせば届くかもしれないと考えた」
シオネが指差す目の前の先。先ほど下を覗き込んだときの記憶が蘇り、小さく身震いした。
「子どもらしい馬鹿な考えだよ。そして背伸びをして星に手を伸ばしたとき、足を滑らせてそのまま海に飛び込んだ。……これが、五年前のキミと『私』が出逢ったきっかけだ。そうして落ちた私は、海流がうまく流してくれたのか、はたまた魚にぶつかりでもしたのかわからないけど、奇跡的にアランヴェールへと辿り着いた。辿り着いた場所は、キミのお城の花畑だった」
「えっ……!?」
五年前、と言われたはずの話に頭の中にある記憶が混同して一瞬でこんがらがった。その様子を見たシオネは無理もないといったように小さく笑って言った。
「キミは二回、あそこで『私』と出逢っているんだ。不思議なものだろう?」
「二、回……」
「キミは五年前も、同じように接してくれた。行く当てのない『私』を自分の部屋に招き入れ、匿ってくれた。ベッドの上で『私』の故郷の話に驚くのも、私に連れられて街へ冒険に繰り出すのも。いつかナギさんやカンナさんにバレるのだって、同じだ」
目の前のシオネから出てくる話がすべて自分の記憶にあるものと一致する。けれどその記憶は、つい先日シオネが来てからの一つしか私にはない。
「ある日、キミは『私』にプレゼントを用意した」
「プレゼント……?」
「これだ」
そう言いながらシオネは頭の後ろをこちらに向けて、それを触りながら示す。
「……! リボン……?」
「ああ。……すごく大切な人から貰ったものだと、『私』が言っていただろう? その大切な人はキミだ、ミナモ。キミは五年前、『私』にプレゼントをしようと、雑貨屋に言ってこのリボンを作ってもらったんだ。憶えているだろう? ナギさんへのプレゼントを買ったあの雑貨屋」
そういわれてハッとする。気怠そうな丸メガネの女性が営んでいたあの雑貨屋。あそこに入ったとき、女性は私のことも、ナギのことも知っているみたいだった。よくよく考えてみれば、アランヴェールに来て間もないシオネがあの隠れるようにして立っているお店を知っていたこともつながる。お店に入った直後に女性と内緒話をしていたのはこういうことだったんだ。
「オーダーメイドだったらしい。あの人が言っていた大事な客って言うのは、キミのことさ」
「そう、だったんだ…………でも……そんなに、濃い……思い出が……あるなら…………どうして……シオネも……私も……忘れちゃった、の……?」
「……ある日、『私』の存在がキミの両親にバレたんだ」
「……!」
どうしてか、そういわれた瞬間先が見えたような気がした。考えたくない、最悪な未来が。その未来への恐怖に、背筋に寒気が上って来た。
「王座の跡を継ぐ者が、魔法使いの天敵である普通の人間と仲良くしていたとわかれば、それは見逃されることはないだろう」
「お父様、と……お母様、が……私たちの……記憶を……消した、の……?」
「ああ……記憶を消す魔法を使って」
「でも……お父様、も……お母様、も…………そんな……酷いこと、する……人じゃ……!」
「僕だって知っているさ。五年前の少しの記憶でも、とてつもなく懐の広い人だということがわかるくらいには優しい人達だったよ。ミナモが、『私』と普通の友達であったなら、記憶を消すことなんかしなかっただろうさ」
「え……? それって……どういう、こと……?」
私がそう訊くと、シオネはずっと眺めていた目の前の海から視線を下に落として、一段と暗い声で呟いた。
「……これは、まだ話せそうにない」
「どう……して……?」
「僕の心の整理が、ついてないんだ」
もしかしたら、心の中にある深い傷をえぐってしまったのかもしれない。私は横から少しだけ見えるシオネの表情を見て、そう思った。どこか苦しそうな表情だったから。
「話せるときが来たら話そう。……そのときは、僕の口からではないかもしれないけれど」
「……?」
「話を戻そう。そうやってミナモと一緒にいた記憶を消されそうになった瞬間、『私』は、記憶を残すために本能的に身体の中で無意識にとあることをしたんだ。……シオネという人間の中に、もう一つの人格を作った。……それが、僕だ」
「……!」
その言葉が、私の答えを裏付けてしまったことはこれ以上ないくらいわかった。知りたかったはずで、けれど知りたくなかった矛盾に、心臓の音が早くうるさくなる。
「僕は海の中で過ごした記憶を全て引き継ぎ、その代わり『私』は海の中での全ての記憶を失った。これでもうわかったかな。……本物のシオネは『私』で、偽物のシオネは、僕だ」
会話の中で、初めてシオネと目が合った。曇った瞳の奥底が、初めて見える気がした。けれど今の私には、そんな勇気はなかった。泣き出してしまいそうなほど脆い表情をするシオネの心を覗くことなんてできなくて、目を逸らして逃げた。
「……そして五年間の間、またここに戻ってきたシオネはそれまで通りの生活に戻った。僕がいること以外はね。僕はシオネが二重人格だと誰にもバレないよう『私』のフリをし続けた。さっきの船乗りのおじさんや、お父さんお母さんに対しての演技はそのためさ」
「でも……そのあと……もう、一度……アランヴェールに……戻って、きたん……でしょ……どう、やって……?」
「……僕がもう一度海に飛び込んだ」
「どう……して……?」
「……言えない」
「さっきの……言えなかった、のと……同じ……?」
「ああ。まあ、同じかな」
シオネは私に目を合わせてそう言ったあと、逃げるように海の彼方を見つめた。私はその目の先を追って、同じように空と海が溶け合う場所を眺める。
「海に……飛び込んだ……として…………よく……アランヴェールに……着いた、ね……」
「ああ。僕もそう思うよ。なんぜ無策で飛び込んだからね」
「無策、って……危ないんじゃ……!」
先ほどの崖の下。あそこから見ただけでも命の危険は直感でわかった。そこに自ら身を投じたというのか。
「そうしてしまうほどの、理由があったんだ。身勝手に『私』の人生をすべて奪いかねないような行動に出てしまうほどの。もしその理由を聞いたとしても、誰にも理解はされないと思うけどね。それくらい、身勝手だったんだ」
そう語るシオネは、もう一度下に俯いた。弱々しく自信のない表情は、もう少し夜が更ければそのまま夜の中に消えてしまいそうなほど暗かった。違うと言いたくても、彼女の奥底までわからない私の言葉じゃ夜に消えたその場にこだまするだけのような気がして、言えなかった。
「どんな理由があろうと、普通は海に沈んだだけではアランヴェールに辿り着くことはできないだろう。なんせ地上の人間に気づかれないために土地と浮力を反転させてまで作ったんだ、当然だよ。……ただ、唯一行ける方法があった。当時も色々な条件下で奇跡的に行けたというのはわかっている。けれど、確かに五年前、『私』はそこに沈んでアランヴェールへと辿り着いた。その方法だって確実じゃない。むしろほぼ不可能なことぐらい僕だってわかっている。けれどもうどうすることもできない気持ちにヤケを起こしたんだ。五年前のあの日と同じくらい輝く満天の星空の中、もう一度キミに逢えるように願いながら、飛び込んだ」
シオネとともに眺める目の前の海に、吸い込まれて落ちていくような感覚がした。その恐怖心を塗り替えてしまうほどの強い気持ちが、今も、整理がつかないままシオネの中にある。それは……どれほど苦しいのだろう。
「まあ、結果としては幸運なことにもう一度アランヴェールへと辿り着いたけどね。もしかしたら、キミの中に眠っていた昔の記憶が共鳴でもして、魔法で手助けしてくれたのかもね……なんて、夢を見すぎた考えかな」
俯きがちになったシオネ同じように私も俯きめになって考える。花畑で倒れているシオネを見つけたとき、服が濡れていたような記憶はなかった。ただ時間が経っていただけかもしれないけれど、海の水が普通の水と同じ乾き方をしないことは未だほんの少し湿っている服が教えてくれている。だからそれは魔法のせいであると考えるのが妥当なのだけど、私はあのとき魔法を使った覚えなんてない。
「あ……ある、かも…………その……リボン……」
不意に一つの考えが思い浮かんで、私は顔を上げてシオネの髪を結っているリボンを指差す。
「リボン?」
「うん…………前に……物にも……魔法が、宿るって……話した……でしょ……? それは……昔、私が……贈った……リボン、だから…………私の……魔力、を……宿して……その、魔力で……シオネを……導いて……くれた……の、かも……」
ずっと肌身離さず付け続けているシオネのリボン。今海から吹き抜ける風と同じ匂いが染み込むほど長く使っているそのリボンは、五年前のシオネと私の思いが強く宿っているはず。だから、離れ離れになっても、もう一度あの花畑で出会えるよう、その思いに自然と魔力が宿ったのかもしれない。
「なるほど。キミは確か尋常ではないほどの魔力を有しているんだったね。それなら、僕みたいな普通の人間が理解できない不可思議なことがいくつ起きようと納得できる。そのリボンの話も、あり得ることなのだろう。そうか……キミが、もう一度廻り逢わせてくれたんだね」
シオネが、優しい手つきで髪のリボンに触れる。久しぶりにシオネに和らいだ顔が浮かんで、胸の中からもやもやが少しだけ抜けていく。リボンに触りながら空を見上げたシオネが、なにかに気づいた。
「話しているうちに、星が出てきていたみたいだ。ほら、上を見てごらん」
シオネが指差す先を辿っていくと、遠い遠い空の中、散りばめられたいくつもの光の欠片が深い黒の中輝いていた。どの欠片も周りの光に飲み込まれることなく自分の輝きを放っている。その一つ一つが集まって空を照らしているから、今まで見たどんな夜よりも明るい。
「……すご……い……」
「はは、静かなキミの声が更に小さくなってしまっているよ。声を奪われてしまうくらい、気に入ったのかい」
「うん……! いつまでも……見ていたい……!」
「そうか。でも上ばかり気にしていると、下の光を見逃してしまうよ?」
「下……?」
今度は右斜め下を差すシオネ。先ほどと同じように指先を辿っていくと、空よりも明るい光がどんどん砂浜から海へと広がっていくのが見えた。
「うわぁ……!」
「これが灯送りだ。『私』が、キミと一緒に見せたいと言っていた、ね」
よく見ると海に広がっていくそれはオレンジの光で、それを一つずつ手に持った人々が砂浜から次々と海へ放している。昨日シオネに聞いたことを思い出して、その光が死者の魂に見立てた灯りであることを思い出した。
「あれが……灯り……?」
「灯籠だよ。灯りを紙で囲ったものなんだ。綺麗だろう?」
砂浜に集う人たちの手の光は暖かい火の灯りだったんだ。海へと流すときにその人たちの表情がさまざまに照らされる。笑顔で送り出す子どもとその親、悲しそうな表情を浮かべている人、しんみりと優しい微笑みを滲ませる人。後ろから海全体を眺めて景色を楽しんでいる人もいるみたいだった。
砂浜から広がった光が、海全体へと波紋のように広がっていく。それはまるで、海に映った星のように輝いている。けれどそれだけではなく、海に放すときの様々な表情を受け取った暖かな光は海を、街の人たちの心を照らしていた。海に揺らめくまんまるな月も、その光に照らされている。
「故人の魂を具現化して、それを弔う。できるだけ明るく、ね」
「みんな……いろんな……表情……してる……」
「そうだろうね。明るくとはいっても、亡くなった身近な人たちを送ってるんだ、それぞれ思うところがあるんだろう。……僕も、消えたらあそこに浮かぶ光になれるだろうか」
「えっ……?」
不穏な空気をシオネから察して、必死になって勢いよく振り返る。
「僕は本物のシオネじゃないんだ、いつか存在意義が消えれば僕も消えるだろう」
「どういう、こと……!」
「そんなに怖い顔しないでおくれよ。『私』の身体を借りてるだけの僕は、自分の身体を持ってる『私』と違って死んでも霧散するだけだからね。それに、僕は光になるようなやつじゃない」
軽々しく笑い飛ばして、シオネは海の明かりから目を離す。
「まあでも、もしキミが僕を憶え続けていてくれるなら、僕はキミの中で生き続ける。……そのときは、あそこに浮かべないでおくれよ? まだ生きてるんだ」
「……うん」
私が頷くと、シオネは畳んでいた足を開放して地面から立ち上がる。
「さて、そろそろ僕たちも帰ろうか。あまり遅くなると、お父さんとお母さんも心配してしまう」
砂浜の方を見ると、集まっていた人たちもぞろぞろと帰り始めていた。私たちもそれに倣って、帰った方がいいのだろう。私はシオネと同じように立ち上がり、来た道を戻るように木々の中へと一緒に足を進めて行った。
***
シオネの家にたどり着き、少し遅い晩ご飯を食べた。お城で出てくる料理とは全然違って、温かみのある優しい料理だった。お風呂は二人で入るにはとてつもなく窮屈で、足がぶつからないように端っこに寄りながら入った。シャワーが使えないのがものすごく不便だったけど、あちらと違って魔法を使わえなくても洗えるのでシオネに洗ってもらえるのは嬉しかった。
「少々狭いな……我慢してくれ」
お風呂から上がった後はすぐに寝る時間となって、一つしかないベッドにいつも通り二人で入ったのだが、いつもの私のベッドは四、五人入っても窮屈じゃないくらい広いから全くなにも思わなかったけどシオネのベッドは一人分の大きさしかないから初めての感覚がする。
「でも……この、感覚……嫌……じゃ、ない……かも……」
「……キミ結構物好きだよね」
いつもより身体を寄せ合って横になっているから、シオネの声がよく聞こえる。よくよく考えたら「僕」の方と一緒に寝るのは初めてかもしれない。私がベッドから落ちないように、シオネは壁側を譲ってくれた。
暗闇の中で至近距離にあるシオネの顔に少し胸がそわそわするのを感じながら、あの高台でシオネが話してくれたことを頭の中で反芻していた。灯送りのときから考えていた、五年前の話の中で唯一教えてくれなかった、シオネのはぐらかした理由。それがもし、今の私にわかるものであったなら。そしてそれが五年前の私と同じものであったなら。
「ねぇ……シオネ……」
「なんだい?」
「……明日、もう……アランヴェールに……帰ろう……」
「早いね。もしかして地上はお気に召さなかったかい?」
「ううん……そんな、ことは……ない…………むしろ……大好き…………でも……やらなきゃ、いけない……ことが……できた……」
「……そうか」
もし心当たりのあるそれが理由なら、私は決めなきゃいけない。私のために……そしてなによりも、シオネのために。
***
「それじゃあ、ミナモは外で待っていてくれ」
「うん……」
地上へ到着した翌日にもう海の中に戻るなんて、旅路としてはせわしないものだ。けれどミナモの要望により僕はその旅路を進もうとしている。
家の外へミナモを出すと、家の中はお父さんとお母さん、そして「私」の三人だけになる。「私」はそこで、今までで一番真剣な声色で二人に話しかける。
「……お父さん、お母さん。私、行かなきゃならない場所があるんだ」
それを聞いたお母さんは目を見開いて動揺している。お父さんはあまり動じている様子はなく、黙って「私」を見据えている。
「シオネ、どこに行くの?」
「それは……言えない」
その一言で、二人はすべてを察したように「私」に目を向ける。
「また、私たちの前からいなくなってしまうの? もう一度シオネと会えなくなるの、お母さん嫌よ……」
五年前と、今回。二回も我が子の行方が分からなくなった両親の心の内は想像もできないほどに辛いものなのだろう。それなのに、当の子どもはもう一度二人の前から消えると言っているのだ。もう戻って来られないかもしれない、今「私」が口に出したそれがそんなものであることは、二人にはこれ以上なく伝わっているみたいだった。
「……いい。行かせてやりなさい」
突然、今まで口を開かなかったお父さんがそう言った。それに信じられないといったお母さんが切迫した声を出す。
「どうして!? シオネはもう帰ってこないのかもしれないのよ!?」
「シオネが、やりたいことを見つけられたってことじゃないか」
「でもっ!」
「見て、母さん。今のシオネは、とっても澄んだ目をしている」
言われてハッとする。僕が……澄んだ目を……?
ミナモに言われた、「曇った目をしている」。その言葉は僕をなによりも表しているもので、僕である象徴で、「私」になれない証だった。
だけれど、今。澄んだ瞳を……「私」が持っているような瞳をしているのならば。それは、私になりきれている、ということなのだろうか。
「愛する我が子が行きたい場所があると、こんなにも真っ直ぐな目で言っているんだ。僕たちはそれを応援するのが、シオネにとって一番じゃないかい?」
「お父さん……わかったわ」
お母さんが弱々しく、けれど芯のこもった様子で頷く。
「シオネ。その場所には、ミナモちゃんも一緒にいるのかい?」
お父さんが僕を真っ直ぐとみて、優しい言葉で問いかける。
「うん、いるよ」
「そうか。それじゃあ仲良くするんだよ」
「うん……絶対」
「シオネ……行ってらっしゃい」
先ほどの弱々しい様子から、我が子を送り出す母親に戻ったお母さんが、私の背中を強く押す。
「……うん。行ってきます」
別れに背中を押す二人の言葉に押されながら、私は二人に別れを告げ家の扉を開く。
いや、違う。僕の、僕自身の、曇りが晴れたのかもしれない。……なんて、ありもしない希望だ。ごめんよ、「私」。キミの人生を、ニセモノの僕が決めてしまって。許される気は毛頭ない。恨んでくれていい。だけど、どこまで悔やんだって止められないものを、今の僕はその瞳で見ているんだ。
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