虚構の記憶

「シオネ……」


 明かり一つない部屋の中、ぎぃ、と木造りの扉が軋む音が聞こえて、そんなか細い音にすら掻き消されてしまいそうなほど弱々しい声で私の名前が聞こえた。


「……ミナモ。ごめんね。約束、破っちゃって。扉の前で待ってるって、言ってたのにね」

「ううん……いいの……そんな、こと……」


 私は部屋の扉に背を向けて、ベッドの上で膝を抱えて蹲っている。心配してくれているミナモに目も合わせずに。


「……よかったね。ナギさんに、ミナモ、って、呼ばれてたね。敬語も、なくなってさ」

「……シオネ……あの……」

「ねぇ……一つだけ、訊いてもいい?」


 背中越しに、ミナモに言葉を投げかける。悲しそうな顔をしているはずのミナモを見る勇気は今の私にはなかった。それと、ミナモの顔を見なければ、どれだけ心のない質問も言える気がした。


「な、に……?」

「今の私とさ、もう一人の人格……どっちが、本物の『シオネ』なの?」

「……!」


 沈黙が答えだった。私はその答えを求めていたかのように、自然と笑みが溢れた。それがひどく引き攣ったものなのは、自分自身でもわかった。


「……やっぱり。ごめんね。辛いこと訊いちゃったよね。……おかしいと思ってたんだ。いつからか、たびたび記憶が飛ぶようになって、この街にも、知らない間にたどり着いてたし。全部、私の知らない誰かが……ううん、本物の『シオネ』が、やってたことなんだね」

「ちがっ……!」


 そこでミナモの言葉は途切れた。ミナモの顔を見なくても、変わらなかった。背中越しでも、声だけでも、ミナモの痛みの一つ一つが私の胸に鋭く刺さった。


「……ミナモ。あなたは本当に優しいね。だからお願い。……今日だけは、一人にしてくれないかな」

「シオ、ネ……?」


 なにを言ってるんだろう、私。ここは元々ミナモの部屋なのに。我が物顔で、この広いベッドの上で蹲って持ち主を演じてる。全部、ニセモノなのに。


「……うん……わかった…………シオネ……」


 ミナモは優しいから、そんなわがままを受け入れてくれた。跳ね返したっていいのに。ミナモの辛さを感じるのが耐えられないって逃げているのは私なのに、どうしてミナモがどこかに行かなきゃならないの。


「あの……シオネ……」

「……」

「シオネは……シオネ……だよ……」

「……そうだね」


 ベッドで蹲っている私の後ろで、バタンと扉がしまう音がした。そして私は、明かりのない部屋で独りぼっちになった。



***



 自分の部屋で突然の来訪者の寝顔を見ながら、ナギはその人物を起こさないように小さくため息を吐いた。


「ミナモ……」


 この夜に二度もナギの部屋を訪ねて来た妹の寝顔は憂いに満ちていた。その寝顔を眺めるナギもまた、姉妹であることを証明するように同じ表情を浮かべ、寝られずにいた。


 先ほど、ミナモが泣き出しそうになっているのを堪えながら私の部屋の扉を叩いた。今晩はここで寝かせてほしいと。理由は考えるまでもなかった。


 コンコン、と部屋の中に今夜三度目のノックが響く。ナギは妹が起きてしまわないように毛布を耳が隠れるくらいまで被せてから、扉を叩いた人物を迎え入れる。


「やあ」

「……シオネ。なんのつもり?」


 そこに立っていたのはミナモの憂いの張本人、その人格の一人。怪しい笑みを浮かべたその人物にナギは怒りを露わにした眼差しを突きつける。


「バレてしまったんだね」

「そんな、軽々しく……! シオネがいったいどれだけのショックを受けたか……!」

「わかるさ。僕はシオネだから」

「ふざけないで!」


 部屋の中に、妹が起きかねないくらいの大声が響く。幸い起きることはなかった。


「あなたが出てこなければ、こんなことにはならなかったのよ? ミナモがシオネと喧嘩して、私の部屋に来ることだってなかった。シオネに、深い傷を負わせることも……!」

「そんなつもりはなかった!」


 今度はシオネが感情を爆発させた。先ほどのナギよりも、ものすごく辛そうな表情を浮かべて。


「もっと、『私』を傷つけないようにするつもりだった……! けど、僕にだって心はある……心を、受け継いでしまったんだ……!」


 拳を握りながら肩を震わせるシオネは、切羽詰まった様子でナギに頭を下げた。


「頼む、もう一度、協力してくれないか……!」

「……またなの?」


 ナギが協力をねだられるのはこれで二回目だ。一回目はシオネがアランヴェールへ来た二日目のこと。シオネが安全にミナモのそばにいられるようにナギの管轄内であるメイドにしてくれというものだった。ナギは「五年前の出来事」をミナモに伝えないという条件を引き換えにそれを呑んだ。


「これは二人のためなんだ……!」

「あなた、なんなのよ……」


 目の前の頭にナギはバツが悪くなって頭を抱える。やがてナギがため息交じりに悲しそうな表情を浮かべると、ゆっくりと首を縦に振った。


「……いいわよ。私だって、ミナモとの仲を元通りにしてくれたシオネに悲しんでほしくないもの。それに……本当は私だって、あなたと同じ気持ち……二度とあんな思いをしてほしくない」

「……ありがとう」


 シオネは顔を上げ、感謝の言葉を口にしながら胸に手を当てる。しばらく沈黙が流れたあと、小さく深呼吸をしたのちシオネはもう一度口を開く。


「それじゃあ、明日――」



***



 朝日が差し込んでいることに気づいて、目を覚ます。ぼんやりとした頭で昨日のことを思い出す。いつ眠ったかは覚えてない。ずっと眠れずにいた気がするけれど、気づいたら眠っていたみたいだ。


 忘れていない。忘れることができなかった、昨晩のこと。今はベッドから起き上がる気力もない。自分がニセモノであると認識するたびに、心の中のなにかが壊れていく音が聞こえる。今見ているこの世界も、夢なのか現実なのか、本当に存在しているのかわからなくなる。窓の外の景色がいつもよりくすんで見えた。広いベッドに一人でいることを自覚すると、さらに空虚さが増した。


 こんこん、と弱々しく扉がノックされる音が聞こえた。その音は部屋の中に響くことなく消え入って、私はそれに言葉を返せなかった。


「シオネ……」


 音を立てないようにしているのか、恐る恐ると言った様子で扉が開いて、そこからミナモが顔を出す。その顔に出ているのはあまりいい感情じゃなさそうだ。


「おは、よう……」

「……おはよう」


 それだけで会話は途切れ、しばらく沈黙が流れた。やがてミナモが部屋の中に入ってきて、ベッドの横へと近づいてきた。


「体調……どう……? よく……眠、れた……?」

「……わかんないや。ただ、どうしてか、昔聞いた話を思い出してた」

「話……?」


 不安な表情そのままに、ミナモが首を傾げる。私はその様子を見て、ぽつぽつと独りで喋り出す。


「大昔に偉い人がさ、蝶々になって空を飛ぶ夢を見たんだって。飛び回るのがとても楽しくて……人間であることも忘れるくらい。だから、その夢から目覚めたときこう思ったんだって。『夢で自分が蝶になっていたのか、それとも本当の自分は蝶で、夢の中で人になっているのか』って……おかしな話でしょ?」


 虚空に向かってしゃべっているような感覚がした。ただ、話の中身だけが現実味を帯びて。


「私も最初、不思議な話だなって思っただけだった。……でも、今ならわかるよ。自分が、本当の自分じゃないかもしれない……それってきっと、すっごく怖いことだよ」


 目覚めて、目の前の景色が夢か現実かわからなくなった。世界の色が、いつもよりくすんでいた。けれど、私には現実の記憶はなくて。ニセモノの記憶しかなくて。


「朝、目が覚めて、自分が消えてるかもしれないって思った……今見てる、すべてが幻で、全部嘘かもしれないって思った…………怖いよ……! 怖いよ、ミナモっ……」


 目の前の景色がぼんやりと滲んでいって、やがて大粒の雫が布団の上に落ちた。ぽつ、ぽつ、と二、三粒目から雫が零れたとき、ぎゅっ、とミナモが私の頭を抱き寄せた。


「シオネ……! シオネ、は……シオネ……だよ……! ニセモノ、でも……今……私の……目の、前に……いる、もん……! 本物……だもん……!」


 子どもみたいに、わがままを言うように私の心を支えてくれる。けれど、今ミナモの目の前にいると、本物だと、そう言ってくれているのに、私の心は壊れ続けてく。


 ニセモノの姿で、ニセモノの感情で、ミナモの目の前にいたとしても……それは、いると言えるのかな。キミがくれた言葉なのに、信じられなくなりそうな自分が、嫌になっちゃうな。


 ぽつりと、私の頬に熱い雫が垂れてきて、それが私のものなのか、ミナモのものなのか、わからなかった。ただ、ずっと抱きしめてくれているミナモの胸を、止まらない涙で濡らしてしまっていた。



***



 落ち着きはしないまでも、泣き止んだ私たちは、とりあえず自分たちのやるべきことをしようと思った。私がメイドの仕事を始めようとナギさんの元へ行くと、聞こえてきた言葉にぽかんとしてしまった。


「シオネ、ミナモと出かけてきなさい」

「え……?」


 ナギさんの有無を言わさない雰囲気に気圧されながら、私は弱々しく俯いて首を横に振る。


「今の私には、そんな余裕……ないです……」


 するとナギさんは目の前に近づいてくると、少し姿勢を低くして、私と頭の高さを合わせた。そして私の両方の手を取ると、目を合わせて行った。


「シオネ。ミナモはね、シオネが大好きなの。シオネが暗い顔をしてたら、ミナモも悲しんじゃう」

「ミナモが……?」

「うん。私だって悲しい。私もさ、あなたのおかげで、ミナモと姉妹に戻れた。どんなにあなたが自分を信じられなくなったとしても、あなたのその優しさは、本物」


 ナギさんが優しく頭を撫でてくれる。私がニセモノだろうと本物だろうと、ミナモやナギさんが悲しむのは……嫌だ。私はナギさんに撫でられながら軽く深呼吸をする。


「……私、少しだけ、頑張ってみます。今まで通りの明るさは、取り戻せないかもしれないけど……」

「取り戻す必要はないわ。ただ、シオネが落ち込んでるのが悲しいだけ。シオネはシオネだし、今のあなたを認めてあげて」


 ミナモも同じことを言っていた。私は私。聞いた瞬間少し胸が痛くなるから、その言葉をすべて受け入れることはまだできそうにないみたい。


「私も、いつだって相談に乗るわよ。これでもあなたより八歳も上だからね。お姉さんに任せなさーい!」


 袖を捲って腕を曲げてみせるナギさんは、どこまでも頼もしく見える。そんな人が悲しんでいる姿は、やっぱり見たくない。


「それじゃあ、あの……ナギさんも、来ていただけませんか? 今の私じゃ、ミナモの隣にいるのは、頼りないから」

「うん、わかったわ」



***



 急遽出かけることをミナモにも伝えると、せっせと服を着替えて昨日通った城壁の抜け道を通り街へと繰り出した。今日は本来休みではないので、今ここにいる三人とも共犯だ。


「それで、行きたいところあるって言ってたけど、どこ?」


 先ほどお城から抜け出すとき、一つ思い出したことがあり、行きたい場所があるとナギさんに伝えていた。


「はい、教会に行きたくて」

「教会? カンナさんのとこ?」


 私は頷いて返す。昨日私が倒れて教会に行ったとき、帰り際にカンナさんが「迷ったときは私の元へいらっしゃい」と言っていたのを思い出して、なんとなく縋ってみたくなった。この不思議な言葉がもし今の状況を見通して言っていたのなら怖いくらいだが、妙に真剣な表情で言っていたのと、不思議な雰囲気をまとうカンナさんならおかしくなさそうに思える。


「あら〜。今度はナギちゃんも一緒にお出かけかしら〜」


 教会へと足を運び、正面の重たい木造りの扉を開けると、カラカラ、と車輪が回る音がして、その方を向けばほわわんとした笑顔を浮かべるカンナさんがいた。


「あ、カンナさん。先日はどうも、お騒がせしました」

「いいのよナギちゃん〜。私もシオネちゃんからお話いっぱい聞けて楽しかったし♪」

「あはは……」


 二人に向けて苦笑いを浮かべていると、ふとナギさんの言葉が気になった。


「ナギさんもカンナさんのことカンナさんって呼ぶんですね」

「そりゃ、年上だもの」

「あ、カンナさんの方が年上なんですか」

「そうよ、全然年上。私もちっちゃい頃から面倒見てもらってたし」

「へぇ……え? ちっちゃい頃から?」


 ナギさんがさらっと当たり前のように言って、耳を疑ってしまった。けれど驚いているのは私だけみたいで、他の三人は何事もないように平然としていた。


「そうよ〜。ナギちゃんがこぉ〜んなにちっちゃなときから面倒見てたんだから〜」

「そんな豆粒サイズじゃないですよね……でも確かに全然見た目変わらないですね。私が生まれたときからこんな感じだった」

「生まれたときからぁ!?」


 私は見開いた目で手で豆粒サイズのナギさんを摘んでいるカンナさんとそれを指差すナギさんを交互に見る。確かに喋り方や仕草でものすごく年上に見えるけれど、外見だけ見てみればカンナさんはナギさんと同い年くらい、なんならカンナさんの方がナギさんより若く見えなくもない。


「……カンナさんって、何歳?」

「シオネちゃん。むやみに女性の年齢を訊くものじゃないわよ〜」


 一瞬カンナさんの笑顔が怖いものに見えて背筋がぞわっとした。この話題は触れてはいけないものみたいだ。


「でもシオネの気持ちわかるわ。カンナさんって結構謎な人物なのよねぇ。その車椅子とかも、『夜誰もいないところで立って移動しているのを見た』って言う噂ちょくちょく聞くし、本当に歩けないのかすら誰も知らない」

「えぇ……? 本当ですか?」

「さあ〜、どうでしょう〜♪」


 カンナさんはいつもの調子で笑っている。その表情からは一切心の内が読めない。


「カンナさん……何者……?」

「そんなことより~、なにか用事があって来たんじゃないの~? ただ遊びに来ただけでもうれしいけど~」

「あ、そうでした。えっと……」


 私の身に起こったことと、ここに来た理由を話そうとした瞬間、カンナさんが人差し指を立てて私の口元へと持ってきた。


「待って、多くは言わなくていいわ。……昨日のこと、思い出してくれたのね」

「えっ、どうしてわかって……!?」

「うふふ~。私、シスターさんだもの~、人の悩み事には敏感なのよ~。それと年の功ってやつね~」

「はあ……」


 その年が外見からは一切感じられないからさらに不思議さが増す。カンナさんは私の口元から手をはなすと、くるりと車椅子を逆方向へ振り向かせた。


「少し、場所を移動しましょうか~。そこに、あなたの悩みを解決してくれるものがあるかもしれないしね」



***



 よくわからないまま車椅子についていくと、教会のかなり奥の方まで連れていかれた。そして一つの扉の前に、車椅子は停まった。その扉は一際重たそうな雰囲気を放っていて、他の部屋とはどこか違うと直感的に分かった。


「さあ、入って~」


 カンナさんが扉を開けて、部屋の明かりを魔法でつける。


「うわぁ、本がいっぱい……」


 その部屋は他の部屋よりも広く、中にはいくつもの本棚がずらっと並んでいて、その中にはぎっしりと本が詰まっていた。中に漂う紙の匂いが、この中に詰まっている知識や物語の多さを教えてくれる。


「うちの自慢の図書館なの~。絵本から歴史書まで、なぁんでもあるわよ~」

「こんな……ところ、が……あった……なんて……」


 ミナモも私と肩を並べて驚いている。ミナモですら知らないこの場所に、どうして連れてこられたのだろう。


「本はいろんな道を示してくれるの。きっと、今迷ってるあなたにも、道を指し示してくれるものがあるはずよ」


 心の中の疑問に答えるように、カンナさんが言った。私はそれに従って、迷いを晴らしてくれる本を探してみることにする。


「すごい……いろんな本があるなぁ……」


 本棚を眺めて歩いているだけでも、少し胸の内がワクワクするのを感じた。けれど、眺めているだけでは、どの本が私にとって道を示してくれる本なのかはわからない。けれど一つ一つ読んでいてもキリがないし……。


 そう思いながら本棚を眺め続けていると、ぴたりと、一つの本に目が留まった。他の本よりも古びていて、掠れてしまっている背表紙には「海中都市」と読める範囲では書いている。


「シオネ……? どうした、の……?」


 立ち止まって眺めていると、横からミナモがひょいと顔を覗き込んできた。


「あいや、この本がちょっと気になって」


 私はミナモの前でそれを手に取ると、中身をパラパラ、と流し読んでいく。


「……!」


 数ページの中に詰め込まれていた「海の中」「魔法」「地上」そして「都市の移動」、その単語の羅列だけで、それは私に深く関係しているものだと本能的に理解した。そして、もしかしたらこの本が今私が一番必要としているものなのかもしれない、と。


「地上…………空が……ある……! これって……!」

「うん、間違いない。私の住んでた場所……かどうかはわからないけど、それと同じような街の話だ!」


 本の中に記述されていた街は、アランヴェールのような海の中にあるものではなく、青空の下に存在しているものだった。


「もしやカンナさん、あの本を読ませるために……?」

「ふふっ、さあ〜? でも、ナギちゃんも私も、あの子たちの笑顔が一番なのは、変わらないでしょ〜?」

「はぁ……敵わないなあ」


 後ろで話しているナギさんとカンナさんの会話には気づかずに、私はミナモとともに本の中へのめり込んでいた。そして読めば読むほど私の根幹に関わるような気がしてならないその本について、カンナさんに訊いてみることにした。


「カンナさん、この本って……」

「あら、その本ね〜。その本が気になるの〜?」


 ミナモと私は同時に首を縦に振る。するとカンナさんは手をパン、と合わせて、暖かい微笑みを浮かべた。


「そう〜。それじゃあ、少し昔話をしましょうか〜」

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