第七章 権
第七章
いつもというわけではないが道端にうずくまり口から腐ったような臭いがするモノを吐き出す。これほど虚しいことはないだろう。子供の頃に哀れな大人を見たときの気分のようだ。芯は変わっていないのだろう。
「大丈夫かい?にぃちゃん」
見上げた先には無精髭というような髭がびっしりと生え白黒と目を困惑させるような色をした男が立っていた。こちらを覗くような目は居心地のいい安らかさを与えてくれるモノではなかった。気持ちが悪い。その言葉が即座に浮かんだ。なんと性根が曲がった人間だろうか。我ながらそう思うほかない。彼は私を心配し声をかけたのに、私は気持ち悪いという言葉しか出てこないのだ。私は視界が歪んで見えた。彼のことを頭からつま先まで眺めるとなんとも未開の地のように感じた。人類がまだ足を踏み入れていないジャングルのような場所だ。彼はスーツを着ている。サラリーマンだろうか。彼の靴は綺麗に磨かれ微かに写っていた。気持ち悪いという言葉の意味がわかった。簡単なことだ、彼が私よりかも上にいるからだ。私が感じた気持ち悪いは正当なモノだった。何も私は性根が曲がっていることはなかった。
「ああ大丈夫だ」
私は立ち上がり千鳥足でその場を後にした。
家に着くなり机に置かれた原稿用紙を眺めた。ペンを取り出しその上に置くと、慣れた手つきで文字を書き始める。猫が私に近づき不思議なものを見るような目つきで睨みつけてきた。猫はノソノソと歩き回り体を軽く跳ね上げた。バリンっと割れる音がした。鉢が床に落ち、土が散らばっていた。銃弾が横に着弾すると足が震えているのがわかった。土埃が舞い老人のような足取りで進む者もいる。塹壕は水が溜まり、塹壕足になるものが大半を占めていた。
「突撃!」
その合図とともに周りにいた希望ある若者が土を踏みつけ草を倒し前に進んだ。砲撃が着弾し爆散するものもいれば、鉛玉が当たり地面に倒れるものもいた。私はただ恐怖に震えるしかなかった。心許ないヘルメットは土に塗れていた。息を吐き吸い込むと脊髄が冷たくなるのがわかった。どうにも此処は私の居場所ではないらしい。
「何をぼさっとしている! 突撃!」
中年ほどの年の男が言った。私は慌てて塹壕から飛び出した。銃弾が目で見えた。当たらない。どこまで走れというのだろうか。此処まで随分と長い距離を歩いてきたではないか。随分と時間をかけてきたではないか。随分と価値のある立派な人生を送ってきたではないか。何を今更走れというのだろう。横に砲撃が直撃し爆風で体が宙に浮いた。
「ニャア」
愛猫の鳴き声はどうも現実に戻してくれるらしい。土を丁寧に片付け鉢をゴミ箱に放り込んだ。片付け終わると原稿用紙にペンを置き直した。一回こうなるとどこから書けばいいかわからなくなる。頭がごちゃごちゃになってしまっているのだ。原稿用紙に載ったインクがただの乾いたインク溜まりにしか見えない。
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