第六章 能

第六章


彼女がいたのは歩道の真ん中だった。彼女も歩き、彼も歩いていた。数年ぶりの再会だった。彼は初め誰だかわからなかった。

「久しぶり」

「誰ですか?」

時刻は”誰そ彼”だった。

「何にしやす?」

おでん屋の店主はそう聞いた。慣れたような口ぶり。

「じゃあとりあえず生二つと……生でよかったよね?」

「あぁ」

彼女は初めから答えがわかっていたかのように聞き、彼は彼女の期待通りの答えを返した。

「卵と大根とはんぺんで」

「同じので」

「あいよ」

店主はまたも慣れた手つきで準備をする」

「灰皿をもらっても?」

彼女は言った。

「あいよ」

店主はどこからか灰皿を取り出し机に置いた。彼女はポケットから煙草の箱を取り出すと一本取り出し箱を置いた。口に咥えるとライターで火をつけようと手を近づける。なかなかつかない。彼はポケットから自分用のライターを取り出し火をつけ差し出した。

「ありがとう」

彼女は顔をライターに近づけた煙草に火をつけた。彼女は目を瞑りながら吸い続ける、たちまち肺に煙が入り循環してから吐き出した。先端肺になっていた。その部分を丁寧に指で叩き、灰皿に落とした。

「はい、ビールお待ち」

「ありがとう」

彼女は笑顔を見せながら言った。彼女はビールをグラスに注いだ。もちろん彼の分も。彼女はグラスを近づけ、彼もグラスを持ち、彼女のグラスに音が鳴る程にグラス同士を当てた。心地よい音色が響いた。湿ったような乾いたようなその中間の音だ。彼も彼女もうるさいとは感じなかった。

「はい、お待ち」

店主は卵、大根、はんぺんが乗った皿を二つカウンターへ乗せた。皿の隅にはカラシが我が物顔で居座っていた。彼女は大根を二つに割り、カラシを気持ち多めにつけ頬張った。それを見ていた彼ははんぺんにそのままかぶりついた。

「最近何してるの?」

彼女は大根を口に含みながら言った。

「うーん、特に何もしてないかな」

彼は小説を書いていたがその事実を言えるほど気は大きくなかった。

「そっちは?」

「わたし? 私は特に何もせず生きてるよ。ただ朝起きて仕事に行って仕事して帰ってきて酒飲んで寝る。それでまた朝を迎える。何もなくて刺激もないけど、これが幸せなのかなって最近思ってんだ」

「幸せか」

彼はボソッと呟いた。

「だって、久しぶりに同級生に会って、こうやって飲むっていうのが私は好きかな。だって私何も楽しくない幸せな人生送ってんだもん」

「小説を書いてるんだ」

「何? どんなの?」

彼女は彼の目を一切の曇りのない瞳で覗き込んだ。

「ジャンルはないんだ。ないというかわからない。ミステリーのような、サスペンスのような、ロマンスのようなものなんだ」

「いろんなジャンルが混じり合った現代文学なのね」

「あぁそんな感じかもしれない」

「しれないって、一回読ませてよ」

「いや読ませるほどのものじゃないんだ。そんな人に読ませるほどの完成度じゃないから」

「何謙遜してんの。読んでほしいって顔に出てるよ」

 相変わらず彼女の瞳は彼を見つめ見通しているようだった。

「どうしても読みたい?」

「えぇ。だって同級生が描いた小説だよ。読みたいに決まってんじゃん」

彼女は笑いながら言った。その笑いを彼は嘲笑のようにも感じられた。

「子供の時はよく描いた絵とか見せてくれたじゃん」

「そんなこともあったな」

彼女は昔を思い出し、彼は昔から目を背けた。

「あの頃さ、私ってすごいなんていうのかなぁ。荒れてたというか、反抗期だったじゃん。あれってさ、大人になりたくなかったんだろうなって今は思うの」

彼女は視線を彼にはわからないところへ移した。彼女もまた背を向けたがっている。彼にはそう思えた。

「なりたくなかったって? どういう意味?」

「大人みたいに、何かの責任にどこまでも追われて、疲れ果てて、クマをつくって、夢を失くしたくなかったって、空いた隙間を憎しみや反抗で埋めてたんだと思う。そんな子供が大人になっていくんだなぁ」

彼女は卵を半分に分けると片方の黄身にカラシをつけ口に運んだ。

「私は二度目引きこもったことがある」

彼女は言った。

「一度目はなにも起きることはなかった。ただ自分の周りの世界が暗くなるだけで終わった。でも二度目はなかった」

「なぜ引きこもった?」

彼は聞いた。彼女は虚ろな目でこちらを向いた。

「私は責任を背負いきれなかった。ただそれだけ。それから少しした時、光が差し込んだ。私自身じゃない誰かの。何かの。外に出るとそこには普通の生活が広がっていた。私にとって変わった。あれは誰なの?」

彼は身震いをしたように後ろへ倒れそうになった。

「大丈夫?」

彼女は聞いた。店主も心配するように何か言葉を問いかけてきた。

「ごめん、大丈夫。ボーッとしてた?」

「ええ、声をかけてもなにも反応しないんだもん」

「ごめん、よくこういうことがあるんだ。よく妄想して自分の世界に入っちゃうんだ」

彼はそう言いながらビールを飲み干した。

「私もよくあるからしょうがないわ。ビールもう一つ頂戴」

彼女は彼に諭しながら店主に言った。

「あいよ」

店主はビールをもう一杯、彼に渡した。彼はそれを喉へと流し込んだ。

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