命のために
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悪阻に苦しみ、職場での里美の様子を知った修二はその夜、桃瀬家へと向かう。
体調不良のあまり自宅でも意識を失い、妹の歩美は事実を知ることとなる。
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悪阻という体調の変化。
自分だけでは無いとはいえ、こんなに辛いものだったとは想像もしていなかった。
人それぞれ個人差はあるらしいが、母親になるに向けて子を宿した女性誰もがこんなに辛い思いをするのであれば、何故女性は新たな命を望むのであろうか。
里美はそれが不思議で仕方なかった。
「…うっぷ、んっ、げほっ…げっ…ぷっ…」
「辛いよな…」
「っはぁ…修、二………」
つい先日、妊娠十二週に入った。
髪を束ね、胃の中ら込み上げてくる物を吐き出す彼女の背中を修二は優しく撫でた。
「ほら、水飲めるか?」
「…あんまり飲みたくない…また吐いちゃうもん。」
「水分は取った方がいいぞ、スポーツドリンクにするか?吐いたんだから飲まないと、少しだけでもさ。」
言葉を発することも辛いのであろう。
吐き終えると、自ら無言でその場を去る。
身体を支えて自室へ戻りグシャグシャに放られたままの毛布の上に倒れこむと、涙目になりながら口元へタオルを当てる。
二口ほど水分をとり脱力すると、そのまま寝落ちてしまった。
…
後日、里美は出勤してもトイレに篭る時間が増えた。
妊娠が発覚してからはもちろん禁酒中である。
二日酔いが日常的の里美にとって嘔吐することには慣れている方だとは思うが、二日酔いとつわり、症状は似ているようでやはり別物だ。
食事もそうだがまず、水分が取れずその状態はやはり良いものではない。
悪阻に対する万能薬は存在せず、終わりの見えない辛さ。
鉄剤の処方をうけたおかげか貧血状況はだいぶ良くなったが、とにかく眠気と吐き気がひどい。
あの日、里美が倒れたことを知る同僚には、まだ妊娠の件は告げていないのだが、こう症状が続くと妊娠の事実が周囲にわかるのも時間の問題であろう。
進取果敢、決断力、行動力のある性格も伴ってか、この年齢にして部署内トップの役職まで上り詰めている里美にとって、仕事から一歩身を引くという決断だけは潔くできるものではなかった。
水分と食事がとれず、仕事の合間に点滴を受けに行く日々。
「ふぁ〜、気持ち悪いし眠いわね…」
しかし不思議なもので、出勤すると自然と仕事モードへ切り替えができそこまで体調不良は酷い状態ではなくなっていた。
職場である研究所内で修二と出会すことはなかなかないが、
時々遠目で里美を見かける度に現状を知る、何よりお腹の子の父親としてかなりの心配はあった。
もちろん、体調が良くないと聞いていたから。
ある日、口元をタオルで抑えながら、小走りで移動する里美と鉢合わせた。
「おいっ、桃瀬!」
「今、ちょっと…むりっ…」
「こんな体調で無理して、あいつは職場に何しに来てるんだかね。」
「げほっ、げほっ、っっ、ごほっ。っは…はっ…」
そのままトイレへ駆け込む里美を見て察し、廊下で待つ修二。
嘔吐感があってもしばらくは耐えられるが、ここ最近は食事も儘ならないため胃液だけであることが増えた。
これが一日に度々起こるのだ。
里美は嘔吐感の落ち着きを待って、洗面所で口をゆすぐ。
制服の上着を抱えて廊下へ出ると、修二がいることに驚いた。
「ちょっと、どうしたの?何?」
「悪阻だろ…だいぶ辛そうだな、大丈夫か?家でもこうなのか?」
「…そうね、最近なかなかきついのよ。」
「夜、家に行くようにするか?歩美ちゃんはどうしてる?」
「あの子もバイトとか友達との付き合いもあるしまだ今は普通だけどね、家でこんなんじゃ、すぐにバレるわ。あの子、察しがいいもの。」
「そうか…」
「妹には家族だし、早く伝えなきゃなって思ってる。今夜にでも修二くんが来てくれるなら、歩美にも話せたらいいんだけど…」
「そうだな、今夜行くようにするよ。俺もそろそろ話さなきゃだよなぁ。」
そう約束して、お互いその場を離れた。
修二も里美同様そこそこ上の立場におり、職業柄個人行動が多いものの同僚はいる。
どう伝えようか、タイミングを探っていた。
…
その夜、桃瀬家マンションのチャイムが鳴る。
「あっ修二さん!こんばんは…お姉ちゃんと約束してるんですか?今寝てるみたいですけど、呼んできますね。」
「おぅ、歩美ちゃん元気にしてたか?学校、ちゃんと卒業できそうか?」
「もちろん!留年なんてしてる余裕ないですもん。これ以上お姉ちゃんには負担かけられないよ。」
「…そうだ、これ土産。」
「ありがとうございます。これケーキですか?じゃあ、夕飯の後にでも出しますね。」
「いや、フルーツゼリーだよ。ちょっと、桃瀬ん所行ってくるよ。」
それはスイーツと思われるお洒落な箱だった。
修二は里美の部屋の扉をノックする。
「…桃瀬、俺だ。開けるぞ?」
扉を開けると、すーすーと寝息を立てながら眠っている里美。
そっと近寄り話しかけると、薄っすらと目が開く。
「今日もお疲れさん。汚っねー部屋なのは相変わらずだな。桃瀬、具合はどうだ?」
「…しゅう…じくん…」
「ゼリー買ってきたぞ、起きられるか。具合は?」
「たぶん大丈夫…リビング行く。」
そしてゆっくりと起き上がる。
歩美はリビングでスマホを触りながらテレビを見ていた。
里美はリビングを通り過ぎ、ダイニングのイスに座るとテーブルに突っ伏す。
修二は隣のイスに座ると、里美の背中をさすった。
「やっぱ辛いよな…ちゃんと水分取れてるか?」
「寝起きとか、あと空腹も気持ち悪いのよ…
最近、胃に何もないから吐けなくて。今日は昼にちょっとだけ調子良くて、うどんは少し食べられたけど…
そろそろ悪阻も落ち着いてくる時期って言われてるんだけどね。」
「さっき、フルーツゼリー買ってきたから、食べられそうだったらみんなで食べような。」
「うん、ちょっと先にお手洗い行く…」
フラつきながら歩いて行く後ろ姿を見つめながら、修二は色々と考えこんでいた。
…
「あれ、お姉ちゃんは?」
「さっきトイレ行ったんだが…?遅すぎるな、様子見てくるか。」
歩美が心配そうな表情を見せながら、修二はリビングから離れトイレへ向かうと扉をノックする。
「桃瀬?大丈夫か?…ドア開けるぞ?」
返事がない。
すると幸いにも鍵はかけられていなかったものの、ドアを開けた先にはグッタリと壁に寄りかかる里美がいた。
「お、おい桃瀬!大丈夫か!?」
「あ、ちょっ、まっ……んぷっ…」
「げほっ、げほっ、んっっ、ごほっ。っは…はっ…」
「大丈夫か、辛いな…吐けるもの吐いちゃえ。」
「ごほっ、っげっほっ…」
修二が心配そうに背中をさする。
すると、里美の体から力が抜け、頭から後ろに倒れたが、修二がタイミングよく支えた。
「おっ!っと……桃瀬、だいぶ無理してるだろ、これで仕事はもう無理だぞ」
「歩美ちゃん!!聞こえるか!?」
リビングにいるはずの歩美に向かって修二が叫ぶ。
「修二さん?どうかしました?」
「悪い、コップ一杯水を持って来てもらえるか?」
「あ…ごめ…今日は帰りに点滴受けてきたから大丈夫だと思ったんだけど…やっぱダメね…」
修二の叫ぶ声で、里美はすぐに意識を取り戻した。
すぐにコップに水を持ってきた歩美。
「ありがとう、歩美ちゃん。」
「お姉ちゃん!?何、大丈夫?どうしたのよ、救急車呼んだ方がいいんじゃないの?」
「桃瀬、大丈夫か?やっぱダメだな…ベッド行くぞ。」
元々スラっとして華奢ではあったが、悪阻により更に痩せた里美を修二は簡単に抱き上げると、部屋のベッドまで行き横にさせる。
ぐったりとして本当に救急車を呼ぶべきかと迷いが生まれるほどの顔色と息づかいだった。
「お姉ちゃん、どうしたのよ…」
「歩美ちゃん、ちょっと。こっちいいか?」
歩美をダイニングテーブルに呼ぶと、修二は静かに話を始めた。
体調の優れない里美のことを伝えておくべきと判断したのだ。
「…見ての通り、今の桃瀬はあんなんだ。お姉ちゃんさ、実はお腹に子どもがいてな、悪阻のせいであんな状況なんだよ。」
「お姉ちゃんがママになるの?本当に?」
「ビックリしたか?」
「そりゃぁ…でも、楽しみ。相手は修二さんよね?」
思わず修二は苦笑いした。
姉が母親になる姿を想像できないらしい歩美は、楽しみと言ってくれた。
お腹の子の父親である修でさえ、里美が母親になる姿など正直今は想像できない。
海外勤務もこなしながら仕事に生きてきた反面、決断力はあるのにズボラすぎる性格とだらしの無い生活。
妹と一緒に住んでいるからこそ、それなりの生活環境が保たれており、世話をしてもらっているのは寧ろ姉である里美の方かも知れない。
「桃瀬さ…毎日出勤してはいるが、まともに仕事はできていないらしい。悪阻は重い方らしくてな、仕事の合間に病院に行って点滴を受けている状態なんだ。」
黙って修二の話を聞く歩美。
その表情は生活の変化に対し、どこか不安を感じているようにも見えた。
「今でも歩美ちゃんに頼りっきりのところがあると思うんだけど。家でもさ、歩美ちゃんの助けが必要になることも増えると思うんだ。だから、きちんと話しておこうってことになって今日は来たんだ。」
「予定日って言うんでしたっけ、いつ生まれるんですか?」
「十二月の予定だ。」
「私もバイトとか色々あるけど、なるべくフォローするようにしますね。」
「よろしく頼むよ、歩美ちゃん。じゃあ俺はそろそろ帰るかな。」
仕事での疲労、悪阻での精神的な衰弱も合わさっているのだろう、先程ベッドに寝かせた里美は既に寝息を立てていた。
眠る里美にそっと声をかけて、修二は帰路についた。
「じゃあな…そろそろ帰るよ。桃瀬、また明日な。」
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