最終楽章:決意と一歩

 あれから一週間。休日を跨いだことで少しは気持ちも落ち着いた気がしたが、他のクラスだということもあり、ひよ子とは未だ話せていないままだった。今会ったとしても、ちゃんと話せるかどうかは置いておいて。


「みすずちゃん、次移動教室だし一緒に行こ」


 二限の言語文化の板書を写し、机に片付けると、背後から肩をガシッと穂実が掴んできた。


「うん、行こっか」


 三限からは実験室での実習だったので、私は穂実と一緒に教室を出る。

 中間休みにたくさんの生徒でごった返す廊下。その中に、ひよ子がいた。あちらもまた、友達と談笑中といった様子。


「あ、ひよ子ちゃんだね」


 穂実がひよ子の方に駆け寄ろうとしたので、咄嗟に袖口をギュッと掴んでしまった。彼女は当然、不思議な表情をして私に問いかけた。


「どうしたの?」


「あ、もうそろそろ休み時間終わるし、早く移動したほうがいいかなって思って」


 苦しい言い訳だ。ただ単に私がひよ子と顔を合わせるのが気まずいってだけなのに。

 穂実は教室の中にある掛け時計を見て、大きく頷く。


「あ、確かに、じゃあひよ子ちゃんはお預けということで……」


「うん」


 階段を下って、普段生徒が授業を受ける第一校舎とは違う、実習専門の第二校舎へと向かう。


「もしかして、何かあった?」


 人気のない渡り廊下を並んで歩いていると、穂実が私の顔を覗き込みながら訊いてきた。何というか、この子は本当に勘が鋭い。見学会の時も、私のちょっとした違和感を汲み取ったのか痛いところをついてきたし、油断ならない。


「やっぱりバレちゃうよなぁ……。なんで、なんで気がついたの?」


 気になった。穂実が一体私のなにを見てそう思ったのか、どこを感じ取ってこの結論に至ったのか。

 私の質問を聞いた穂実は顎に手をあて、少し悩んだ後、話し出した。


「うーん、正直な話なんとなくなんだけど。ほら、ここ数日のみすずちゃんって明らかひよ子ちゃんのこと避けてる気がした。それと、今週までの入部届、まだ出してないでしょ? 私やひよ子ちゃんみたいな吹奏楽バカは問答無用で即決だったけど、みすずちゃんはそんな雰囲気じゃないからさ、渋ってるんじゃないかなって思って。あと、みすずちゃん意外とわかりやすいよ」


 彼女の前では、全てお見通しだったようだ。


「今日、二人で話せる?」


 こうなったのなら隠すのも癪だ、話すしかあるまい。


「うん、放課後教室で待ってる」


 その後、実験では穂実が異臭のする気体を発生させたりはしたものの、特に問題も起きずに放課後を迎えることになる。


〜〜〜〜


 斜陽の差す教室の中で私は一人、大きく深呼吸をする。大丈夫、話した方が胸の内は軽くなるはず。そう思いながらも、ひよ子に無断でこの話をしてもいいのかと、疑問にも思った。でも、このまま部活を決めないわけにもいかないし、何よりひよ子との関係が崩れてしまうのではないかと、怖くて怖くてたまらなくなった。


「遅れてごめんっ」


 私が黒板の方を向いてガチガチに固まっていると、前の方の扉から穂実が入ってきた。

 頑張って精一杯の笑顔を作ってみるけれど、やっぱりお腹の底が痛む。

 穂実はいい子だ。入学してからものの二週間ほどで私ともひよ子とも打ち解けたみたい。私と仲良くできている時点で、もっと社交性のあるひよ子と仲良くなるのは必然なのだろうけれども。こうやって自分の気持ちを話そうと決心できるのも、彼女のなぜだか色々と話したくなる不思議の力のおかげだ。


「で、なにがあったの?」


 私と穂実は向かい合って座った。そして、私は一呼吸置いてから話し出した。


「私は、ひよ子の横で胸を張って吹けるようになりたい。でも、ひよ子は私よりもずっと速いスピードで突き進んでいって、もう私が追いつけないくらい前にいる。追いつけないと気づいた時、これから先どうしたらいいのかがわからなくなった。このまま吹奏楽を続けていくべきなのか、それとも辞めるべきなのか。もし辞めたとして、私とひよ子との関係が途切れてしまうんじゃないかって思っちゃうの。ずっとずっと表舞台で輝き続けるであろうひよ子が、私のことをほっぽり出してしまうかもしれないっていう、根拠なんてなにもない不安が押し寄せてくるの。いろんな気持ちが交錯して、一体どれが私の真意なのかわからなくなってる。ねえ穂実、私はこれからどうすればいいの?」


 話しているうちに、また涙が溢れてきてしまった。その後、あのカラオケであったことも話した。


「私は今、怖い、とてつもなく怖い。あの日のせいでひよ子と疎遠になっちゃったらって、あの日のせいで、何もかも失っちゃうんじゃないかって、すごく怖い。そんなこと考えてると、ひよ子と話すこと自体が怖くなってきて。おかしいよね、どこもかしこも怖いばっかり」


 私が無理やり作った笑みを見て、穂実はとても悲しそうな顔をした。


「おかしくないよ。みすずちゃんの気持ちよくわかる。だけど、ひよ子ちゃんもきっと……」


「失礼しまーす」


 穂実が口を開いた時、私の右後ろから勢いよくドアの開く音がした。それと一緒に入ってきたのはなんとも陽気な声だった。


「……ひよ子」


 振り返ると、目の前にひよ子がいた。仁王立ちをしていた。急に、滝のように涙が流れてきた。見ていられなかった。


「ちょっと、ひよ子ちゃん。まだ出てきちゃダメでしょ。ちゃんと打ち合わせた通りに」


 穂実が何か言っているようだが、私の耳にはなにも入ってこない。目の前にいるのだ。最初の一言は、ごめん? それとも何かもっと大事なことがある? とにかく何か話さないと、泣いているだけじゃなにも始まらないのに。

 すると私の頭頂部にひよ子は手を乗せた。そしてくしゃくしゃに掻き回す。


「私、今のみすずが嫌い」


「ちょ、ひよ子ちゃん!」


 ひよ子の一言は、穂実の制止を通り越して私の胸を強く衝いた。


「なんで私がいなくなると思ってるの? 私たちの関係って、そんなものだったの?」


「ち、違っ」


 違う。


「そんなものじゃない。私は信じてる。けど、だけど、心の隅っこにはそういう気持ちがある。なかなか消えてくれない、秘密を隠してる時みたいな罪悪感が、拭い切れないの!」


 口からドバドバと言葉が出ていく。これを聞いているひよ子は、一体どんな顔をしているのだろうと不安になる。けれども、それ以上に体がだんだんと軽くような気がした。どんどんと楽になっていた。


「ねえ、みすず。私、あなたのフルートが好き。いつだって頑張って、頑張って、頑張っている音色が好き。その努力の元が私への憧れだったのなら、それは嬉しいことだよ。だって、自分の大好きな人が私を目標に努力しているんだから。結果が出なくたって目標を持って努力してる人って、他の誰よりも輝いてると思うんだ」


 ひよ子の顔は優しく綻んでいた。さっきより、ずっとずっと心が軽くなっていた。


「あと言いたいことは、私はなにがあってもみすずの友達だってこと。そもそも、私はみすずがここに入学するって言ったからこの高校受けるって決めたんだから。もしみすずと出会ってなかったら、もっともーっと吹部の強い高校に行ってるよっ」


 初めて知った。てっきり、家が近いからひよ子はこの高校を選んだのだと思っていた。友達目的で進学先を決める奴なんてバカだと思っていたが、当事者になるとそんなこと思えなくなっていた。無性に喜んでいる自分と、それ以上に私自身が彼女のことを全く見れていないのだということに気づいた。


「大丈夫、例えみすずが警察のお世話になろうとも、ちゃんと面会行ってあげるから」


「なにそれっ」


 面白くなってきていた。心の中でずっと悩んでいたことが何もかも杞憂で終わる瞬間、さっきまでのことが一気にバカらしくなっている。


「そうさ、ムショから出た時はお迎えに上がってやりょ」


「あ、噛んだ」


「うっさいなぁ、もう!」


 すると、私でもひよ子でもない笑い声が教室中に響く。


「ほんと、一時はどうなることかと思ったけど、案外大丈夫だった?」


 穂実は腹を抱えながらそう言った。確かに、さっきのシリアスな空気はどこへやら、すでにこの空間は和みきっていた。

 ひよ子はいつかと同じように、小さな手で私のほっぺを鷲掴みにした。そしてまるでパン生地をこねるように揉み出した。


「やっぱりみすずは笑っている方がいいよ。そっちの方が私、好き」


 沈みかける夕陽に照らせれて、私は暖かい何かに包まれていた。

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