第三楽章:とめどなく溢れ出す

 茜さすアスファルトに、ローファーの靴音が鳴る。

 プチ演奏会は件の課題曲の後に一、二曲他の曲が披露され、放課後の体育館でひっそりと幕を閉じた。


「あのさ、今から時間ある?」


 さっきまで今日の見学会の話だとか昨日の夜ご飯がカレーだった話とか、他愛のない話しかしてこなかったひよ子が急にそう訊いてきた。Y字路の前、私は左、ひよ子は右。


「何かするの?」


「うん、私とみすずで愛の巣を作っちゃう。なんちゃって」


 マジでなに言ってんだ、こいつ。


「で、何するの?」


「もう、釣れないなー。楽器取ってきて、一緒に吹こう!」


「え、今から?」


 正直、これから家に帰って録り溜めておいた月9の最終話を見ようと思っていたのだが。


「うん、今から」


 ひよ子の目は煌めいていた。彼女はこうなると止まらない、そもそも止まることを知らない。自分の興味、関心が赴くまま、思い立ったら即行動という概念の象徴のような人だ。


「この興奮が冷めやらぬうちに、ほらほら」


「何に興奮してるのよ」


「何って、先輩の演奏? まあなんでもいいじゃん。吹きたくなったら吹く、それでいい!」


 もうこうなると折れた方がいい。ここで粘ったとしても、結局結末は変わらないだろうし、第一ひよ子のことだから日が落ちても『吹こう!』と言ってきそうだ。


「じゃあちょっとだけ、場所はどこ?」


「カラオケ」


 三年前までは毎日のようにひよ子と一緒にデュエットを吹いていた。だんだんと私が億劫になってきて、去年なんて片手で数えるほどしかできていなけれど。


「うん、オッケー」


〜〜〜〜


 モタモタしているといけないと思い、かなり全力で走ったはずのなのに、ひよ子は待ちぼうけた様子で「遅いよ!」だなんて言ってきた。

 カラオケは、個人練習の穴場であった。学生証を提示すれば学割が使えるし、そもそもの料金が安い。心許ないけれど防音で、楽器持ち込みができる店舗ならとやかく言われることもない。

 そんな素晴らしい練習場所であるここにも、一つだけ問題がある。


「みすずってなにが好きだっけ? キンプリ?」


「……練習は?」


「いいじゃんいいじゃん。まだ三時だし、少しは歌ってあげないとこの子がかわいそうだよ」


 そう言って楽曲選択用のタブレットを撫で回すひよ子。

 油断するとこうなる。ここでの練習の一番の敵が、カラオケボックスに置かれているタブレット、そしてマイク。結局お金を払うことになるのだから、二、三曲歌わないと勿体無い気持ちになるのだ。


「カラオケって一部屋づつカメラがついてて、実はいつでも部屋の中の映像が見えるようになってる。だから今ひよ子がした奇行も、運が悪かったら店員さんに見られてるね」


「えっ、それは困るなぁ……」


 その後、一時間くらい歌った。


「そっちから始めていいよ。私が合わせる」


 一通り歌い切った後、やっと演奏が始まった。ずっと前から一緒にやってるエチュード。

 私の音を追いかけるように入ってくるひよ子のフルート。私が作った流れを、決して乱さないようにしつつも、二つが別の音として独立しないように上手く混ざっている。まるで私が通した一本の線の周りを、さまざまな色や揺れ方をして線がぐるぐると回っているみたいに。

 ああ、やっぱりすごいな。

 音に集中すると、ひよ子の音が頭に直接訴えかけてきて。複雑な感情がじわじわと染み出てきた。こんなにも近くて、こんなにも遠い。追いかけていたはずなのに、その背中はもう微かにしか見えない。いつか彼女の隣で、胸を張って立てる人間になりたいと思っていた。これまでも、多分これからも、私がフルートを奏で続けることは部活のため、吹奏楽のためではないだろう。ひよ子のため、いや、ひよ子の横に立ちたいという自分の願望を叶えるために私は吹奏楽を続けるのだ。


「ねえ、なんで泣いてるの?」


 気づいた時には泣いていた、のだと思う。ひよ子に声をかけられて、初めて気がついた。途端に暑くなる目頭、頬を涙が流れ落ちる独特な感覚。何度も何度も袖で拭っても、止むことはない、むしろ一度溢れ落ち出した涙は堰を切ったように瞳から出続ける。


「大丈夫?」


 すぐそばからひよ子の心配した声が聞こえる。情けないな、勝手に泣き出して心配してもらって。


「ううん、大丈夫だから。ごめん、やっぱ私、部活他の入るかも」


「ちょっと、それってどういう……」


 口からとめどなくそんな言葉が出てきた。もう突き放すしかなかった。自分でも今、自分の体と心がどんな状況なのかまったくもってわからなかった。


「なんか具合悪くなってきちゃったみたい、先帰るね。お金置いとくから」


 ただ一つわかることがあるとすれば、ひよ子の顔を少しの間面と向かって見ることはできないだろうということ。

 足早に外に飛び出ると、綺麗な茜雲が深い藍色に飲み込まれそうになっていた。

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