第二楽章:きっかけ
四階の突き当たりにある音楽室は、私を含む生徒たちの喧騒で埋め尽くされていた。
磨き上げられたフローリングはテカテカと光を反射していて、上靴の音が奥まで響いている。目の前にある黒板から遠くなるにつれ徐々に高くなっていく床、真っ白な石膏に穴の空いた、目がチカチカしてしまいそうな壁。小中学と見慣れた光景、私にとってはなかなかに度し難いものだった。
ざっと見て二十人ほど、私やひよ子の他にもこれほど見学希望者がいるだなんて思いもしなかった。集まったとしてせいぜい二桁くらいだと思っていたのに。
黒板には開始時間まで自由に席に座っておくようにとの旨が書かれていたので、私とひよ子は入り口からも黒板からも一番遠い右端に陣取った。壁に立てかけてあるヴェートーヴェンの肖像の上の時計を見てみると、予定された時間まであと二十分もあった。
学期始めなこともあり、午前中授業なので、お昼を挟んでの開始だった。だから、この見学会に参加する生徒はお昼ご飯を持ってくる必要があった。もうちょっと融通のきく時間にしてくれないかとつくづく思う。
適当に時間を潰そうと、窓の外をぼーっと眺めていたところ、後ろに座っているひよ子に肩をちょんちょんと叩かれた。
「やっぱりさ、みすずは高校でもフルート続けるの?」
ニコニコとそう訊いてきた。
「そのつもりだけど。というか私フルートしか吹けないし、そもそもそれ以外の楽器触ったことすらないんだから。でもまあ、せっかく新天地にやってきたわけだから、いっそのこと全く新しい楽器にチャレンジしてみることもありかな。ほら、私あんまし上手く吹けないし。ひよ子はどう思う?」
進学に伴って楽器を変えることは、そこそこ真面目に考えていた。けれども、親に一年分のお小遣いを前借りして買ったフルートが私にはある。例えどれだけ下手であっても、なんせ三年間連れ添った相棒なのだから思い入れはあったし、なんとなく勿体無いという気持ちも先行していた。何より、ひよ子と同じ楽器をやりたいという願望もあった。
「私は別にどっちでもいいと思う。これは判断を丸投げしてるとかそんなのじゃなくて、結局のところ自分のことは自分で決めて欲しいなあって思いが強いから。それにみすず、私が『変えたほうがいい!』って言ったら絶対変えそうだし、『変えなくていい!』って言ったら絶対変えないじゃん」
「それは、まあ」
私は否定できなかった。事実、ひよ子の技術を認めるどころか少し引け目さえも感じてしまっている私にとって、親友の勧めなら勝手に体が流されてしまう気がした。というか、ここは流されてもいいと思っていたから訊いたまである。
「あと、私はみすずのフルート好きだよ」
ひよ子は満面の笑みを浮かべてそう言った。素直に嬉しいのだけれど、面と向かって言われるとなんだか心の奥がむず痒くって仕方がなかった。
「いつでも全力出してるのが伝わる。それに毎日私より練習したの、私は覚えてるから。めっちゃ頑張るみすず見てたらさ、『ああ、私も頑張らないと』って気持ちにさせられるしね」
その時、ひよ子の左隣からヌッと長めのポニーテールが顔を出した。
「あのー、実は私もフルートやってて……」
じとっとした目をした女の子は、何故だか申し訳なさそうに話しかけてきた。椅子に身を縮めて座っていて、辿々しい雰囲気があった。
「え、偶然! じゃあこれから一緒に頑張る仲間ってことか。私、園中からきました、廉方ひよ子です。で、この前に座ってるのが私と愛の契約を結び運命を分かち合った存在……」
「そんなのじゃない。大井みすずです。このふざけた奴の言うことなんて真に受けなくていいから」
「なっ、あたかも私が虚言癖みたいに言いやがって!」
「実際事実なんだから仕方ない」
「仕方なくない!」
私たちの不毛な押し問答を、口をぽかんと開けながら眺めていた女の子は不意に笑い出した。
「仲良いんですね。えっと、私は南高槻っていう中学からきました。
「へー、聞いたことないや。もしかして他県の高校?」
ひよ子は初っ端から突っ走りすぎだ。明らか私と同じ人と接するのが慣れてないタイプの人間なんだから、もうちょっとゆっくり話さないと。
「あ、大阪の」
「大阪か、たこ焼き美味しいでんがなぁ、なんちゃって」
流石に突っ走りすぎだろ。
それからひよ子は初対面であるはずの初川ちゃんに、延々とフルート愛を語り続けていた。よく見てみろひよ子、お前の愛が強すぎて相手は相槌を打つのに精一杯だよ。初川ちゃんを少し気の毒に思った。
そうこうしているうちに時間はあっという間に過ぎたようで、背後の扉が開いた。そこからかつかつと靴音を立てながらたくさんの生徒がゾロゾロと出てくる。スカートやリボンの色は赤、緑。私たち一年生の青色と違うということは上級生、この部活の先輩たちというわけだ。
黒板前に一列に並んだ上級生たち、音楽室の隅にあるピアノの後ろには壮年の男性の姿も見えた。確か、あの人はここの顧問だったはず。真ん中に立っていた落ち着いた雰囲気の男子が一歩前に踏み出した。流した黒髪に悠々と着こなした制服、見るからに好青年である。
彼は部長だった。男子が部長をしているだなんて珍しい。男女比を考えても、重要なポストは女子部員が入りがちなのに。
その後も副部長、学指揮、セクションリーダ、パートリーダー、そして顧問の先生の紹介があり、おもな活動方針や具体的な活動内容を説明した後、満を持して見学会歓迎演奏の時がやってきた。
体育館に移動した私たちは、壇上に並んだ先輩に一心に目を向けている。
楽器のセッティングが完了するまでの間、真っ暗な体育館の中で横から声をかけられた。
声の主は初川ちゃんだった。
溢れんばかりの興味に身を任せ、一人でそそくさと向かってしまったひよ子は、到着順に並ぶことに気がつき、必死に私たちのところに向かおうとしたみたい。しかし、その甲斐なく、最後方を歩いていた私たちとは一番離れたところで大人しく座っている。
「あの、大井さんって、なんで吹奏楽やってるの?」
寝耳に水だった。まさかひよ子みたいにぶち込んでくるキャラだとは思ってもいなかったから、気が動転している。一気にインナーに汗が染み込む感触がした。ジメジメして、気持ちが悪い。
「な、なんで?」
こう返してから、無理にでも話題を変えるなりすれば良かったと後悔した。自分で話を広げてしまった。墓穴を掘ってしまった。
「いや、なんというか、その、大井さんって廉方さんとは違ってフルートをこよなく愛しているわけでもないし、吹奏楽が特段好きな感じもしないなと思って。だからなんでなんだろうと」
今、自分の顔がどうなっているのか無性に気になった。変な顔してないといいのだけれど。
「いや、そもそもひよ子がおかしいだけだよ。あんな吹奏楽バカ、見たことない」
二人は同時に噴き出した。ひよ子が羨ましそうにこっちを見ている気がした。
「私もちっちゃい頃に見た演奏会からこの世界にのめり込んでるし、廉方さんと同じ、吹奏楽バカなのかも」
初川ちゃんはくすくすと微笑んだ。
「でも驚いたよ。初川ちゃんって結構食ってかかるタイプなんだね」
すると初川ちゃんは面食らった様子で話し出した。
「私、引っ込み思案な割に人との距離測るの苦手で……。その、不快になったのならごめん」
初川ちゃんが、意外と私の身近にいるのだと感じた。私と同じで、距離を測るのが苦手。でも、私と違ってそれを免罪符にして人とコミュニケーションをとることを諦めていない。彼女もまた、私よりもずっとすごい人なのだな。
「強いていうなら、ひよ子のため? 私が、あの子の横に立つため」
「それ、本当?」
「本当だよ。だって、私が吹奏楽を始めたきっかけそのものが、ひよ子なんだから」
四年前、九州からこっちに引っ越してきた私にとって、公立の中学校はとてつもなく居心地が悪かった。みんながみんな、小学校の頃からの友達を持っているし、地元トークで盛り上がれる。
もっと中途半端な時期に転校してきたのなら物珍しさにいろんな人が寄ってきてくれたのかもしれないけれど、中学進学と同時にやってきた私は、同級生からすれば違う小学校出身の子たちとなんら変わりはなかった。
なかなか形成されている輪に一人で突入する度胸はなく、だんだんと人と話さなくなった。けれども、映画やドラマでよくある教室の端で塞ぎ込んだり、いじめられたりすることはなかった。つらくはないけれど、特段楽しいわけでもない、そんな生活を送っていた。
ひよ子との出会いは、入学から少しして、もうそろそろ夏休みに入ろうかという時だった。放課後、忘れ物を取りに学校に戻るという意味ありげなシチュエーションの中で偶然見つけた。ただ彼女は吹奏楽部の練習で空き教室を使っていただけなのに、変に偶然ではない気がしてしまった。運命だなんて言うと恥ずかしくて蒸発していまいそうだけれど、当時の私は本当にそう感じた、かもしれない。実際のところ、そんな痛々しい思い出は思い出したくもない。
でも、そのあと急いで入部届を出して、夏休みから練習に参加するくらいは心酔していたのかも。
そんな思いに耽っていたら、知らぬ間に演奏は始まった。
昨年のコンクール課題曲。我ながらボキャブラリーのなさを痛感するのだが、広大で悠久の大地を感じるような、そんな曲だった。雄大で高尚な音色が特徴。聴いてみて感じたことは、入学式の時の演奏と比べると、幾分か上手くなっていることだった。
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