第一楽章:甘い決断

 雨が降っていた。シトシトとリズムよく、私の耳の中に自然と、まるで川のせせらぎのように滑らかに注ぎ込まれていた。

 トントンと、リズムをとってみる。春に入ったとはいえ、まだまだ冷気を帯びている放課後の教室机は、私のか細い指が触れるごとに小さな鈍い音を立てていた。入学式も終わって、まだ肩の感触の取れていないゴワゴワとした制服もだんだんと湿気のせいか馴染んできた。それでもまだ、ブレザーに関しては着心地が悪いのだけれど。


「なんというか微妙だなぁ、あの演奏」


 机に右頬をむぎゅーっとつけながら、ふと、口からそんなことが飛び出した。

 微妙というのは、私が今日入学した高校の吹奏楽部がした、入学生歓迎演奏会でのことである。朝から降り続いている雨に負けじと体育館内で響いた音色、上部だけを重ねたような、なんとも言い難い調和。捉えどころのない、若干の散漫な音が私の耳に障った。でも、微妙というのは少し言い過ぎなのかもしれない、そんな演奏だった。


「でも、それなら私でもなんとかなるか」


 私にとって、ここの吹部があまりにも強豪だったら困る。まるっきり練習にもついていけず、なにも得ることなく三年間をドブに捨てることになるだろう。

 並の運動部より運動部する文化部、吹奏楽という魔境。私が中学の頃に青春を投げ打ったもの。そして、これからの三年間も捧げようと思うもの。

 ダラダラと教室に居残っていると、だんだんと雨足も強まってきた。入学式が終わり、クラスメートがみんないなくなった後、薄暗い教室に残るのは黒板に大きくチョークで書かれた『入学おめでとう!』の文字とそこら中にある飾り付け。ここまで待ったのは、あわよくば雨が止めばいいな、なんて考えがあったからなのだが、これなら普通に変えればよかったとちょっと後悔した。


「失礼しまーす」


  もうそろそろ帰ろうと思った時、私の右後ろから勢いよくドアの開く音がした。それと一緒に入ってきたのはなんとも陽気な声だった。


「あれ、もしかしてみすず? 覚えてる? 私、園中の廉方かどかたひよ子。一、二年の時同じクラスだった」


「もう、ふざけないで。私がひよ子のことを忘れたら、私はとっくに認知症」


 顔をあげながらひよ子の言葉にそう応える。

 ひよ子は、私が中学で最初に作った友達だった。気さくな性格にその打点の低い奇抜なツインテールは、見たものに自分の顔を一瞬で覚えさせる力がある。第一、彼女には捉えどころのない独創的なオーラが漂っているというか、不思議な雰囲気を身に纏っている。春休みにも入り、中学三年の時は一緒のクラスではなかったこともあってか交流はあまりなかったので、すごく新鮮な気分になった。

 不意にひよ子は、自分の小さな手で私のほっぺを鷲掴みにした。そしてまるでパン生地をこねるように揉み出した。


「やっぱり最高だなぁ。久しぶりのお団子ほっぺ」


 寄せられた顔の肉のせいで萎んだ視界からは、ひよ子の満足そうな表情が見えた。まさに喜色満面。彼女は私がこのぷにぷにとした頬のことを気にしていることを知らない。


「……いつまで触ってるの」


「ああ、ごめんごめん。いやー、やっぱりめっちゃ柔らかいよね。前触った時よりも弾力に拍車がかかってる気がするし」


 そりゃあ、嬉しくないことに去年よりも体重は増えている。春休みの間ぐうたらと自堕落に生活していたのがいけなかった。朝ご飯を食べて、録画したドラマを見て、昼ごはんを食べて、お昼寝をして、ゲームして、スマホ見て、夜ご飯を食べ、風呂に入り、寝る。あ、もちろん歯磨きもする。大体のルーティンはこれで完成されていた。やっぱり、ちょっとは運動しておくべきだったと今更ながら後悔した。


「というか、ひよ子も遅くまで残ってたんだね。何かあったの?」


 私のその問いに対して、またもニヤリと笑みを作ったひよ子は大きく口を開けて話し出した。


「音楽室に行ってた! 今日の入学式で吹部が演奏してたでしょ? だから楽器とかどんな感じなのかなと下見をしてきた次第である」


 ひよ子はピシッと敬礼した。上げる手が逆だということは黙っておこうかな。


「やっぱりみすずも吹部に入るの? ほら、私たちずっと一緒にやってきたわけだしさ」


 ズイズイっと顔を目の前に寄せながら、ひよ子は訊いてきた。

 正直、返答に困った。中学の頃もひよ子とは一緒に吹奏楽をやってきた。私も彼女もフルートで。

 ひよ子の実力は中学時代も随一のもので、京都府内であればもっともっと上の高校でコンクールメンバーに選ばれることもできるだろう。先生からも、これから吹奏楽を続けるのならと、府内のいろいろな強豪を紹介されていたみたいだ。でも、彼女はここを選んだ。

 それに対して、私の技術というのは並かそれ以下であった。三年ではかろうじてメンバーに入ることはできたけれど、ひよ子と比べると天と地ほどの差。逆を言うのなら、ひよ子に追いつくためにここまで続けてこれたっていうのもあるけれど。


「とりあえず明日、見学行ってみよ」


 ひよ子は私の引っ込みがちな様子を察知したかのように、一歩踏み込んできた。普通ならここは身を引く場面なのだろうが、彼女は奥までズカズカと入ってきて手を引っ張ってくる。自分から積極的に動くことのできない私にとって、こうやって道を示してくれることは嬉しいし、素直に憧れる。これから先も、こんな関係がずっと続けばいい。ふと、そんなことを考えている自分がいることに気づいた。


「じゃあひよ子、今日のうちは帰ろっか」


 軽快なリズムを刻みながら階段を降りるひよ子を見て、今みたいにずっとずっと先を歩き続けてしまうのだろうか。かろうじてひよ子がこの高校を選んだからいいものの、もっとずっとすごい高校に進学していたとしたら、私と彼女の関係はどうなっていたのか。

 杞憂に終わればいいと思いながら、私はその気持ちをかき消した。

 程なくして、私とひよ子帰路についた。

 学校に咲く桜並木の花は雨のせいで結構落ちてしまっていて、校門までの道に薄桃色の絨毯を作っていた。果たしてこれからの私は、落ちてしまった方なのか、はたまた雨の中もしぶとく咲き誇り続ける方なのか。不意にそんな考えが頭をよぎった。

 なんとなくでは続けられないような、長く険しい道が待ち受けている予感がした。

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