ep7
あんな話をした翌日も、直子は浩さんの作ったパンを食べたがった。
「矛盾してると思うでしょう。そんなに嫌いな相手とどうして籍を入れて、今も一緒に暮らしてるのかって」
「それは、そうね」
「最初はもちろん、殺してやるくらいの気持ちで近づいたのよ。彼のパン屋の常連になって。それで初めて、仕方なく彼の作ったパンを食べたのよ」
私はこれ以上聞くのがなんだか恐ろしくて、スープを掬って直子の口元へ運んだ。けれど、直子は「もうお腹いっぱい」と私を制して、話を続けた。
「どれも凄く美味しかった。悔しいくらいに。でもクロワッサンはね、格別だったのよ」
「そう」
「両親の……両親の店と、同じ味だったの、怖いくらいに。彼を失えば、この懐かしい味も食べられなくなると思って……。彼を手元に置いて、一生パンを作らせることにしたの、私のために。一生分のクロワッサンじゃ、許せないけど。結局もう二度とちゃんとは食べられないかもしれないわね」
直子は途中で何度も言葉を詰まらせながら話した。愛おしいのに憎らしい存在。失いたくないのに消えて欲しい存在。私にとっての直子と似たようなものかもしれない。
「あなたには、それを知っていて欲しかったの」
まあるい瞳が私を見つめる。目の周りが窪んでぎょろっとしたその視線に、鳥肌が立つ。直子が変わり果てたといっても、顔の作りの全く同じ人間に見つめられるのは、気持ちのいいものではない。
「彼、パンの魔法は完璧だけど、人間の魔法はそうじゃないみたいだから。私の複製のあなたにもこの記憶を教えたら、どう思うんだろうって」
伝え聞いた残酷な記憶は、私の身体には馴染んでいかない。見た目が完璧に同じでも、私が経験していないことは、やはり私のものではないように思える。浩さんが直子に分裂の魔法を使った時、本当は、病だけが私に移るはずだった。結局、禁忌の魔法というのは上手くいかないもので、病も記憶も直子から分裂することなく、私は見た目だけの複製として生まれた。浩さんの作るパンのように、ぴょこん、と直子から分裂して。私には、直子と浩さんと暮らした幸せな一年間の記憶しかない。だから、直子を憐れんで泣くことはできても、私はやっぱり浩さんを愛している。神経質で、でもぶっきらぼうな彼を。私は浩さんのほんの一面しか知らないし、他の男も知らない。だから簡単に彼を好きになってしまったのだと思われるかもしれないけれど、私のこの想いだけは、私だけのものだ。
「別に、私に言う必要はないけどね。これからもあの人を愛そうと、やっぱり憎もうと、私には関係ない話なんだから。最期のわがままを聞いてくれて、ありがとう」
直子はさっぱりとそう言った。最期のわがままの中に、私へのささやかな気遣いがあった。
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