ep3 直子の出会い

 私が魔法を使えないと知った頃、町に二つ目のパン屋がオープンしたの。父よりずっと若い男の人が一人で営んでいて、そう、浩さんよ。うちと違って、普通のパン屋だってことは噂で聞いてたわ。魔法が使える普通の人間のパン屋だってね。それでも、開店当初は、うちの店より美味しいものを作れるはずないって信じてたの。

 でも現実って残酷ね。隣のおじさんは、あそこは全国から選りすぐりのパンを集めてきたような店だって褒めてた。はす向かいのお姉さんも、あそこのクリームパンはカスタードと生地の黄金比がたまらないのよって言ってたわ。そうして、次第にうちの店からは客足が遠のいて、廃棄のパンは食卓に並べきれなくなってった。私、何度も彼の店に出向いては、その美味しさの秘密を暴こうと偵察をしてたの。でも、負けを認めるのは嫌だったし、小遣いもなかったから、パンを買うことはなかったけどね。


 あの日の彼は、店の裏に出て煙草を吸ってたわ。昔は吸ってたのよ、想像つかない? それで、急に声を掛けてきたの。「なあ、君、そこのパン屋の子だろ」って。電柱の裏に隠れていたつもりだったから、驚いたわ。「違います!」って慌てて否定したら、馬鹿にしたように鼻をならしてたの、覚えてる。彼が話すと煙草の臭いがして、それがパンの香りとあまりにもかけ離れてたから、なんだか腹が立った。

 私、しどろもどろになっちゃって。「ここのパンが美味しそうで、どうやって作ってるんだろうって気になっただけで……」とかなんとか。ここで喧嘩を売っては両親の迷惑になるかもしれない。かと言って偵察をしていたとバレてもいけない。子どもながらにそんなことを考えて言い訳してたのよ。なのに彼は余裕そうな表情で、「なら、作るとこ見ていくか?」なんて言ってね。


「単純な魔法だけどな、正確さには自信があるんだ」

 あの時そう言ったの、彼。魔法なんてたいしたことないっていうふうに。ショーケースから残り一つになってたクロワッサンを手に取ってね。両親が作るのによく似た、美味しそうなクロワッサンだった。それを作業台に置いて、上に手をかざす。彼が手をどけると、そこには二つのクロワッサンが現れた。もう一度手をかざし、宙をなぞると次は四つに。私はわけがわからなくて、しゃがんで横から覗いてね。そうすると、クロワッサンがぴょこんと跳ねて八つに分裂するのが見えた。本物のパン作りの魔法は、あまりにもあっけないものね。いつまでも眺めていたくなるようなときめきなんて、少しもなかったんだもの。

 彼は「土産に一つやるよ」と言ってくれたけど、断った。よりによって、うちの店で一番人気の、私の一番のお気に入りのパンだったのよ。あの時は、もしも本当に完璧な味がしたら、私はもう心の拠り所を失ってしまうような気がしたの。


 今は毎日彼のクロワッサンを食べてるのにね。彼のことすごく嫌いだったのよ。驚いた?

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