第2話 幸せをくれた人

 いつからだろうか、私が心から笑えなくなったのは。きっかけは色んなことがありすぎて覚えていない。生まれた家に縛られ、自分の意思は消されて、何一つ自分のことを選ぶことなんてできなかった。


 広い土地と歴史ある家柄しか残っていない家に生まれた私は、当主からしたら救世主に見えたらしい。生まれた時から私は美しかった。これは自惚じゃない。私の出会った人はみんな、私のことを美しいと評価した。


 私は淑女としての生き方を強制された。


 本当は外でみんなと遊びたかった。でも、怪我をするからと、淑女はそんな野蛮なことはしないと許可されなかった。


 本当は友達とお泊まりしたり、一緒にカラオケに行ったりして青春したかった。でも私は名家のお嬢様としてクラスで浮いていたし、数少ない友達とも門限のせいで関われる時間は限られていた。


 そして、自由に恋をしたかった。でも、高校生になった頃には大企業の社長に嫁ぐことが決まっていて、恋なんてできるわけがなかった。


 そんな灰色の人生に一つだけ、美しく鮮烈に色付いた記憶がある。


 あれは私が社長に嫁ぐことが決まった時のこと。身代金目当てのマフィアに誘拐されたことがあった。私の家にお金はないし、まだ結婚をしていない社長が私のために大金を払ってくれる保証なんて無かった。


 正直、このまま死んでもいいかなと思ってた。どうせ誰かに利用されるだけの人生なら、早く終わってしまった方が苦しまずに済むだけマシかもしれない。でも、知らない人に囲まれて怖かった。お金が貰えなくて殺されるなら、きっと酷い殺され方をする。痛いのは嫌だった。


 絶望の中で私は恐怖に蝕まれて、死にたいのか、死にたくないのかも分からなくなっていた。ただ一つ確信をもって言えるのは、私の手をとって闇の中から連れ出してくれるヒーローを望んでいたという事だ。


 そんな時、彼女は現れた。私が監禁されている広い倉庫に一人でやって来た彼女は、表情を崩さずに華麗に舞いながらマフィアを殺していった。


 彼女が銀の刃を振るうたびに、紅い花が鮮烈に咲いては一瞬で散っていく。彼女は私に近づくほど紅い花弁に彩られていき、その姿をはっきり捉えられる距離まで近づいた時には煌々と燃えるような紅いドレスを身に纏っていた。


 綺麗だ。


 どんな絵画も彫像も私の目にはくすんで見えたのに、あの時の彼女だけは美しく色付いていた。あっという間にマフィアを全滅させた彼女は、私を縛っていた縄を解いて手をとってくれた。


「もう大丈夫」


 その手は今まで私に触れた誰よりも温かかった。見た目から同い年くらいだと察せられる彼女は、暗く澱んだ瞳をしているのに、私の心に染み渡るような優しい笑みを浮かべていた。ちぐはぐで、だけど綺麗な彼女に私は心を奪われた。


「さぁ、逃げるよ」


 彼女に手を引かれて光の差す方へ走り出す。私が転ばないように歩幅を合わせて。


「あなたの名前は」


 それどころじゃないのに、思わず私はこんな事を口走っていた。変な子だと思われたかなと場違いな不安を抱いた私に、彼女はあっけらかんとした顔で答えてくれた。


「あかり。華宵あかり。あなたは?」

「えっ、えっと、染井桜です」

「見た目通り、綺麗な名前だね」


 顔のまわりがボンッと爆発したみたいに熱くなる。誰にどんな口説き方をされても何も感じなかったのに、見た目を褒められただけで照れてしまった。


 運動をしたわけでもないのに心臓はバクバクと激しく鼓動して止まってくれない。繋がれた手を離したくないと思ってしまう。


 初めて会う、しかも殺し屋にこんなことを思うなんて絶対におかしい。でも、何もかも普通に生きられなかった私の恋の始まりなんて普通じゃなくていいのかもしれない。


 かなり遠くまで連れ去られていたから、家族が私を引き取ったのは助けられた次の日だった。だから、それまでの間彼女と一緒に過ごすことができた。


 それはまるで夢みたいに幸せな時間だった。


「えっと、これどうやって頼むの?」

「えぇ!?これ知らないってどんだけ深窓の令嬢なの」


 少し落ち着こうと、とあるコーヒーチェーン店に訪れた時に驚かれた。だってこんなメニュー表初めて見たんだもん。


「これはカスタマイズとか色々選べるんだよ」

「そうなんだ。何がいいのかな」

「どんなのが好きなの?」

「えっと、チョコとか、甘くて、あとあったかいの」

「そっか。じゃあ」


 彼女は慣れたように呪文じみたなにかを唱える。すると店員は呪文をものともせずに済ました顔で頷いた。そしてしばらくしてから渡されたものは、とても飲み物を頼んだとは思えないくらいクリームが盛られていた。本当にこれでいいのかと彼女を見つめると、優しく笑い返されて頬が熱を帯びた。


 席に座って向き合っても彼女はずっと楽しそうに笑っていた。


「こんな美人とデートできるなんて役得だなぁ」

「婚約者いるんですよ、わたし」

「愛してるの?」

「まったく」

「ならいないようなもんでしょ。今は私だけ見てて」


 私の両頬を押さえて、照れてしまうからと逸らしていた視線を無理やり合わせられる。あの倉庫で見た吸い込まれてしまいそうな澱んだ黒は、純粋な水晶のようにキラキラと輝く瞳に変わっていた。


 彼女はまた別の姿で私を魅了する。思わず見惚れてしまって、口に残る過剰な甘さも忘れてしまった。


「ねぇ、名前で呼んでいい?」


 半分まで飲み終わった頃、突然彼女はそんなことを聞いてきた。


「別にいいけど、なんで?」

「同い年の子と話すの久々だから。君とは仲良くしたいんだ」

「どうせすぐにさよならなのに」

「いつかまた会えるかもしれないでしょ」


 根拠のない彼女の考え。けれどそれはひどく魅力的で、それを受け入れない選択肢は無かった。


「いいよ、あかりちゃん」

「ありがとう、桜ちゃん」


 名前を呼び合って、なんでもないことで笑い合う。私の生きてきた中でこんなにキラキラした時間があっただろうか。


 場所は変わって路上で見かけたクレープ屋さん。通り過ぎようとするあかりちゃんの袖を引いてクレープ屋を指差すと、彼女は慈しむような瞳を私に注いだ。


「甘いの好きなんだね」

「こういうとこ初めてだから」

「ふぅん。退屈な人生送ってんだね」

「でも私にはそれしかないから」


 私の灰色の記憶を取り出しても、その全てはくすんでいて正しく認識できない。十数年生きているはずなのに、記憶の総重量は片手で持ててしまうくらい軽くて、よそ風が吹いただけで飛んでいって拡散してしまう。


「なら、今日は目一杯楽しんでもらおうか」


 あかりちゃんは私の指を絡めとり、クレープ屋さんの行列につれて行く。近づくにつれて甘い匂いが強くなり、自然と口角が上がる。


「ふふっ、かわいいね」


 くすぐったくなるような甘い声。ここで初めて私が今までにしたことがないくらい笑顔になっているのに気がついて、反射的に手で顔を覆う。


「ちょっとー、かわいいお顔がみえないよ?」


 懸命にガードしようとしても、まるでプレゼントのリボンを解くみたいにあかりちゃんは容易く私の手を顔から剥がした。


 視界に光が注ぐと共に彼女と目が合う。ニカッと彼女が満足そうに笑うと、私の体温はさらに上昇する。


「じゃあ行こうか。どれ食べたい?」


 どうしていいか分からず俯く私に、何事もなかったかのようにあかりちゃんは語りかける。


「すとろべりぃ……すぺしゃる……」

「おっけー」


 ぼそぼそと小声で呟いた注文をあかりちゃんが店員さんに代弁する。彼女はもう一つ自分のものを注文すると、少しして注文の品が手渡された。


 近くの公園のベンチに移動するころには私も落ち着いていて、あかりちゃんとまともに目を合わせられるようになった。


 彼女から私が頼んだクレープを手渡され、それにかぶりつく。イチゴの酸味とクリームの甘味が広がって、胸の中が幸福で包まれる。これはクレープが特別美味しかったとかじゃなく、きっと外の空気に触れながらあかりちゃんと一緒に食べてるから。なんて、乙女チックな恥ずかしいことを考えていたら彼女が自分のクレープを差し出してきた。


「食べてみて。きっと気に入るから」

「なんていうの」

「ハニーチーズスペシャル。チーズケーキとハチミツを組み合わせたやつだよ」


 差し出されたものの正体を知ってから、言われた通りに差し出されたものにかぶりつく。これもまた甘くて、でもさっきとは違った味わい。十分堪能してから飲み込んで、私のクレープを彼女に差し出す。


「お返し」


 二つともあかりちゃんの奢りなのにお返しなんて、変なことを言っていると自分でも思う。だけどどうしてもこうしたかった、なんて言ったら笑われるかな。


 彼女は嬉しそうに頷くと、私のクレープにかぶりつく。いちごが一つ落ちそうになったのを手で押さえて口に収めた。ちょっと慌ただしく食べたせいか、彼女の頬にはクリームがついていた。


「あかりちゃん、ここついてるよ」

「んー、どこー?」

「右のほっぺの」

「わかんないなー」


 わざとらしく私の声を遮る。


「わかんないから、桜ちゃんにとって欲しいな」


 あかりちゃんは悪戯っぽく笑うと、クリームがついた右頬を露骨に差し出した。彼女の要求を察して生唾を飲み込む。これって、そういうことだよね。一度深呼吸をして覚悟を決めて、グッと顔を彼女の頬に寄せる。


 そして、ペロリとクリームを舐めとった。


 彼女の反応を窺うために顔を見ると、彼女は目を丸くして私を見つめていた。あれ、何か間違ってしまっただろうか。


「桜ちゃんってば大胆なんだね」


 少し小さな声でそう呟いたあかりちゃんの頬が赤く染まっていたのは、きっと気のせいなんかじゃない。彼女は小さく息を吐いて、また私に目を合わせた時には余裕のある表情に戻っていた。


「普通はさ」


 あかりちゃんは私の頬に指をそわせると、指先についたクリームを見せつけるように口に含んだ。


「こうやって取るんじゃない?」


 私の行為がどれくらい恥ずかしいことか示されて、私の頬はクリームの色からイチゴの色に早変わり。こんなに私の顔色がコロコロ変わった事なんてない。


「あ、あかりちゃんが変なこと言うからでしょ!」

「あー怒らないでよー。あれ結構嬉しかったんだよ?」

「知らない知らない!」


 恥ずかしくて顔を見れなくて、そっぽを向いてクレープを貪る。体が熱くなって何も考えられなくて、もはやクレープの味なんかわからなかった。


 その後気を取り直していろんな場所に行った。見たことない花が彩る植物園、ちょっとにおうけど可愛い動物がたくさんいる動物園、幻想的な水の世界に魅せられた水族館。


 そしてすっかり暗くなった頃、私たちはホテルのベッドの上でぐったりしていた。ころりと体を翻すと、少し離れた所にあるもう一つのベッドに彼女は腰掛けていた。


 シャワーで汗も流して、パジャマに着替えて、あとは寝るだけだ。それでこの一日は終わる。終わってしまう。


 あかりちゃんは私の世界を広げてくれた。内側に押し込められていた私を外に連れ出してくれた。外の世界はキラキラと輝いていて、隣を歩く彼女は私を何度も笑顔にさせてくれた。


 そんな夢のような時間が目を閉じれば終わってしまう。また内側に押し込められて、貴方がくれた色彩も掠れていってしまう。


 貴方を忘れるのが嫌だった。また心を失うのが怖かった。だからかな、あんな幼子のような行動をとってしまったのは。


「桜ちゃん?」


 気がついたら私は、彼女と同じベッドの上にいた。少し困惑の色があるけど、優しい声色は変わらない。そんな彼女が好きだった。


「いっしょに寝よ」


 恥ずかしすぎてまともに顔を見れない。まるで怖い夢を見た子供のようなお願い。でも、一人で眠ってしまったらきっと私は悪夢を見る。嫌な確信が私の幼さを加速させる。


「いいよ」


 私の突然の行動に、彼女は何も聞かなかった。聞かないでいてくれた。ごろりとベッドの上に寝そべって、両手を広げる。


「おいで」


 彼女に優しく促されて私は魅惑的な腕の中に吸い込まれていった。彼女は私を優しく抱きしめて、腕の中にすっぽりと収めた。優しさが彼女の手から染みてきて、私の中の不安を薄れさせる。


「もっと」


 でも、私はそれ以上を求める。優しい彼女はそんなわがままも受け入れてくれた。


「これでいい?」

「ん」

「そっか」


 無愛想な猫撫で声を受けて彼女は力加減を固定した。彼女の鼓動が近くなる。彼女の体温をより密接に、身体の芯まで感じられる。彼女の香りが私の胸を満たす。考えうる限りの幸福を与えられて、私の中にあった不安はどこかに消えてしまっていた。


「おやすみ」


 彼女の魔法の言葉に手を引かれ、さっきまで眠るのを怖がっていた私はあっさりと眠りの世界へ誘われた。その日また夢は朧げにしか覚えていないけど、鮮やかな色でキラキラと輝いていたことは確かだった。



 そして翌朝、私は迎えにきた両親たちに引き取られた。マフィアに攫われて警戒したらしく、私の婚約者は数十人の黒服を着たゴツイボディガードをよこした。


「ご苦労だった」


 ボディガードのリーダーらしき人物が仕事を終えたあかりちゃんに応対する。その後ろで周囲を忙しなく警戒するボディガードに囲まれながら、私は彼女を見つめていた。


「身体だけでなく心も無傷で奪還するとは。プロフェッショナルとして君を尊敬するよ」

「……無傷ねぇ」


 彼女は機械のように無機質な雰囲気を纏う男に詰め寄り、絶対零度の瞳で睨みつけた。


「私が見つけた時には、桜の心は傷だらけだったよ」


 辺りにビリリと痺れるような緊張感が走る。それを察知したボディガード達はあかりちゃんの方を向いて臨戦態勢をとり、リーダーは直立不動で彼女を見下ろしていた。


「私がその気になれば、あんたらを全員殺して桜を攫うこともできる」


 凍りついてしまいそうなほど冷たい声。それが昨日私を抱きしめてくれた彼女の物とは思えないくらいに。けれどリーダーは冷静なまま、ゆっくりとサングラスをとった。


「彼女の事情は我々の知るところではない。しかし、もし君が刃を振るうと言うのならば、我々はプロフェッショナルとして桜様を守ろう」


 リーダーはあかりちゃんを真っ直ぐ見て、堂々とそう答えた。すると彼女は小さくため息をつき、一歩後ろに下がった。その瞬間プツンと緊張の糸が切れて、周囲のボディガード達は握った拳を開いた。


「少し感情的になりすぎたね」

「そうだな。気をつけたまえ」


 車のエンジンがかかり、そろそろ出発の時らしい。


「いつか桜の手を取るために、綺麗なままでいたいからね」

「……今のは聞かなかったことにしよう」


 不敵に笑った彼女にリーダーは呆れたようにため息をついた。彼はボディガード達の指揮に戻り、私とあかりちゃんの目が合った。


 これでお別れなんだと思うと、何か言葉をかけなければと思った。それなのに何も出てこない。


 「さよなら」を言いたくなかった。でも「またね」なんて自分に希望を持たせるのも怖かった。あかりちゃんが私を大切に思ってくれてるのは確かなんだろう。私もあかりちゃんが大好きだ。


 でも、私と彼女じゃきっと重さが違う。私にとってはたった一人の私を理解してくれた大好きな人。だけど、彼女にとっては依頼でたまたま出会った美人でしかない。彼女はこの後もいろんな場所に行って、いろんな人と出会う。私なんてすぐに分厚い記憶のアルバムに紛れる一枚の写真に成り果てる。


 そうやって思う内に言葉をかける勇気も無くなって、逃げ出すように帰りそうになった。そんな時、彼女は躊躇いなく駆け寄ってきた。


「またね、桜ちゃん」


 そんな屈託のない笑顔で、そんなくすぐったい優しい声で、貴方から「またね」を貰ってしまったから、私はさっきまでの迷いなんて忘れてしまった。


「うん。またね」


 この言葉はきっと私を苦しめる。灰色の人生の中でも、この言葉のせいで私は生きられてしまう。また貴方とまた会う日を夢見て、非現実的な願望にしがみついて、苦しみながら生きていく。その苦しみはきっと想像を絶するものだろう。


 だけど私に後悔はない。だって、貴方は私に幸せをくれたから。


 急に私に触れたから、さっき私を攫うと公言したのもあってボディガード達が彼女を捕まえようとする。しかしそれをヒラリヒラリと躱し、人間離れした跳躍力で飛び去った。


 彼女が消えるその刹那、笑顔でヒラヒラと手を振ってくれた姿を私は忘れることができなかった。

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