03_38 獣脂《ラード》でええやろ
グレインズ商店は、
歳月を経た木の床が微かにきしむ音がする中、外からは市場のざわめきが遠く聞こえてくる。奥のカウンターでは、主人が古びた秤を動かす微かな金属音が静寂を切り裂くようだった。
壁際には麦やトウモロコシの入った大きな麻袋が積み重ねられ、古びた文字で「居留地A-12」や「売却済」などの印が雑に描かれている。木の天井近くには、乾燥させた植物や道具がぶら下がり、足元には細かい穀粒が散らばっていた。
奥のカウンターでは商店の
天井の梁に取り付けられた小さなランプが、薄暗い室内をぼんやりと照らしている。光に照らされ、店内には静かで重い空気が流れていた。
古いペンキの禿げた木製椅子に腰掛けたニナは、相棒のマギーを眺めていた。目の前のティーポットは、置かれたまま湯気の消えている。
「……マギー、さぁ」ニナは途方に暮れたように相棒の名を呼んだ。
「伝説の服だったのだ」マギーちゃんは強弁した。
「本物のデザートレンジャーの上着だったんです。ずっと欲しかったんです。人生で一番欲しかったものなんです」この一か月ほどで三着目の二千クレジットの服である。マギーが買った上着は、くすんだ砂色をしていて、一見するとただの古びた制服にしか見えなかった。それでもマギーにとっては違うようだ。
「丁度、手元に二千のお金があって。目の前にあると思ったら運命だと……」
「言う程、伝説ではないよ。結構、流れてくる」エミリー・グレインズは、どうでも良さそうに口を挟んだ。古い悪友のマギーが苦しんでいるのを見るのが楽しいようで、口元はにやついていた。
「マギーさん?」ニナが問い詰めると
「はい。御免なさい」マギーは、許しを乞うように跪いて手を組んだ。
大人に見えて、信頼していたマギーの……マギーのなんだ?
「まあ、信頼してるけど……でも、ちょっと大金だよね。手持ちが乏しい時にさ」おのれの首を飾る高価なマフラーを指先で弄りながら、ニナは混乱していた。声には疲労感が滲んでいる。普段のマギーは、稼ぎを独り占めしている訳ではない。むしろ、いつもお金の使い道を二人で話し合って決めてきた。それでも、今回、マギーが勝手に大金を費やした事で、ニナは心の奥に小さな刺を感じていた。
「でも、結局のところ、マギーが使い道決めていて……なら、私はなんなんだろう。
私だって欲しい本、沢山あります。でも我慢しました」ニナは、やや悲しげだった。
あまり他人には興味無さそうなグレインズ家の兄妹たちまで、聞き耳立てていたのか、ぼそぼそと囁き合っている。
(取引先に不信を抱かれるのは不味いな)鼻を啜ってからニナは姿勢を変えた。
「あ、余り深刻な話ではないですよ。資金を使い込んだとかそう言う事では全然ないです。ちょっと無駄遣いして……それを普段しない人だから」グレインズ兄妹に向かって、ニナは弁解する。まったく実際にその通りの話で、このような場所でする話ではなかったとも胸の中で反省している。
「社会人成り立ての頃ってそんなものよね。お金が手に入るようになって、今まで届かなかった代物が手に入ると思った瞬間、ちょっと歯止めが利かなくなる」帳簿を付けながら、クララ・グレインズが淡々と呟いた。
「これは、市民の話だけどね。考えてみれば、マルグリットさんも二十代よね。まだ、それほど大人でもないし……」意外な人物の意外な擁護に、マギーもニナも目を丸くしている。
「
「贅沢を味わって、変になった経験は、私も兄さんも一度はやってるわ。麻疹みたいなものね」そうまとめると、クララは再び帳簿を描く作業へと戻った。
ニナの目には、年上のお姉さんに見えていたマギーだが、よく考えれば二十代と言うのはまだ若さの残る年齢だった。普段はしっかりしているマギーだが、しかし、ニナは頼りっぱなしで、相手のキャパシティを越えていたのかも知れないと反省する。求め過ぎていたかも知れない。
ニナはため息を漏らしてから、マギーの手を握りしめた。
「うん……頼り過ぎていたかも」
※※※
マギーたちは、行商だけで暮らしている訳ではなかった。
最初の頃は、行商も殆んど小遣い稼ぎに過ぎず、収入の殆んどを日雇い仕事に拠っていた。三日も掛けて自由都市と往来したのに、半日分の賃金にも及ばない程度しか稼げなかった時もあったが元々、娯楽やらトイレットペーパーやらの買い出しが主眼だったので、さして気にはしなかった。他の抜け目のない
それが二か月、三か月と続けているうちに、日当の二日分、三日分、そして一週間分と稼げるようになっていったのは、元手が出来たのも大きいが、多分に目の付け所が良かったからだろう。元々、マギーは隊商に属していた経歴から、何処で儲けを上げるかに関して、それなりに鋭い感覚を持っていた。普通はポレシャで得た小麦を高く売ることに尽力する所を、小麦の売却に拘泥せず、むしろポレシャで不足している物資を見繕うと、自由都市で足を使ってよく探して廻った。
一度の行商で日雇い仕事の一週間分の賃金を稼げるようになるまで、半年かからなかった。居留地の日雇い仕事だってそう毎日、有りつける訳ではないから、この頃には、行商での利益は、仕事で得た賃金にかなり迫るか、拮抗し始めていた。
生活が変化し始めたのもこの頃で、毛皮のコートや良い靴などを履くようになり、食事の質も、雑穀の粥と鼠肉の団子から、小麦のパンや鶏肉へと変わっていた。それでも、この頃は、日雇いをしながら、行商が大きな助けになっていると言う感覚でしかなかった。
一年の終わりごろには、もう行商での稼ぎの方が賃金を完全に上回っていて、そうなると徐々に日雇い仕事に使う時間の比重も減っていった。行商の準備により長い時間を掛けるようになり、自由都市での滞在が長く伸び、余った時間は疲れた肉体の休養へと当て、残りは遊びや勉学に費やすとする。それでも、行商が上手くいってからも、雇い主との伝手を保っておくために、野良仕事や土木作業にも度々、出ていたが、二年目も半年に迫った今、マギーたちは商売で、休みなく雇われで働いた場合の軽く倍は稼げるようになっていた。実際には、仕事の見つからない日もあるので日雇い仕事で口を糊していた頃の三倍から五倍は稼いでいるだろう。
そうなってくると日雇いに出る時間は、猶更に減ってくる。最近では、居留地に滞在する期間に数回、半端仕事をこなす程度になっていた。殆んど問題にならない程度の賃金だが、それでも働くのを止めないのは、
ところで、ポレシャ居留地に暮らしている行商人は、別にマギーだけの筈がない。市民だけで四百人。近隣を含めれば、四桁近い人々が暮らすポレシャと圏内の村々には、当然に数十人からの行商人が暮らしている。
行商人の大半は兼業で、小遣い稼ぎが出来ればいいと木工品などを売りに来る職人見習いや棒手振で暮らす零細商人。ポレシャの産物を交易市へと売りに行く麦商人たちなどもいれば、地元で調達した薪や木材を定期的にポレシャへと運び込んでくる隊商なども存在していた。その中で、マギーたちは多分、専業の行商人としても、かなり稼いでいる部類に入るだろう。古くからの行商人や店持ちには敵わずとも、短期間でかなりの成功を収めたのは、充分に成り上がりと呼んで差し支えない範疇かも知れない。
しかし、そんなマギーたちの住む塒は、貧しい
かつては新聞の骨組みに古新聞を張り、ニスを塗った貧相な代物であったが、ようやくに木製の骨組みを三角柱に組合わせ、木の板と新聞を張り巡らした木製のテントへと少しだけマシな住まいへと改良された。雨漏りを防ぐため天然の樹液をニスとして塗り、隙間風を防ぐために布切れを張って、それなりに試行錯誤を重ねている。
とは言え、今までは行商に身を立てるのに忙しく、避ける時間のリソースも殆んどなかったので、冬が近づけば、湿気の匂いや隙間から吹き込む冷たい風に、夜ごと震える羽目になるのは避けられない。所詮は、小型のテントであり、激しい雨を防げる代物でなし。大雨の際には、解体して、マギーが骨組みを担ぎ上げ、ニナが毛布を拾って、近くの屋根のある廃墟に家を運んで避難するのだ。
市民などから見れば、傍目には貧しい生活かも知れないが、
寝所を都合できない新参者や金を使い果たした者、金を節約している者など、事情は様々だが、土嚢を積んだ
下層地区には一応のバリケードとして木柵や土嚢の防備で守られているが、それで必ずしも怪物や無法者が防げるわけではない。数年に幾人かは、犠牲が出るのも避けられなかった。特に屍者の群れや変異獣の群れがやって来た夜には、下層地区だけでなく、居留地全域が緊張に包まれる。防壁や他の地区からも民兵や自警団の増援が来るとしても、変異獣の群れは、小さな集落など一夜のうちに滅ぼしてしまうような並々ならぬ脅威であった。戦う力や武装のないものは、家の中で息を潜めてやり過ごすしかない。木柵を引き裂かれた音や、獣たちの低い唸り声が一晩中、耳を刺し、屋内に身を潜める者たちの祈りだけが静かに響く。それでも翌朝になれば、一人、また一人と犠牲になった隣人の名が囁かれるのだ。
一部には、大急ぎで罠を仕掛けたり、灯油を染み込ませた縄を燃やして応戦しようとする者もいるが、そんな即席の防御が変異獣に通じることは稀だ。祈りにすがる者もいれば、扉の向こうから聞こえる子供のすすり泣きに苛立つ者もいる。恐怖の夜が終わるまで、人々はただ黎明の光が静けさとともに訪れるのを待つしかない。
※※※※
曠野は寒冷な気候の土地である。地面に杭をさしても、白蟻に喰われることはない。とは言え、乾燥や寒暖差に拠る凍結融解で木材の劣化は起こりえるので、過度の期待は禁物だであろう。特に冬の厳しい寒さが続く季節には、凍結した木材がひび割れたり、脆くなって折れる可能性もある。そのため、この地で使われる木材には、耐寒性や強度のあるものが求められる。加えて、保護のために天然の樹液や油脂を塗ることが一般的な処置となっている。
木材を仕入れた時に聞きかじっただけの生兵法な知識であるので、実際に家屋を建てた経験のないニナとマギーはかなり手こずったものの、生来の器用さを発揮してなんとか無事に処理を終えた。
「
作るのは小さな天幕だが、マギーたちが眠れる空間しかなかったのが、座れる程度の高さと広さを持つように拡大した。今まで寝転んでしか過ごせなかった狭苦しい空間から、天幕の中央に座れる空間を確保して、小さな部屋のように過ごすことができるようになったのだ。
垂直に立てた木の柱に屋根として三角形の骨組みを乗せ、五角形を作り上げた。これにより、屋根の傾斜が均等に保たれ、雨水も自然に流れ落ちる構造が完成する。骨組みは、柱としっかりと結びつけられ、屋根を支える力がしっかりと分散されるように設計してある。
屋根の骨組みは、木材を無駄なく使用し、軽量ながら強度もそれなりに確保できるよう工夫された。三角形の骨組みを作り、斜めの支えを加えて、全体の安定性を高めている。屋根の頂点部分は切妻屋根のようにやや尖った形になり、隅から中央へ向かって均等に傾斜する形に仕上げられた。外壁の部分には布切れや新聞を貼りつけて、隙間風を抑えるようになっていた。屋根の下には、大きな梁が通り、壁面を支える役目を果たしている。
ちょくちょくと作っていた骨組みを一気に組み立てて、半日仕事。
「ブルーシートです。これをテントに覆い被らせて、雨を防げるようにします。暖かくなるし、雨は防げるし、長持ちするしで素晴らしい」マギーとニナの手によって、ついに新しい塒であるNEGURA・Ver0.3が完成した。
/\
/ \
―――――― 蛇 やったー
│ │ 女 倭 やったー
簡素な作りではあるが、二人は持ち前の器用さと創意工夫を駆使し、着実に居住空間として機能する天幕を作り上げていた。手を加える余地もまだまだあったが、取りあえず、冬が訪れるまで仮の住まいとして、小屋はそれなりに役立つだろう。
「マギーたち、金あんならもっとましな天幕とか買わんのか?」リリーの問いかけにマギーは苦笑を浮かべた。
「お聞きになりましたか?これで二十歳を越えた娘ですよ。人の悪意に対して、余りにも無知です。寝取られる訳だわ」マギーの辛辣な反論に、リリーが喚いた。
「寝取られは関係ないやろ!」
「テントは行商に持っていけない。こんな人目の少ない裏通りに立派な天幕なんか立てたら、三日で盗まれる。リリーの魂を賭けてもいい」真顔のマギーに、リリーが渋い表情で尋ねた。
「なんで!?いや。うちのテントは盗まれておらんけど」
「死んじゃうでしょう?リリーから家を取ったら」とマギー。
「うちをどんな貧弱生命体と思ってるん?」
「違う、金持ってる奴からは少しくらい盗んでも構わんだろうって奴は、意外と多いんですよ」マギーは低い声で嫌な事実を指摘する。
「まあ、少しだけマシな家になりました。三人くらい眠れます。リリーも一緒に寝ます?」少しの沈黙の後、マギーは天幕を指さしながら言った。
「うちはこう見えてもお堅いんやで、お断りします」
その夜は、トリスとニナを両脇に挟まれて、マギーは冷え切った空気の中、短い眠りに就いた。天幕の外では、野犬の遠吠えや風が吹き抜ける音が途切れ途切れに聞こえる。夜になると、音の一つひとつが妙に鮮明に感じられた。
変異獣なり、巨大蟻なりの怪物や獣が忍び込んだ夜には、マギーはいつも手斧を握りしめ、眠ることはない。そうした夜には、背中にニナが寄り添い、リリーやトリスも口を閉じて、ただ静かに震えていた。小さな灯火の下で、コヨーテや野犬、そして狼や変異獣など獣たちの唸り声に耳を澄ませながら、マギーは襲撃に備えて気配を探り続ける。自分が皆の盾なのだという事実が常に夜風のようにマギーの体を固く冷やす。
少しだけマシになった家だが、安心して眠るには程遠かった。表通りに引っ越すか、泥とか漆喰とかで小屋を作るか、どちらにせよ、それには金や時間が掛かるし、今のマギーが捻出するには、些かの手間であった。それでも四人で暮らしていれば、怪物の忍び寄る気配に誰かしら気づくかもしれない。
薄い天幕の天井を眺めながら「さて、間に合うかなぁ」マギーは少しだけ憂鬱そうに呟いた。
八月下旬
2680クレジット
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます