初恋

 楽が奏されて、腰に両の手を当てた定省さだみ階段きざはしのぼり、舞台へ上がる。すぐ(真っすぐ)に進み、半ば(途中)で、斜めに向きを変え、舞台の左に立つ。

 腰に両の手を当てた紀貫之きのつらゆき階段きざはしのぼり、舞台へ上がる。すぐ(真っすぐ)に進み、半ば(途中)で、なのめに向きを変え、舞台の右に立つ。


ゆゆしおそろしいな

 善道が独りつ(独り言を言う)。


 左右そうに並び立つ貫之と定省の背丈せたけ(身長)は、同じだった。

 背丈の差を、貫之は表袴うえのはかまの内で、膝を折り、合わせていた。

 楽が、止む。


 定省が右の足を前に出しつつ、深緋ふかひの両袖を左下へ下ろすと、合わせて楽が始まる。

 貫之は側目(横目)にも見ていないのに、定省と同じく右の足を前に出しつつ、浅緑の両袖を左下へ下ろす。


 定省と貫之は合わせて、右の足を踏む音を響かせ、戻したその足を、横に開きながら、両袖を上げ、上に舞わせて、右下へと下ろす。


此方こちを見て下さい」

 貫之の微かな声に魅かれるように、定省は見る。


 右から左へと、袖を振る時は、左の足を左斜なのめ前に出し、右の足を揃えて、その足を引くきわに、踏む音を響かせる。――貫之は、定省より少し前に出て、首を側向そばむけなくても(横に向けなくても)見えるようにする。


 青海波せいがいはは、舞人まいうど二人が、舞を合わせなければならない。

 定省と貫之が見合っているにしても、舞は写したように同じだった。

 舞台の上、定省さだみより貫之が前に出ているがために、大きく見えて然るべきなのに(当然なのに)、浅緑の袖を小さく振り、踏む足を低く進め、合わせているのだ。


 がくと、貫之の浅緑、定省の深緋ふかひの袖がひるがえる音、かのくつが舞台を踏む音だけが、響く。


 貫之が定省に袖振そでふりも、足踏あしふみも、たがわず合わせている。それでいて、定省があやまちそうになると、先立さきだって動き、正している。

 そのたび、定省が声もなく「あ」という顔様かおざまになって、貫之に慌てて合わせるので、過ちに誰もが気付いたが。



――貫之と定省は、左の袖を胸の前に置き、右の片膝をつく。


 楽が、舞が終わり、皆が息をいた。

 内教坊の妓女の紀貫之子を知る者は、あわれに思い(感動して)、知らない者は、ますますあやしむ。

 ふと(不意に)現れた図書司ずしょのつかさが、一度もあやまつことなく、青海波せいがいはを舞い、相手と一度も違わずに合わせたのだから、怪しきこと限りない。


 貫之は立ち上がり、そびやかに(そびえるように)背が伸びる。



「君、妹か姉はいるだろうか」

 立ち上がった定省がいきなり、貫之を見上げて聞いた。

「おりません」

 貫之は空言そらごと(嘘)をいた。


 内侍司ないしのつかさ(帝の側近そばちかくにつかえる侍女)の剣内侍つるぎのないしに、妹がつかえているのに。


「君を一目、見た時に思った。私が五つの時、初めて恋した五節ごせち童女わらわ

「ぶーーーーーっっっ」

 善道が吹き出す。貫之は善道を睨んだ。


 善道は口を閉じて、笑いをこらえ、冠(こうぶり)が落ちそうなほど、頭を振った。

「知らない知らない。初めて聞いた、そんなことっぶははははははははは」

 こらえきれず笑ってしまう口を、浅緑の袖で覆う。



 霜月しもつき(十一月)の新嘗会しんじょうえで、五節ごせちの舞を舞う舞姫に付き添う童女わらわ



 貫之は、定省の方を向いて、言った。

空目そらめ(見まちがい)でございましょう」

まことに、君を写したようなのだ。姉や妹でなくても、従姉妹いとこめい叔母おばか、五節の童女わらわを務めたむすめは、いないだろうか」

「おりません」

 貫之は、たちまちに答えて(即答して)、笑いが止まらない善道を睨む。善道は口覆いした浅緑の袖から、止まらない笑み声を垂れ流しながら、舞台の朱塗しゅぬりの高欄こうらん(柵)の前まで来た。


「君も知らないか」

 定省は駆け寄り、高欄を掴んで、身を乗り出し、善道に聞く。

「紀氏のむすめで、五節の童女わらわを務めた者がいないか」

「紀氏のむすめで、務めた者はおりませんっふははは」

 口覆いした浅緑の袖の内で、笑いをこらえきれない善道は、空言そらごと(嘘)をいていない。


 善道は、睨む貫之に向かって、青海波の袖振りをしてみせた。

「っふはは、書物ふみの倉にもって、うふふ、すっかり体が萎えているかと思ってたのに、舞えるじゃないか~っふ、はははは」

書物ふみを運んで、くらを行ったり来たり、此処彼方こちあちへ行って、反故ほご(書き損じの紙)を集めたり、歩き回るんですよ」

 ふっと、貫之の黒い眼が、彼方あちを見た。


 つられて善道は、彼方あちを向いた。閉じた戸の前に誰もいない、戸が開いて誰かが入って来ることもないのを見て、貫之に向き直って聞いた。

「鬼でもいたか」

「――………」

 貫之は答えない。善道の笑み顔が消えた。

「こわいからっ。『いない』と答えてっ」

 善道はおめく。

 善道は、紀氏でありながら、能力ざえがない。



 門の内に入っただけで、気配に気付くのか。



「紀氏のむすめでいないのならば、君の母の親族うからで、いないだろうか」

 定省は、貫之を返り見る。貫之は定省と目を合わせず、善道を見やる。


練習ならいを続けましょう」

 慌てて善道は定省に言った。

「向かい合って舞うと、覚えがいいみたいだから、」

「次は、舞の通りにやりましょう」

 貫之が言う。

「――そうだよねっ。向かい合うの、嫌だよねっ」

「向かい合った方が、舞を覚えられる」

 定省が言う。善道は、繰り返しうなずく。

「そうだよねっ。初めて最初から、最後まで、通しで舞えましたもんねっ」

 善道は、舞台の高欄こうらん(柵)を掴み、貫之へと身を乗り出す。

「つ~ら~ゆ~き~、頼むよ~~」


 貫之が、戸の方を見た。

け」

 いとけない(幼い)声が響き、戸が開いた。


 浅緑あさみどり無紋むもん束帯そくたいを着て、こうぶりけたわらわ(子ども)が立っていた。

「善道は、おるか」

 童がうた。


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