昨日のこと

きみ~」

 開く戸を、引きつった顔様かおざまで見ていた善道は、立っていたのが紀友則きのとものりだと分かると、駆け寄った。


 善道が出て来ると、友則はいとけない(幼い)声を響かせる。

「閉じろ」

 戸が、善道の背中で閉じた。


ことを、戸の開け閉めに使わない」

うるさいあなかま

 とがめる紀貫之きのつらゆきに、閉じた戸の向こうから友則が言い返した。


「紀氏も様々さまざまだな」

 向き直り、童を見ていた定省さだみは、言いながら振り返る。貫之は思わず声を上げた。

「いとこ君を知っていらっしゃるのですか」

従兄弟いとこなのか」

 定省に聞き返されて、貫之は答えるしかない。

「そうです…」

官位つかさくらいも(官職かんしょくも身分も)なく、宮中うち此方こち彼方あちに、出入りしてるのだろう」

「そうです…」

御簾みすしに、打つ手を口で言って、女房にょうぼう(侍女)と碁を打ったり、歌や消息しょうそこ(手紙)を書くのに、口入くちいれ(口出し)したりしているのを、見かける」

「そうですか…」


 昨日、図書寮ずしょりょう(建物の周囲の外廊下)の日向ひなたで、丸寝まろね(ごろ寝)していた紀友則きのとものりは、いつの間にか、いなくなり、家にも帰って来なかった。

 よくあることで、貫之は気にもしていなかった。


 定省は、閉じた戸の方を見やる。

「あのように、愛敬あいぎょうづいて、まさる(かわいらしく成長した)ならば、いいが、」

 貫之を見る。

「君のように、そびやかに、やせやせの様形さまかたち(すらりとした、やせた体)にって(成長して)いたら、すさまじく思う(がっかりする)ことだろうなあ」

 うつむき、胸に手を重ねる。

「初恋は、心の内に思い続けていた方がいいのだろうか…」



 れがましい。(ばかばかしい)



 閉じた戸の向こうでは、友則と善道が、雅楽寮うたりょうの内に聞こえないように小さな声で話している。

 善道は泣きそうな顔様かおざまだ。

「そんな…章成は、舞を教えるのに疲れて、熱を出したんだって、思ってた…どうしよう…貫之、赤斑瘡あかもがさが出たこと、ないよね。出たら、どうしよう……」

が、貫之をればいいだろう。汝は、出たことがあって、もう出ないと、長谷雄が言っていたぞ」

「もし、貫之に出たら、もちろん、そうするけど…赤斑瘡が出ると、そばの人たちに、次々に出るんだよ…貫之に出たら、どうしよう……」



 藤原章成ふじわらのあきなりの病は、赤斑瘡あかもがさ(はしか)だ。



 昨日、紀善道きのよしみちは、藤原章成ふじわらのあきなりあかむ顔を見て、熱を出していることに気付いて、雅楽寮うたりょうには行かず、美福門びふくもんから出て、大学寮へ連れて行った。

 学生がくしょうに呼び出してもらった紀長谷雄きのはせおに、章成を頼んで、善道は雅楽寮へ行った。


 長谷雄は、家に連れて帰った章成に、そば心地ここちしき者(具合の悪い者)がいなかったか、聞いた。

「――兄の顔があかんでいたのは、熱があったのかもしれません。兄も、ていただけませんか。家にいる、と思います」


 そこに紀友則きのとものりがやって来た。


 大学頭だいがくのかみ(大学寮の学長)から、文章博士もんじょうはかせ菅原道真すがわらのみちざねへ、紀長谷雄が直曹じきそう(大学寮の宿舎)を抜け出したことが言い付けられた。

 「病をる」と、長谷雄の言ったことがまことなのか、見て来るように、道真に言い使われて、友則はやって来たのだ。


「『病を看る』なんて言って、直曹じきそうを抜け出して、酒か、双六すごろくか、女か、と思ってたのに、まことに病を看てるのか」

おれを、大学寮に連れ帰るつもりだったのか。共に遊ぶつもりだったのか。どっちだ」

「『病を看る』のが、真だと分かったからな。吾は、道真に伝えに帰る」

 友則を引き止めて、長谷雄は共に、章成の家へ行った。


「どおおおおおおしてが、と共に行かねばならないのだ」

「見ず知らずの者が、『病を看に来ました』って言ったって、家に入れてくれないだろ。友則なら、此彼これかれ(あれこれ)、言って、入り込めるだろ」

ひとうとしきくせ(人見知り)を、どうにかしろ」

「見ず知らずの者が、『病を看に来ました』って言ったって、家に入れてくれないのは、当たり前だ。なのに、此彼これかれ、言って、入り込めるお前が、おかしいんだ」

「誰とだって、初めは『見ず知らず』だろうが。」

「だから、まずは垣間見かいまみ(覗き見)から始めて、」

「そんなことをしていたら、お前が家に入れた時には、病で人が死んでいるぞ」

「だから、友則が此彼これかれ、言って、家に入り込まないと」

 つぶつぶと肥えた長谷雄と、ちいさやかな友則は言い合いながら、大路おおじを歩いて行く。父と子としか見えないが、同い年なのだから、あやしき(奇妙な)ことだ。


  はなだ(薄い藍色)の直衣のうし(普段着)に烏帽子をこうぶった紀長谷雄きのはせおは、つぶらやかな目(丸い目)。大きな鼻。ひげがち(濃い髭)で、ふくらかな身様みざま(体つき)が、いかめしく見えるだけだ。


「家の内に、入り込まなくてもいいようだな。祈祷きとうの声が聞こえる」

 みみき(耳の鋭い)友則は、章成の家に辿り着く前に、おどろおどろしい祈祷きとうの声を聞き付けた。――「章成の家」と言っても、いるのは、継母ままははと、継兄姉ままはらからだが。


否否いないな。病も様々さまざまだからな。どのようなのか、聞かねば。」

「それくらい、自身で聞けぇぇぇ」

 ののしる(声を上げる)友則を、脇に抱えるように長谷雄は引きずって行って、大路おおじに駆けて出る手をつないだ母子ははこと突き当たった。


「どこ、行くのぉ」

「あんな所にいたら、あんたも、あたしも、体中、真っ赤なかさだらけになって、死んじゃうんだよ」

 子と母の声を聞いて、長谷雄と友則は顔を見合わせた。



赤斑瘡あかもがさだと、昨日、分かったのなら、すぐに言いに来てよ。そしたら、今朝、貫之を呼びに行かなかったのに…」

 紀友則きのとものりの浅緑の袖を、紀善道きのよしみちは掴んで振る。


「昨日は、章成の兄が出仕しゅっし(勤務)している内蔵寮くらりょうつかさたち(職員たち)を探していたのだ。赤斑瘡が出るなら、そちらの方だと、長谷雄が言ったのだ」

「だとしても、」

は、章成が熱があると気付いて、雅楽寮うたりょうには入らず、長谷雄の所に連れて行ったのだろう。雅楽寮のつかさ(職員)は、赤斑瘡の側には寄っていないのだから、出ないかもしれないと、長谷雄は言っていたぞ。今日、初めて雅楽寮に入った貫之も、出ないかもしれないのではないか」

「『出ない「かもしれない」』じゃないか~~~~」

 善道は、掴んだ友則の浅緑の袖を振る。友則は、長息ながいき(溜息)をく。

内蔵寮くらりょうつかさたち(職員たち)を探しても、甲斐かいのない(意味がない)ことだったがな。章成の兄は、ほとんど出仕しゅっし(出勤)していないそうだ」


 つかさを得ても(官職かんしょくいても)、出仕しない者は、珍しくもない。

 ただ親のくらい(身分)が高いというだけで、与えられる官位つかさくらい(官職と身分)とろく(給料)。

 出仕しても、おこたっても(なまけても)、得られるものが変わらないのならば、怠って終日ひねもす、家で酒を食らって、顔を赤ませていた方がやすげだ(楽だ)。



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