約束

「舞の相手を連れて来たよ~」

 雅楽寮うたりょうに入ると、紀善道きのよしみちは声を上げる。


 朱塗しゅぬりの高欄こうらんさく)に囲まれた練習ならいの舞台の両脇で、がく(楽器)の準備をしていた雅楽司うたのつかさたちは、声の方を見た。

 内教坊の妓女の紀貫之子を知る者は、喜び、知らない者は、あやしむ。


 雅楽司たちの中から、深緋ふかひ浮線綾ふせんりょう模様もようのあるもの)の束帯そくたいを着て、こうぶりを着けた定省さだみが歩み出た。

 歩いて来た善道と貫之の前に立ち、名乗る。

深草帝ふかくさのみかど仁明天皇にんみょうてんのう)の孫、常陸太守ひたちのたいしゅ時康親王ときやすしんのう)の子、定省王さだみおうと申す。王侍従おうじじゅうと呼んでくれ」


 一重の眼。広がった鼻。厚い唇。丸い顔。十五歳。童殿上わらわでんじょうの頃から「王侍従王侍従」と呼ばれ、今はまこと(本当)の侍従として、つかえている。


 定省さだみを、貫之は見下ろした。

紀貫之きのつらゆきと申します。図書司ふみのつかさをしております」

 内教坊の妓女の子であることも、散位さんい官職かんしょくいていない)の父・紀望行きのもちゆきの子であることも、名乗らない。


 貫之は、定省が自分を見上げて、じっと覗き込んで来る目見まみ(眼差し)に、戸惑いながら、言った。

「初めて合わせるので、向かい合って、舞っていいでしょうか。振る袖や、踏む足は、私が逆をしますので、左右そうは気にせず、同じかたを合わせて下さい。」

「あ。ああ…」

 いらえ(返事)にもなっていない応えをする定省。

「一度、合わせてみようよ」

 そう言う善道は、定省が貫之を怪しんでいるのだと思っているようだ。


 善道は貫之と定省と、舞台の脇の雅楽司うたのつかさたちの端を通り、舞台の奥へ行く。


かのくつを貸そう、貫之」

「ありがとうございます」

 善道に言われて、舞台に上がる階段きざはしの前に置かれている靴に、浅沓あさぐつから貫之は履き替える。少し大きかったが、舞う時に脱げないように付いている革紐で締める。


「じゃ、やってみようか」

 言い残して、行ってしまう善道を、貫之は目で追って、驚く。

 善道は、がくそうさない他の雅楽司うたのつかさたちと、舞台の前で見ている。


約束ちぎりを忘れたのは、どちらの方ですか…」

 小さな声で貫之は、つぶやいた。



初冠ういこうぶりしたら(成人したら)、うえ御前おんまえで、(ぼく)が楽を奏すから、汝等なら(きみたち)が青海波せいがいはを舞ってね」

 幼い時、青海波を公達きんだち(貴族の息子)に教える五節ごせちそち(貫之の母)を見て、まねびて(まねをして)袖を振る阿古久曾あこくそ(貫之の幼名おさなな)と弓弦ゆづる章成あきなりの幼名)。

 楽を奏する祖父おおじ紀有常きのありつね)を、父に連れられて見に来ていた琴柱ことじ(善道の幼名)が言ったのだ。


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