第三話 この主にして、この式神あり

 母上は、優しく美しい人だった。

 桜の季節が来る度に、彼女の柔らかく微笑む姿が目に浮かぶ。


 屋敷の庭園にある桜の木は、彼女が唯一父上に申し出た我が儘が叶い植えられた。

 手を伸ばせば花びらに触れられる程度の大きさの江戸彼岸桜えどひがんざくら。小ぶりの花が可愛らしく、幼い私も舞い散る花びらをよく追いかけたものだ。


「桜は好きですか? 拓磨たくま

「はい! 母上!」


 無邪気に満面の笑みで答えると、母上も嬉しそうだった。


「それは良かった。でも拓磨、覚えておくのです。桜は美しく、潔く散る姿は儚くもありますが、決してか弱い存在ではありません。散った後から次の花を咲かせる準備をしているのです」


 そよそよと心地よい風の中に、母上の声は続いた。

 空を仰ぐ彼女の目は真っ直ぐで凜として、幼いながらに彼女の芯の強さを感じていた。


「芽吹いた葉で陽の光を浴び養分を蓄え、凍てつく冬を耐え生きる。そしてまた再び花を咲かせる。桜にはその可憐な見た目とは裏腹に、凄まじい生命力があるのですよ」


 貴方もそんな桜のように温かで、強く逞しい立派な人になりなさい。

 ――それは母上の口癖であり、幼い私もそうなろうと思った。


 陰陽師の家系に産まれ、物心ついた時から始まった厳しい修行にも耐えた。父上の期待に応えるため。……そして、母上の喜ぶ顔を見るため。


 だが、現実は。


「……母上?」


 地に伏して動かない、冷たくなった体。辺り一面に染められた深紅。

 息をするのも忘れ、痛いほどに心臓が脈を打つ。


 幸せだった日々が終わりを告げたあの日の記憶。


「母上……!!」






 温かで、強く逞しい人……か。

 今の私を見たら、母上は何と申すだろうか。


 頭の片隅でそんなことを思いながら私は、蒼士そうしの術によって顔に飛び散った妖怪の血を拭った。

 全く、派手にやってくれたものだ。


「横取りはしたが、妖怪はこの僕の神業で仕留めた。よって僕の手柄だ」


 自身の烏の式神を肩に乗せ、まるで幼児のように蒼士は得意げな顔をした。


 我々陰陽師は、携える「心力しんりょく」を含めた技術力と、任務の出来高で評価される。つまりどんなに腕を磨いても、実績を上げねば出世はできないということだ。

 当然蒼士のように、人の任務を横取りしてでも手柄を上げたい奴は出てくる。特に討伐任務は唯一、寮を通さない異例のものだから尚更だ。


 だが出世したいのが普通の人間だ。

 普通なら。


「構わん、お前の好きにしろ」


 そう言って暁を指笛で呼び戻すと、左の上腕に乗せて踵を返した。

 だが蒼士は虚を突かれた顔をして、早々に帰宅しようとする私を引き留めた。


「おい待て! 悔しくないのか? 自分の獲物を奪われたのだぞ!?」

「いや、別に。お前の言う通り、今回はお前の手柄だ。何かおかしいか?」


 問いかけてはいるが、蒼士が苛ついている理由は分かっていた。

 奴は許せないのだ。自分のように陰陽師の責務に真剣ではない、私が。


 それでも討伐という高難度の任務を命ぜられる、私が。


「やい式神、お前も悔しくないのか!? 危うくお前の主が妖怪共々、吹っ飛ばされるところだったのだぞ!」


 どうしても喧嘩を売りたいのか、今度は標的を暁に変えてきた。しかし彼女は自ら姿を人に変えると、涼しい顔で答えた。


『えぇ。拓磨様の背後から攻撃なさったのは些か許しがたいですが……、拓磨様なら避けられると思っておりましたので』


 この主にして、この式神あり。

 そんなことわざができそうだ。……まぁ実際、主が私なのだから仕方がない。


 だが、これが蒼士の逆鱗に触れてしまったようで。


「思い上がるなよ、拓磨! 父上のご厚意で陰陽連にいられるというのに……、もはや安曇の名など、貴様で絶えようぞ!」


 それは言葉の矢の如く、私の胸を貫いた。

 野次馬で集まった庶民たちにも緊張が走り、ざわつき始める。


 当然、安曇の名を語っていれば、自然と私が前陰陽頭おんみょうのかみの息子だということは直ぐに知れ渡る。そして当の前陰陽頭は行方不明だ。

 嵐のように現れた天才・安曇の名を担うのは、もう私以外に存在しない。無論、私は私自身を〝天才〟などと思ったことはないが。


 私は無言で蒼士に背を向けた。奴との間に春を運ぶ穏やかな風が吹く。

 母上と過ごしたあの頃は安曇の名に恥じぬよう修行に励んだが、あの頃の私はもういない。陰陽師を続けているのは、私の大切なものを守るためだけだ。


 変わらないのは、心地よいこの風のみであろう。


「言われなくとも……。私は安曇の名を次に繋げる気など、毛頭ない」


 そう言い残し、私は暁と共にその場を去った。

 心の奥に僅かに灯った炎を見ないふりして。




 都の街中でも、並木道の桜の木々には蕾が膨らみ始めていた。私に限らず桜の開花を待ち望むのは、貴族たちは勿論庶民にとっても同じであろう。

 春といえば花見、花見といえば桜……という連想は、もはや定番といえる。


 この並木の桜も毎年見事だが、屋敷の桜に勝るものはないと自負していた。


『それにしても、先ほどは肝を冷やしました』


 程なくして静寂を破り、隣を歩く暁がそう口にした。

 人姿の式神を連れて堂々と歩いているわけだが、すれ違う者に驚く者は多くない。それだけ私の側には暁が並んでおり、それが当たり前の光景となっていた。


 まぁ道中、人に話しかけられた際に、私の代わりに応える役目を果たしているのもある。


「蒼士の遠距離攻撃か? お前がいち早く気づいてくれたのもあるが、あれに私が当たる訳がなかろう」


 先ほどの戦闘を思い出し、溜め息交じりに毒を吐いた。面倒ごとになるので本人には言わなかったが、本来あれでは妖怪に逃げられるほど術が遅い。

 残念ながら奴が仕留められたのは、私が既に拘束していたお陰に他ならない。


『それは私にも分かってます』

「……あぁ、蒼士が聞いたら泣くな」


 いや、もう既に本人にも言っていたか。

 即答してくる暁に、やはり私の式神だと妙に納得してしまう。今頃奴は、くしゃみ連発中だ。


『そうじゃなくて、安曇の名に触れられた時です。拓磨様、そうゆうのお嫌いですから』


 やや控えめな声でそう言う暁に、私は再び「あぁ」と答えた。

 確かに安曇の名だとか嘉納の名だとか、そんなものは関係ないしどうでも良い。


 だが実際、私はこうして陰陽師を続けている。討伐任務をこなすため修行にも抜かりは一切なく、むしろ常に心力を上げ続けている。

 継ぐ気はないだとか言いながら、力を上げるところも蒼士は気に入らないのだろう。世間的には私と蒼士は対等と思われているようだが、恐らく今、奴と真っ向から戦っても負けることはない。


 まず携えている心力の大きさだ。これは自惚れでもなく、間違いなく私の方が上回っている。

 そしてもう一つ、陰陽師の実力に必須とした能力「気」だ。


『でも拓磨様、私たちのためにご無理に……』

「しっ、ちょっと待て」


 不意に並木から感じたある「気」に、私は彼女の前に指を立て、暁の言葉を遮った。

 今、目の前にある桜の木。その中間辺りからそれを感じ、私はその桜に歩み寄った。


 目を閉じ精神を集中させ、違和感の辺りにそっと手をかざすと、それは更に鮮明に感じることができた。

 痛みと、それに賢明に耐える「気」。


「あぁ、大丈夫だ。お前も今年も無事咲ける」


 頑張れと応援するようにかざした手指に護符を差し、今度はこちらから「気」を送る。すると感じていた桜からの違和感の気は消え、今度は穏やかな気が流れ始めた。


 今私は、桜の内部の僅かな腐敗を感じ、心力を与え、治癒を施したのだ。

 これであの桜はこの先も、しばらく問題なく生きることが出来るだろう。不安げに見守っていた暁にも笑みがこぼれていた。


 そして我々は何事もなかったかのように、再び歩み始めた。



 ――陰陽師であれば誰もが感じることのできる「気」。

 それを感じるには、人体のあらゆる感覚を研ぎ澄ませ、自然の中から感じ取るに他ならない。


 暁の特技も気を感じることだが、実はそれは「妖力」のみに特化している。だが私の場合は、自然の「気」の感じ方が鋭く、今のところ右に出る者はいない。


 そしてこの「気」を感じる能力こそ、陰陽師の命である「心力」を上げる最大の要なのだ。

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