第一話 孤高の陰陽師
平安の世。
暦は弥生。
吐息が白く変化する季節が終わりを告げるのも、すぐそこまで来ていた。
頬を撫でていく風も、冷たさが和らいだように思えるこの頃。昨日より今日、今日より明日、暖かさが増す度少し嬉しくなる。
冬の間は外に出るのも少々億劫だが、今はこうして屋敷の中島(庭園の中にある小さな人工島)で、空を見上げることも苦ではない。
空、というよりも、私が見上げているのは一本の木だ。この庭で母上が大切に育てていた形見の木である。
よく見るとその木には、枝の間に小さな膨らみがつき始めていた。今年も無事、厳しい冬を乗り越えた君に会えることに、ほっと胸をなで下ろした。
『
可愛らしい声と共に、背後に何者かの気配を感じた。音もなく近づいてくる存在に驚くこともなく、私はその者の名を呼んだ。
まぁそもそも、この屋敷には私以外の存在はあと二人しかいないのだが。
「
『いえ、それがまだ……。今も
老いぼれどもめ、早く諦めれば良いものを……。
暁の話を聞き腹の中で悪態を吐きながら、私は小さく溜め息を吐いた。まぁ母屋の方から遠耳に騒がしさは聞こえていたが。
顔を合わせたくないとは言え、このまま屋敷に居座られる方がよっぽど迷惑だ。雫にも苦労させているようだし、仕方なく私は重い足を彼らの方へと向かわせた。
私の屋敷は、寝殿自体さほど大きいものでもないが、母上の意向で庭だけは広々と作られていた。中島にまで入ってしまえば、客人が私の姿に気づかぬこともしばしばだ。
故に言い争いに夢中になっている人物の背後から、突然現れたかのように声をかけることになる訳で。
『もう! しつこいですわね。拓磨様はお休み中と申し上げているでしょう!』
『我々は使いで来ているのですぞ! いいから早く主人を出したまえ!』
「ほぉ……。私なら先ほどから、
若い娘との論争に冷静に口を挟むと、想像通り庭園に老人二人の可愛くもない悲鳴が響き渡った。文字にすると〝ぅひゃあー!〟といったところか。よくもまぁそんな間抜けな声が出るものだ。
ちなみに〝先ほどから〟というのは出任せだが、面白半分に盛っただけである。
主の出現に彼らの相手をしていた雫は驚くも、心なしか「助かった」と表情を緩めた。この老人二人が屋敷に押し入ってからもうじき
『い、いつの間に……! 拓磨殿、居るならそう言いたまえ。年寄りを驚かすでない』
良かったんですよ、そのまま心臓が止まってくださっても。
……と思うが言わない。
それはこの老人がお偉い方の使いであるのは勿論のこと、そうならない身であると既に承知しているからだ。それに実際止まられても、後の処理の方が面倒だしな。
「して? 陰陽連の使いの者が、この私に何用で」
素知らぬふりして尋ねれば、彼らは怪訝な表情をした。
『分かっておられよう。いい加減、陰陽寮に出仕したまえ。所属してから一度も顔を出しておらぬではないか』
『左様。お主を保護して下さった
確かに分かってはいたものの、実際改めて聞くとやはり気が重いもので。
じきに耳に蛸が出来るどころか、そろそろ溢れるのではないか? と思う。
陰陽寮――。都で帝に認められた陰陽師が所属する組織を「陰陽連」と呼び、陰陽寮はその陰陽連に所属する者たちが拠点とする仕事場、その名の通り「寮」である。
本来彼らは一度陰陽寮へ出向き、貴族や庶民から寄せられた祈祷・占術などの依頼を受け、各々の場所へ派遣される仕組みとなっていた。
ところが私はその陰陽寮に出仕したことはなかった。
陰陽師・
「まさか。陰陽寮に出仕せずとも、私は雅章殿からの指令を抜かりなくこなしている。それに私が請け負う討伐任務は、寮を通している暇などないに等しいと思うが?」
そう言って従者を一見すると、彼らは口をつぐみ悔しそうにこちらを睨んだ。
そしてその口はなお『しかし、』と発せようとしたが、隣に控えていた暁が何かに反応する方が僅かに早く、それには及ばなかった。
『拓磨様、近くにおります』
ほら、陰陽寮を通している暇などあるまい。
奴らが現れるのは、いつも突然なのだから。
「あぁ、私も薄々感じていた。支度をしろ」
その一言で娘たちが自分たちを差し置き、そそくさと支度を始めたので、いよいよ従者たちは怒りを露わにし始めた。無礼だの人でなしだの罵詈雑言を並べてくれる。
あぁもう、老いぼれどもが目障りだ。こちらはこれから仕事だというのに。
『拓磨殿、このままでは行かせぬぞ!』
「そうか。ならば早急にお帰りいただく手伝いをしよう」
私は従者二人の前で指を二本合わせて立てると、まるで空間へ線を引くかの如く、横へ素早く滑らせた。
すると顔を青くした彼らは、一瞬の間に去ってしまった。
去った、というよりも〝消えた〟という表現が正しいか。
二人がいた場所には真っ二つに割れた人型の紙きれが、ゆらゆらと舞い音もなく落ちていった。言うまでもなくそれを切り裂いたのは私だ。
雅章殿。わざわざ式神をよこすとは、私に気をつかわれたのか?
それとも、この程度の式神で試したおつもりか?
「……お望み通り、出陣と参ろう。
陰陽連の最高位・陰陽頭であり、私の師。恐らく貴方は自身の式神が破られ、今頃ほくそ笑んでいるだろう。
あぁ、端から貴方は、私がその要求を飲むことはないと分かっているのだ。分かっていて遊ばれているのか、それとも親心なのか、私の力が劣っていないか試されている。試したところで無意味なことも承知の上だ。
全くもって不愉快だ。……劣るわけがなかろうが。
劣ればこの力は弱くなる。弱まれば、彼女たちは姿を保てない。
私のたった二人の家族だ。それ以外の存在など必要ない。
陰陽連の連中との馴れ合いなど、私には必要ない。
「行くぞ、暁」
呼ばれた彼女は笑顔で返事をすると、姿を赤く尾の長い山鳥と変え、空へ舞い上がった。私は山鳥と共に屋敷を後にする。
残った雫は一礼し私たちを見送ると、自ら姿を消した。それはまさしく先ほどの老従者二人のように。
暖かい春の兆しの風に背を押されながら、暁を追い都を駆ける。途中道ばたで一足先に咲く梅の花の香りが鼻をかすめた。
近づいてくる陽気は嬉しい反面、招かれざる輩が増えてくるのが唯一の難点だ。
頭上を羽ばたく暁が小さく鳴き声を上げた。私自身も奴の〝気〟を強く身に感じ、それが近いと知る。
「奴」の正体――、それは妖怪。
妖力を操り危害を加える、悪しき存在。この京の都に
そして私が陰陽師として請け負う、唯一の任務である。
討伐任務を託せるほどの力を持つ陰陽師は、陰陽連の中でもごく僅かしかいない。
自分がそれに値していると自慢するつもりは微塵もないが、何より私には他の仕事は性に合わぬのだ。それは陰陽寮に出仕しない理由の一つでもある。
唯一の家族、暁と雫が式神である理由もまた然り。
私は、人間が嫌いなのだ。幼い頃から、ずっと。
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