第二話 岩熊勝平という男
1971年(昭和46年)
「明日こそはちゃんと金持って来いよカッペ!」
「もし無かったら、こんなもんじゃすまねぇぜ」
河川敷にて。数名の中学生が地べたに倒れた少年を蹴りつけながらそう凄み、ツバを吐き捨ててぞろぞろと去っていく。倒れている少年は口と鼻から血を流し、顔は青あざがいくつも浮いている。
イジメ。この時代のそれは平成や令和の精神的な追い詰めとは違い、気弱なものを痛めつけて楽しむという凄惨でサディスティックな色合いが強かった。彼もまた学校の不良グループに目を付けられ、小遣いはおろかお気に入りの文房具まで全て奪われ、渡す物が無くなったら親の金を盗んで来いとまで言われた。拒めば今日みたいに木に縛り付けられ、サンドバックのように集団で殴る蹴るのリンチを受けた。
痛む体をようやく起こし、その場に体育座りでうずくまる少年。絶望の嘆きが思わず漏れる。
「母さん・・・・・・母さんのお金を盗るなんてできないよ、どうすりゃいいんだ」
彼は母子家庭、母は自分の為に懸命にパートで働いている。そのわずかなお金をあいつらの遊び金にするなんてできっこない。でも払えなければ、明日はもっと酷い目に・・・・・・
もちろん学校の先生にも助けは求めた。でも「男が甘えるな」と、取り合ってすらもらえなかった。あの不良グループのリーダーはこのへんで有名な権力者の息子らしく、学校としても抑えが効かない存在だったのだ。
八方ふさがりの絶望感に、目の前を流れる川に視線が向かう。もう、こんな人生嫌だ。だったら、いっそ・・・・・・
「どうした、坊主」
立ち上がったと同時、後ろから声をかけられた。振りかえってみるとそこに居たのは。黒いスーツとサングラスに身を固めた、どこかの刑事の俳優みたいな大人の男、物静かな風貌ながらその立ち姿はどこか強者の貫録を備えていた。
「随分酷くボコられてんなぁ、ジュースでも奢ってやるよ」
近くのタバコ屋の自販機でミルクティーとコーヒーを買い、ベンチに腰かけて話す二人。少年は自分の不運といじめっ子達への恨み節を吐き出した。なんとなくこの大人が、自分を肯定してくれるような気がしていた。でも・・・・・・
「そりゃ、お前が悪い」
彼は自分を否定した。僕が悪い? 不当に暴力を振るい、自分のお金を奪い、泥棒まで強要するあいつらよりも、僕の方が・・・・・・?
「いいか小僧、ひとつ教えといてやる」
コーヒーの缶をゴミ箱に放り込んで、グラサンの位置を直した男が、僕に絶望の言葉を投げかける。
「この世は
お母さんから教わって来た、学校で習ってきた。正しく生きろ、と。
でも、それは間違っていると、目の前の男はそう言うのだ。
「警察は金持ちをえこひいきする、裁判所は悪い政治家の味方だ。貧乏な弱い奴らはいつも泣きを見る。大人の社会でもイジメはありまくるんだよ」
灰色だった世界が、その言葉で真っ黒になった。曇り空はいつか晴れると思っていた。でも、曇りの後にあるのは真っ暗な『明けない夜』であることを、僕はその時初めて知った。僕の未来は、この世界は・・・・・・闇だったんだ。
「正義の味方なんて、どこにもいやしねぇんだよ」
全部、嫌になった。
もう、死にたい。
こんな世界に居たって、誰も僕を助けてくれない。悪い奴等を成敗してなんてくれない。世の中はあいつらの味方で、悪者が好き勝手やる世界なんだったら、こんな世界に生きていたくない。
「このまま一生、下を向いて生きていくかい?」
いやだ。
「それとも、お前も悪になって誰かを泣かして、金と力を手に入れて面白おかしく生きるか?」
いやだ。だって、お母さんが悲しむから。
「だったらよ・・・・・・
闇夜に、星が、輝いた。
それは、すぐに、満月に、輝いた。
太陽の光が、夜を、薙ぎ払った。
世界に、希望が見えた。
「俺達の世界じゃ、そういう奴を『
「侠客・・・・・・」
「そうだ。強きをくじき弱きを助ける。男の中の男の生き様よ! どうだ、お前、侠客になって見ねぇか」
少年、岩熊勝平の生きる道が、遥か未来まで、真っ直ぐに伸びた。
「くそ! カッペの癖に、がっ!」
いじめっ子の顔面に、勝平の拳が入る、腕でガードされる、殴り返される、それでも、拳を固めて、殴る、殴る、殴る!
「うわあぁぁぁっ! ええいっ、このぉっ!」
僕は正義の味方だ、こいつら悪に負けちゃいけない、負けるもんか!
河原でのタイマン。ケンカ慣れしているはずのいじめっ子のリーダーは、昨日までのいじめられっ子の豹変ぶりについていけず、徐々に追い詰められていく。
そして彼らの仲間であるはずの不良共は、サングラスをかけた俳優のようなヤクザ、昨日勝平に檄を飛ばした黒服、そして
男は昨日あの後、勝平に喧嘩の仕方を教えた。といっても教えたのはごく単純な言葉だけだった。
「いいか小僧、人間ってのはそう簡単に死にゃしねぇんだよ」
いじめられっ子の心理によくあるのが、やり返してもし相手が死んでしまったらどうしよう、というのがある。いじめられた怒りが大きければ大きい程、その心の内は残虐になる。元々いじめられるような子は心根が優しいだけに、その煮えたぎる怒りを相手にぶつけて、『もしも』が起きたら、と思ってしまう物なのだ。
だから男は昨日、勝平に自分を殴らせた。グラサンを外し背広を脱いで、シャツから透けて見える肩口の入れ墨を少年に晒した。鍛え抜かれ、修羅場を潜り抜けたその体に、いじめられっ子のパンチは全く歯が立たなかった。
それで、勝平の心の鍵が外れた。僕の力では殴っても人は死なない、アイツに殴られても、僕は死なない。
だったら、僕が、正義の味方が、悪のコイツに、負けちゃいけない!
勝敗は明らかだった。「正義の味方になる」との断固たる決意を持って殴り合いに挑んだ勝平と、脅せばビビると思って安易にケンカを始めたバカ息子とじゃ最初っから分かっていた。決着がつき、息を切らせて立つ勝平の足元で嗚咽を吐いて横たわる息子を、黒服の男は冷めた目で見る。
(どうしてこんなバカに育てた・・・・・・俺も侠客失格だなぁ)
二人に歩み寄り、勝平の肩をぽん、と叩いて声をかける。
「ご苦労さん」
◇ ◇ ◇
1998年(平成10年)。とある湾岸の倉庫にて。
「ずいぶん好き勝手やってくれたなぁ、俺達のシマでよぉ」
数人のいかつい黒服たちが、裸で縛られて座らされている男たちを見下ろしてそう凄む。一見すると不当なリンチに見えるこの光景、だがそれは縛られている者たちの自業自得の極みでもあった。
「な、なぁ、助けてくれねぇか、金は払う・・・・・・かき集めれば三億はあるからよ!」
縛られている男のリーダー。整髪料で髪を整え、高級なネックレスや腕時計をハメたそいつが上を見上げて懇願する。
「そ、それによ、いい儲け口もあんだよ。アガリは全部アンタたちが持ってっていい、俺達を――」
使ってくれ、と言おうとしたその髪をがっしと掴まれ引っ張られて引き起こされる。目の前に怒りの表情を刻んだ強面ヤクザ、侠客・岩熊勝平(40)の眼光に、男はひぃっ、と心で悲鳴を上げる。
「麻薬か? 詐欺か? 恐喝か? お呼びじゃねぇんだよ!!」
バキィッ! 横っ面をぶん殴られ、吹っ飛んで地面を横倒しにスライディングする哀れな悪党。他の縛られている面々が身を縮め、怯えて固まる。
「堅気の衆をだまくらかして、借金を背負わせて、一家離散になるまで追い詰めて――」
ヤクザの制裁は止まらない。倒れた男の髪の毛を再び掴んで引き上げると、頭を大きく振りかぶってヘッドバットをお見舞いする。もんどりうって背中から倒れ込む小悪党。
「で? 離散した父親の体をバラしたそうだな。内臓も眼球も骨も全部売っぱらってよ」
外道のアゴをくい、と引き揚げ、汚物を見るような目で勝平が言葉を続ける。
「聞いてるぜ、そのおっさん、『私が死んだら、どうか妻と娘には手を出さないで』つって自分を売ったそうじゃねぇか」
下衆どもを追い詰める過程で見つけたビデオテープ。どうせその哀れな様を見てゲラゲラ笑っていやがったんだ、こいつらは!
「で、女房子供の居場所を突き止めて、二人ともソープに沈めたってか!」
勝平のヤクザパンチが下衆野郎を吹き飛ばす。その家族に課した借金なんざ、おやじの体でとっくに回収済みなのに、さらに母娘を追い込んで・・・・・・
口から血を滲ませて勝平を見上げる悪党。すぐそばで立つその巨躯に、まるで仁王のような威圧感を感じ。思わず「か、勘弁してくれ」とこぼす。
「お前、その女どもに何て言ったか、覚えてるか」
勝平は知っている。やはり押収したビデオテープに録画されていた、その外道極まる行為。
『お前らの亭主は、
三度、髪をむんずと掴み上げ、人の心を持たない悪魔を吊り上げる。仁王も阿修羅もかくやという怒りの形相で、大きく鉄拳を振りかぶる!
堅気を追い込んで体を切り刻んだのみならず、その妻と子に絶望と負債を背負わせて地獄を見せた、この下衆に・・・・・・
「てめぇの血は、何色だあぁっ!!」
バッキイィィッ!
怒りのアッパーカットが、悪党を木の葉のように吹き飛ばした。
「な、何気取ってんだよ、アンタらもヤクザだろ、同じ穴のムジナじゃねぇか」
ピクピクと痙攣する下衆のリーダーに代わって、彼らの副リーダーが裸で縛られたまま懇願する。
「金は払うよ、アンタらだって多かれ少なかれやってんだろ? こんな事くらい」
倉庫の隅で固まって怯えながら、なんとか助かる方法を模索する下衆共。勝平はKOしたリーダーをぶら下げて奴らの目の前に放り投げると、表情を固めたまま静かに返す。
「お前らと、一緒にするな。俺は『侠客』だ」
「ハ、ハハッ、何言ってんだよ、カッコつけたって世間から見ればゴミだろ? 俺達なんて」
「そうっすよダンナ、そんな俺らが世間から金かすめ取んのは普通じゃないすか、そんな怒んねぇでください」
「シマ荒らしたのは詫びる、指くらいいくらでも落とします、命だけは勘弁してください・・・・・・」
「そう言って泣きを入れた堅気の衆を、
彼らにとって絶望的な一言を告げながら、勝平はジャケットを外し、シャツを上に脱ぎ捨てる。そしてゆっくりと振り向いて、その背中に刻まれた
下衆たちは固まっていた、虫の息だったリーダー格の男も含めて。
彼らは思う、どうして俺達はしくじった、どこで間違えた? この男に金やシマの話をすること自体無駄だったんじゃねぇか。なんで俺達は、わざわざ怒りに油を注ぐような真似をした?
いや、それよりも。俺達はいつからこうなった? どうしてこんなにねじくれちまった、なんでもっと、真っ当に、いや、
ガキの頃には 俺達も憧れてたじゃねぇか、と心で嘆いて。
「どうぞ、岩熊さん」
「おう」
勝平が仲間からピストルを受け取る。倉庫の隅っこで固まる悪党どもは皆、涙を流して、ようやく、そして今更心からの反省を込めて、言葉をこぼす。
「たすけて・・・・・・あの人たちに謝りてぇから」
「待って、くれよ、償わせてくれ・・・・・・」
「死ぬのはしょうがねぇ、でも、このままは嫌なんだ、後生だよ!」
だが遅すぎた。どの口が言うんだと周囲のヤクザ達が冷めた目で彼らを見下ろす。勝平もまた同じ目をして、散々殴ったリーダーを四たび引き起こし、その口に銃口をねじ込む。
「女たちのケアは俺達、天狼組がする。安心して死にな!」
ガチリ、とリボルバーの撃鉄を上げる。男は銃口を加えたまま、無念の涙を流して俯く。
「ばあぁぁぁぁぁん!!」
銃声の代わりに、勝平の下手な真似声が倉庫に響き渡った。
地に落ちたリーダーはへたりこみ、股間から湯気を立ち昇らせる。それでも彼は「あ、あああ」と息を吐き、自分がいま生きている事への歓喜に涙を流す。
「生かしとくんですかい? 岩熊さん、こんなヤツらを」
「俺は侠客だ、泣いて反省しているヤツらを殺せるわけ無ぇだろうが」
その瞬間、薄暗い倉庫にまばゆいスポットライトが浴びせられた。うぉっ、なんだ?
「警察だ、動くな!」
いつの間にか倉庫は大勢の警官隊に取り囲まれていた。拳銃やジュラルミンの盾を構えてこちらを油断無く睨んでいる、これはもうアウトだ。やむなく銃、といってもモデルガンだが、を捨て、両手を上げて拘束されるがままになる。
「ってかタイミング良すぎねぇか? お前ら俺が殺すのを待ってやがったんじゃねぇだろうなぁ、おい!」
「言いがかりは止めて貰おう、たった今到着して包囲した所だ」
俺を連行する
実際、本来なら傷害罪で数年くらいこむハズだった俺は、この上里の稽古相手として道場でたっぷりたっぷりたっぷりと『教育』を受けるだけで解放された。どうやらこの下衆どもの犯罪をきっちりあばいたサツからの礼のつもりらしい。まぁおかげで数日は体中が痛かったが、それは後日の話。
パトカーに乗せられる前、俺は上里に「せめて服ぐらい着せろや」と声をかける。が、彼は笑って俺の背中を見て一言、こう返した。
「いいじゃねぇか。でもなんでそれ、ひらがな、なんだ?」
車に乗り込むその背中には、桜吹雪を背景に、七文字の平仮名が縦二行に記されていた――
せいぎの
みかた
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