王女の帰国

 秋学期がはじまって数日。

 ドラゴンを象った王家の紋章入りの馬車からエロイーズが降りてくると、ロジェは思わず駆け寄った。

「ねえさま、おかえりなさいませ!」

「まあ、ロジェったら。そんなにねえさまが恋しかったの」

 ロジェが胸に飛び込むと、エロイーズもぎゅっと抱きしめ返す。

「はあ、わたしのロジェ。おまえの赤ちゃんのにおいがわたしも恋しかったわ」

 髪や頬に口づけを繰り返すエロイーズに、ロジェはくすぐったそうに笑いをこぼした。

 次いで馬車から降りてきたのは乳兄弟のクロードだ。彼は侍従としてエロイーズの外国訪問について行っていた。ロジェはクロードとも抱擁を交わす。

「ロジェ、すこし痩せたか」

 すっかり抱き込まれる具合になっていたロジェはそうかな、ととぼけるとクロードの腕のなかをすり抜けた。

 それを見咎めたエロイーズは、どうしようもなく手が掛かる子を見る目でロジェを見つめる。そして、おもむろに片手を振った。

 それを合図に、それまで直立不動の姿勢で王女と王子を見守っていた侍女や護衛の騎士たちは一礼をし、馬車や馬に乗って王宮まで戻っていった。


 ここは寄宿学校において種々の典礼や迎賓を執り行う講堂の正面玄関。

 ニヴルガル帝国まで婚約者を訪っていたエロイーズ一行は、王宮での帰国の挨拶もそこそこに、ロジェのもとまで帰ってきたのだった。

 まだ授業中のいま、ここにほかの生徒や教師たちの姿はない。だからと言って、王家の手の者がどこで聞き耳を立てているとも限らない。

「――『庭』へ」

 エロイーズの一言で、三人はヘスペリデスの園へとその足を向けた。


 王宮から逃げるようにして寄宿学校に入学したエロイーズたちにとって、寄宿舎すら気の休まる場所ではなかった。寮監さえも王家の息がかかっていた。

 そんな姉弟にとって『ヘスペリデスの園』だけが安息の地だったのである。





 世間的には病死と発表された王妃の死だが、事実は大きく異なっていた。

 王妃は毒を盛られて死んだのだ。

 エロイーズが十一歳、ロジェが十歳のことであった。


 すぐに実行犯は捕まった。しかし、その直後に自殺を図ったため、首謀者がだれであるかは分からず仕舞いだった。

 とはいえ、誰の目から見ても犯人は明らかだった。


 数ヶ月前に突如、王宮の住人となった王の公妾、マルタである。

 それまで、王に公妾がいることすら知らされていなかった。

 しかも彼女は、エロイーズ王女と同じ歳という王の隠し子マクシムを連れていた。

 もちろんマルタの身辺は徹底的に調べられた。しかし、証拠となりうるものは一つも出てこなかったのだった。

 誰もが彼女を黒幕だと思いながらも、マルタは無罪放免となった。


 この王妃暗殺の責を問われて、当時王宮にて要職についていた多くの者がその任を解かれたり、辞任に追い込まれたりした。

 それは、宮廷魔術師長や王妃の実兄であり宰相であったクレメール侯爵にまで及んだ。

 唯一と言っていい例外は、騎士団長のマルソー伯爵である。

 彼はちょうど護衛として、ニヴルガル帝国との休戦調停締結のため、王とともに国境に向かっていたのだ。騎士団内におけるマルソー伯爵の人望の厚さも、彼が辞職を免れた一因であると思われる。


 将来の王太子位を約束されていたロジェは、異母兄が現れたと同時に、母とその生家という強力なうしろだてを失った。

 この事件の直後、王は庶子であったマクシムを正式に認知し、第一王子としたのだった。


 混乱を招きかねないという理由で、国民には王妃の死の真相は秘されることになった。

 しかし、公妾やその庶子が現れたことによる心労が祟ったのではないか、いや、公妾が王妃を殺したのでは、とマルタたちを非難する噂は市井で絶えなかった。

 賢王と呼ばれた先王に比べて地味ではあったものの、その堅実な姿勢が評価されていた現王。しかしその評判も、これら一連の出来事により地に落ちたのだった。


 母の死を境に、エロイーズやロジェの姉弟を取り巻く環境は一変した。

 もう、王宮は心の休まる場所ではなくなった。





「ニヴルガル帝国はいかがでしたか、ねえさま」

 エロイーズとロジェはガゼボのなか、ベンチに寄り添いあうように座る。

 エロイーズの白魚の指が、彼女とお揃いのロジェの淡い金髪を梳いた。


 『ヘスペリデスの園』は、ゆるやかな丘のうえに建てられた石積みのガゼボを中心とした庭である。

 丘を下った平坦な部分は、幾何学的に配された低い生け垣が小道をなしている。さらにその周りは常緑の木立が囲んでいた。

 ガゼボからの見通しはよく、一方、周囲からの視線は遮られる。人が庭に入ってくればすぐに気がつき、だれかに話を立ち聞きされる心配もない。

 なにかしらの意図があって造られたのでは、と思われるほど、王家の姉弟に都合がよく、美しい庭だった。


「最悪だったわ。あのお綺麗な顔に気味の悪い笑みを貼り付けた皇太子、まるで値踏みするようにこちらを見てきて……」

「嫌なことはなにもされませんでしたか」

「まさか! 指一本だって触れさせてないわ」

 ロジェが姉の言葉の真偽を確認をするように振り返る。ベンチの後ろに立って周囲を警戒していたクロードは、それに力強くうなずいた。


 ダラゴニア王国の王女エロイーズとニヴルガル帝国の皇太子スウェイン・リンドホルムとの婚約は、完全なる政略結婚であった。

 これを機に長年国交が途絶えていた両国の融和をすすめ、あわよくばエロイーズに男児が産まれたら、外戚としてニヴルガル帝国への影響力を強める算段である。

 しかし、エロイーズにとっては向こうの人質になるに等しいものだ。

 また、婚約者のスウェインには美しいモノを『蒐集』する趣味があるとの妙な噂があった。


「クロードも、もうこちらへ座れ」

「そうよ、おまえがそこに立っていてはちっとも気が休まらないわ」

 どうやらエロイーズの苛立ちはまだ治まらないようだ。彼女に当たられたクロードは肩をすくめると、ベンチを回り込みロジェの隣に腰を下ろした。


「そんなことより。ロジェ、なにかあったのでしょう。ねえさまに教えなさい」

 エロイーズから真っ直ぐに瞳を覗き込まれ、ロジェは逃げ腰になるが、クロードにも逃さないとばかりに肩を抱かれた。

「……そんな、ねえさまたちを煩わせるようなことでもないのですよ」

 ロジェは、あの日ここでアクセルと出会ったことを渋々語り出した。


 話を聞き終えたエロイーズとクロードは呆れた表情になった。

「ロジェは認識が甘すぎる。もし、その男が嗅ぎつけて、それが王家の耳にでも入ったらどうするんだ」

 クロードが嘆息する。

「そうよ。それに、相手が悪いわ。ああ、やっぱりクロードは連れて行くんじゃなかった」

 エロイーズの言葉に、クロードは今度は難しい顔をした。

「それと。まさかロジェ、その男に興味をひかれているんじゃないでしょうね」

「それこそ、まさかですよ」

 ロジェは撫然と言い放ったが、エロイーズはまだ疑わしそうだ。

「だって、ロジェがそんな風にだれかに感情をあらわにするなんて珍しいわ」

 エロイーズが指摘する通りに、二人に報告するロジェの声はいつになく昂っていたかもしれない。


 ガゼボを緩やかな風が吹き抜ける。遠目に、まだ小さく固い秋薔薇のつぼみが揺れるのが見えた。

「ただ、いまの状況はそう悪くないわ」

 エロイーズは一呼吸おくと続けた。

「――その男がそんなに会いたがっているのなら、会ってあげればいいじゃない」

 きれいな笑みから放たれた突拍子もない言葉。

 いつものように、彼女の一言で今後の方針はすべてまとまってしまったのだった。

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