あなたの優しさを食いつぶす

二季一彩

あなたの優しさを食いつぶす

夏輝なつきくんさぁ、その栄養バー好きなの? いつも食べてるけど」

「……は?」

 ノートに落ちた俺の食べかすを、机の反対側から手を伸ばして払いながら家庭教師のじんさんが言う。

 左手に100均シャープペン。右手にプレーンの栄養バー、1本100キロカロリー。確かにここの所、仁さんに勉強を見てもらう時はこの状態の事が多いかもしれない。

「別に、安いから」

「いや毎日それは身体に悪いって」

 親の見本のような言葉だ。最もそんなことを言ってくる親など俺にはいないのだけれど。

「……じゃあ仁さんが何とかしてみれば」

 敢えて図々しい事を言ってみた。

「え」

 仁さんの表情が固まる。

 俺の網膜の裏には、一歩先んじて仁さんの困り切った顔が浮かんでいた。

 この人の何かというとすぐに眉を寄せる所がたまらなく嫌いだ。

 困っていますと言いたげな、今までそうすれば誰かしら助けてくれたんだろうと容易に想像できる、甘えた表情が嫌いだ。

 分かっていて、わざと困らせているのは自分だが。 

 困らせて、それに俺が腹を立てて、もっと困らせて。

 それでも仁さんはきっと俺の傍にいるんだろう。

 だって彼は、そうしないときっと身を割くに耐えられないから。

 シャープペンの先を少しだけ仁さんの手元に向けて、”その表情”が現れるのをじっと待つ。

 しかし、予想外に反して仁さんはきょとんと眉を上げて笑った。

「おっけー。今度おかず作って持ってくわ」

「……は?」

 食べかけの栄養バーがボロ、と派手にノートに落ちた。

「うんうん、良いね良いね。折角ならちょっと手の込んだもの作るかぁ、料理とかほとんどしたことないけど」

「は?」

「夏輝くん最近勉強ばっかりだもんな、そういうご褒美もアリアリ」

 どんどん話を膨らんでいく話についていけないまま、只々満足そうに何度もうなずく仁さんを眺める。

 正直な話、食事なんて腹が満たされれば何だって良かった。突かれたから、突き返してみただけだ。

 ただでさえ最近は進級の為の勉強に時間を喰われているのだ、のんびり食事なんてしてる暇があるなら一秒でも多く働いて、出来るだけ多く稼いで、出来るだけ早くこの家を出て行かなければいけない。

 そう言ってしまえば、一人で盛り上がっている仁さんは今度こそ眉を寄せるだろう。

 けれど何故かそうする気持ちは起きなくて、俺は黙ってシャープペンを仁さんの手に投げつけた。

 手の甲を押さえて期待通り顔を歪める仁さんを見て少しだけ胸がスッとした。

 



 目の前に積まれたカラフルなタッパーの城と、得意げに笑うその城主。

「……本当に作って来た」

「おにぎりもあるぞ。やっぱ米もないと」

 良くもまあ、これだけの量を作って来たものだと思う。手のひらと同じくらいのサイズのタッパーが3つ、4つ、5つ。その上に乗せられた海苔が巻かれたお握り。

 大学生とはこんなに暇なんだろうか。

 何も言わない俺をどう好意的に解釈したのか知らないが、仁さんはその笑顔を崩さないまま机の上に開けたタッパーを並べて行った。

 トマトが申し訳程度に散らされたレタスのサラダ。

 レモンと一緒に入れられていたせいか酸っぱい臭いのする唐揚げ。

 赤い色がタッパーに沈着してしまいそうなナポリタン。

 ベーコンとほうれん草の炒め物。ベーコンは少し厚く切られている。

 最後のタッパーには、皮の剥き残しがぽつぽつとあるリンゴが敷き詰められていた。

「素人が考えた弁当って感じ」

「うわ失礼じゃん……まあ食べな。栄養バーよりは美味いぞ、多分」

 ぽん、と手のひらに丸いお握りが乗せられた。

 期待に満ちた表情の仁さんを上目に見た後ラップを剥がし、一口齧る。。中から出てきた茶黒のこれは昆布だろうか。舌触りが何だか不愉快だった。やはり、味はしなかった。

「んん……?」

 違和感を抱えたまま、とりあえずサラダのトマトも口に含む。ブニャッとした触感が口に不快な感覚を残すだけ。少々生臭い感じがする。

 唐揚げは固くなった粘土のようだ。

 多分これが”砂を噛んだような”と言われる感覚なのだろうと思う。何を口に含んでも、大した味を舌が拾うことは無い。

 そういえば俺がいつも食べていたあの栄養バーは、どんな味がしただろうか。そこまで考えて、何も思い出せない事に気付いた。

「どう?」

 俺の訝し気な表情を不安げに覗き込みながら、仁さんは恐る恐る問いかけた。

「まあ、そこそこ」

 まずい、そう言ってしまうのは簡単だが流石にそれは憚られた。そもそも、恐らく仁さんの料理センスの問題ではなく俺の問題だろう。

「あ、味の感想、具体的にどうぞ?」

「ううん……」

 どう返したものかと料理たちを眺めまわす。

 サラダ……は褒めても仕方ない。唐揚げは褒め方がわからない。ナポリタンは味付けが甘いかしょっぱいか分からない。りんごは論外。

「……炒め物、塩加減が良い感じ」

「そっか」

 慎重に選んだ陳腐でつまらない感想に、仁さんはふにゃりと表情を崩した。

 相当不安だったのだろう。そう言えば、料理はあまりしたことが無いと言っていた。

 仁さんは、あの母親に教わりでもしたのだろうか。

 だとしたらこの味付けは、この砂の味は、あの女の味と似ているのだろうか。

 あの女の料理の味は、それなりによく覚えている。何せ数年前までは、それらは俺のために作られた料理だったのだから。

 唐揚げは少ししょっぱくて、口に入れると舌がピリピリするくらい。

 ナポリタンは甘めで、カットトマトの味よりもケチャップの味が強め。

 炒め物はいつも薄味で、塩は最低限。他のものは寧ろ濃いくらいなのに。

 ——悔しいほどに、よく覚えている。

「どうしたの、固まって」

「……っ」

 ほんの一瞬、頬杖をついた仁さんの姿があの女と重なった。頬に貼られた痛々しい絆創膏まで同じだ。あの女は一度は家庭ごと暴力を振るう男を捨てたくせに、また性懲りも無く同じような男に依存しているのだ。

 あの女は父親が何かをしでかす度にいかにも子供が喜びそうなハンバーグとか、オムライス何かを作って俺の機嫌を取ろうとしていた。それを食べるをテーブルに肘をついて眺めながら、さも親として良い事をしたかのような満足げな表情をしているのだ。

 ”砂の味”で良かったかもしれない。俺を捨てたあの女の次の息子が作ったもの。

 もしも記憶と同じ味がしていたら、きっと舌に乗せた瞬間に怒りと憎しみを吐き出してしまう。そうしたらきっと、この穏やかな笑顔までどうにかしてしまうかもしれない。

「おーい、夏輝くん?」

「……また作ってください」

 誤魔化すように適当な言葉、それでも確実にこの人が喜ぶであろうものを選んだ。

 予想通り、柔らかな茶色の瞳がゆるりとほどける。

「もちろん。何が食べたい?」

「卵焼き?」

 ぱっと頭に浮かんだものを出してみると、仁さんが「何で疑問形なの?」とクスクス笑った。

 きっと卵焼きも砂の味しかしないのだろう。そして、それでも俺は何も言わずに食べ続ける。

 あなたの優しさを取りこぼさないように、只々胃に収め続ける。

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