三話


『好きです。……だから、わたくしの事を忘れないで』

 脳裏に谺するのは、星降る夜に拾い上げた一つの光。奇麗な水色の瞳に涙を溜めて真っ直ぐ雪之を見つめた。目の前の者は人間じゃない。背に翼を持つ異形だ。だが、雪之にとって、その様な事は関係がなかった。

 安心させるために、そっと抱き寄せ、子守歌を聞かせるように何度も囁く。

「大丈夫。……大丈夫、だから……」

 そうして、柔らかに笑って見せる。

「お勤めを終えて、マリアージュがここに来たら、一緒に海を越えよう。……故郷に妹が待っているのだ。自慢の妹だ。いつもわたしの事ばかり心配している優しい子なのだ。その子に会わせたい」

『……ユキノ……』

「マリアージュ。きみの無事を祈っているよ。祈るだけだったら、きみの国の神様も、わたしの国の神様も、きっと許してくれると思う。……だから、無事で。わたしはここで待っているから」

 なきそうな顔に精一杯の笑顔を浮かべて、拾い上げた光は天へ帰っていった。

 あれから、どれだけの月日が流れただろう。

「……近江殿。今日も教会へお寄りなさるのか?」

 いつのまにか、教会に足を運ぶ自分を自覚する。志を同じくする、学友が付き合いよく雪之と肩を並べた。

「岡田殿。……そういうおぬしは、わたしの付き合いで教会に足を運ばれているのだとしたら、そうとうのお人好しだぞ」

 岡田二郎忠信。雪之の郷里ではかなり名の知れた武家の次男坊だが、幼い頃に父親との剣の練習時に負った傷が元で、右手が自由にきかなかったりする。今回の留学に参加したのは、怪我を負うまで向いていた武道への興味が学問へと方向を変え、お上からの留学への公募の折り、名乗り出たのである。

「暴漢に襲われた時に、誰が助太刀する?」

 右手が不自由とはいえ、左手一本でも、普通の者では歯が立たないほどの剣技の持ち主だった。その言いように、淡く笑う。

「なるほど。たしかに、岡田殿が居れば、多少の事では動じないで済む。……わたしは、せいぜい考える事に集中しているよ」

 その手に疎い雪之が唯一認めた剣士だ。だが、同じように忠信は雪之の知識に対する貪欲さには一目置いている。互いに認めあった者同士だ。気も合い、その日その日習った事に対する意見の交換も良くする。

 そうこうする内に、目的の教会へたどり着いた。慣れた様子で扉を潜り、シンと静かな祭壇のある内部に足を進める。この辺りではそろそろ馴染みはじめた異国の風貌の雪之たちの教会通いに、きりすと教信者たちは、初めて教会を訪れた頃に見せた興味本位の視線を注がなくなっていた。ただ、好意的に笑顔を向けるだけである。

「岡田殿に、近江殿」

 声を潜めて二人に声をかけてきた者が居た。

「先生? 珍しいですね。この様な場所でお目に掛かるなんて」

 信者たちの祈りの邪魔に成らないように、雪之と忠信はいつも後ろのほうの椅子に座って、静かな空間を満喫していたが、初めて通訳の者が教会に案内した後、ここへ訪れる事も無かった源一郎の出現に、大きく目を見開いた。

 源一郎は大きく肩を揺らすと、雪之にとって嬉しい知らせを口にする。

「……妹御のご病気。以前、儂が診察した事があっただろう? どうやら、“結核”と呼ばれるものらしい。その治療法が掲載された書物を見つけたのだ」

 雪之は思わず立ち上がり、源一郎の方へ身体を乗り出す。

「ほ、本当ですか。先生っ」

 声を荒らげかけ、そこが何処かを思い出して声量を落とした雪之に、源一郎は頷いてみせる。

「他にも色々乗っていた。まだ、翻訳の途中でな? ……二人とも、手伝ってはくれまいか」

 雪之は喜色を浮かべて源一郎の手をしっかりと握る。

「……希望を見た気がします。……こちらへ来てそろそろ二年はたとうというのに、語学の勉強以外に本来の目的“医学”に関しての勉強が進まなくて、気落ちしていた所があったんです。……本当に……本当に、有り難うございますっ」

 泣きそうな瞳でそう言い募る雪之を横で見ながら、忠信は「良かったな」と声をかけようとして、今まで前方で祈りを捧げたり、賛美歌を歌ったりしていた人達が騒ぎながら窓の外を指さしているのに気付き、首を傾げた。 示された外を釣られて見た忠信は、一度瞬き、自分の頬を打った。だが、目の前で起こっている出来事が現実のものである事を知って、無意識のうちに雪之と興奮気味に話し込んでいる源一郎の腕を取っていた。

「……か、風祭先生……近江」

 顔色を蒼白に変えている忠信の方へ二人は「何か」と言わないばかりに振り返る。

「そ、そとっ……外を見てくださいっ!」

 源一郎と雪之は普段の彼とは思えないほどの言語の乱れを見せる忠信の様子を不思議に思い、何も考えずに忠信の示す方向へ顔を向けた。二人は、そのまま硬直する。

「……………なんだ、あれは」

 かすれた声が誰から漏れたのか。目の前に繰り広げられる出来事が、彼らの許容範囲から外れていた。雪之は反射的に教会の入口へ駆け寄ったが、扉を開けようとした瞬間、奇妙な物が奇声を上げて、扉に体当たりをかけている事に気付き、慌てて錠前を下ろす。

「外に出たら、一発でおしまいだ。我々はここに閉じ込められたらしいっ!」

 ドン、ドンと断続的に響く重い音。丈夫で重い鉱鉄製の扉だというのに、何か得体の知れないモノの体当たりで、扉の表面が、生き物の様に波うつ。

「長くもたんな、この扉は……」

 冷や汗を流しつつも、辺りを見渡した。扉が破られても暫くは持つように、何か重いものを移動してこなければ成らない。

「一体全体なんなんだっ!」

 武者震いなのか、カタカタと身体を震わせた。ガラス張りなのに、教会の窓が外からの進入を防いでいるのは、強固な鉄格子が編み込まれているせいに他ならない。忠信は顔色を失いつつも外を睨み付けたまま、脇差しに手を伸ばした。何時でも抜刀出来る様に構えたのである。

 教会の中では、信者の者たちが恐慌状態に陥って右往左往に走り回ったり絶望的な声を上げる者で、ごった返していた。

「落ちつきなさいっ! こういう時にこそ、我等が父、神に祈るのですっ!」

 騒いで絶望の声を上げる信者たちに、聖職に付いて長い、この教会の神父が、大声を張り上げて一喝した。

「神父さまっ!」

「ああっ、神さまっ……」

 十字の紋章を纏った、聖職者に縋りながら信者たちは救いを求めるために祈りを捧げる。

「何時、祈るのですか? こういう時にこそ、祈るのではないのですか。神を信じ、その御心にお縋りするのです。私たちの心の声を、我等が父、神は見過ごすはずはありません」

 神父は、信者たちをどうにか落ちつかせると、移動可能な家具を見つけ、破られそうになっている扉のほうへ運ぼうと行動を移した雪之たちの方へ足早に近づいてきた。

「……あれは、デビルです。デビルがわたしたちの町にやって来たのですっ! ……理由は何故か判りません。あなた方も祈りましょう。祈って、神に助けを請うのですっ」

 次に近くの書箱を源一郎と雪之、忠信三人で移動させ、扉の前に押しつけ扉を塞いだ。

「……こちらの国ではあの様な生き物の襲来はいつもなのか?」

 汗を拭いながらも、祈りに参加させようと躍起になっている神父に問いかける。

「コウモリの羽根に山羊の身体。大蛇の頭に獅子の身体。……化け物の巣窟だっ! こんなのは、見たことも聞いた事もないっ」

 呻くように忠信は感想を述べる。源一郎たちの質問に神父は「いいえっ」と強く首を振った。その間にも窓の外では、異形のモノたちに襲われて悲鳴を上げて倒れる者や、転倒した馬車が目につく。源一郎がふと視線をやった先では、転倒した馬車の馬や人に、双頭の獅子が、襲いかかって食い千切る所だった。鮮血が飛沫、その様は現実とはかけ離れた場所にある様。

 教会からそう離れていない場所にある、建物の割れた窓硝子から異形のモノ共が中へ進入しようとしているのも目に入ってきた。

 その様子を苦い気持ちで睨みながら、忠信はこの教会がどれだけ持ちこたえられるか軽く予想出来て、無意識の内に抜刀した刀の柄を握りしめる。掌にはすでにじっとりと脂汗が滲んでいた。

 雪之は神父の話を聞きながら、ふとマリアージュの話していた事柄を思い出し、それを口にした。

「……あの壁画に似た姿の者が言ってました。現在、魔界と呼ばれる所と、天界と呼ばれる所が、紛争状態だそうです」

 神父は今まで源一郎と向かい合って、祈ることの意義を切々と訴えていたが、雪之の言葉を聞いてギョッとした表情になる。

「…………壁画? 天使の事かね。それに紛争って?」

 雪之は首を少しひねり、思い出しながら答えた。

「ええ、そうです。確か人々には、天使と呼ばれる存在だと彼女は言ってました」

 神父は、雪之の言葉に絶句する。雪之はその様子に気付くことなく言葉を続ける。

「なんて言っていたかな……ああ、そうそう。魔界側が、天界側から大切な物を盗み出したからだと言ってましたが……。どうしたのですか? 神父さま」

 記憶のなかの言葉をなぞるように口にしていたが、聞き手である筈の神父の気配が急に変わった。雪之は怪訝そうに屈んで神父の様子を伺う。

『……アア、オマエダ』

 嗄れた声を聞いた気がした。雪之は、ハッと顔を上げて声の主を探す。

「どうされた?」

「持病でも持っていたのだろうか?」

 突然苦しみだした神父を気づかう様に、源一郎と忠信は身を屈めた。

「……薬は必要ですか?」

 背中を摩ってやったりするが、治る様子も無い。源一郎は、身を横たえる場所を探して顔を上げた。

 その間にも、神父は胸の辺りを抑え、身体をくの字に折って脂汗を流している。末は血泡を吹き出したのを見て三人は蒼白になった。

「誰かっ! 神父さまに薬を……」

 忠信が顔を上げて祈りを捧げている信者たちに声をかけた瞬間、心配そうに覗き込んだ雪之の肩をがっしりと捕らえ、顔を上げた。

「…………っ!」

 その顔は、人のものとは思えない表情をしていた。先程まで穏やかだった神父と、同一人物なのか疑えるほどの変わり様である。

『ツカマエタ』

 ニタリと神父であったモノが笑った。聞き違いかと思ったその嗄れた声は、目の前のソレから雪之に対して紡がれる。

 神父自身もかなりの年配であったが、声質がまるで違っていた。

 神父を心配した信者たちは、ぞろぞろまわりに集まって来る。

「……神父さま?」

 様子の変わってしまった神父に、信者の一人である年配の婦人が声をかけた。婦人の声に、雪之の肩をがっしり捉えた神父が振り返る。甲高い悲鳴が、その瞬間上がった。

 メキメキと奇妙な音がして、首が回る。服を破き、ぶくぶくと身体が大きくなり、白人特有の白い肌を裂いて、深い緑と黒の爬虫類に見られる物が出現した。雪之は神父だった身体の鮮血を浴びながらぼうぜんと見上げる。歯がカチカチと鳴り、ごくりと喉をならす。額にはじっとりと冷や汗が浮かんでいた。 信者たちの間から再び悲鳴が上がる。源一郎と忠信は抜刀して雪之を救うために切りかかっていったが、雪之を捕らえた異形の背の羽根が羽ばたいた途端、吹き飛ばされる。

「岡田っ! 先生っ!」

 悲鳴の様な声を上げて、吹き飛ばされた二人の方へ雪之は視線を向けた。

「近江ーっ!」

 別な場所で女の悲鳴が上がった。大きな音をたてて窓の硝子が砕け散ったのである。

 一瞬、人々の意識がそちらへ奪われた。その場に居た誰かが、ぽつりと呟いた。

「……ガラスが……っ」

 大きな羽ばたきが雪之の耳を打った。はっと我に返った時には、雪之の身体は宙に浮かび上がっている。

「近江っ!」

 馴染んだ顔触れが、必死の形相で雪之の方へ手を延ばした。それをあざ笑うかの様に源一郎や忠信の頭上を二度ほど旋回すると、割れた窓から外へ飛び出す。騒ぎは更に大きくなっていた。

「わたしを、何処へ運ぶっ!」

 ギリギリと雪之は歯を食いしばり睨み付けるが、異形は意を解する様子も無い。その頃には神父だった姿とは似ても似付かぬ姿と成り果て、がっちりと雪之を腕に抱えたまま、かなりの上空へ飛び上がっていた。

 雪之の視界に、箱庭の様に見える街が存在する。今まで自分がいた場所とは思えないほど、小さく見えた。その街から、黒い煙が染みだすように引き上げられる。それは、良く見ると町を蹂躪していた他の異形たちだった。

「わたしを何に利用する気だっ!」

 現実に起きたとは思えない現象。そして、物語にしか存在しない様な出来事が続き、雪之は、嫌な……とてつもなく嫌な予感を覚えていた。心臓の音を大きく感じながら、雪之はこの果てに何が待っているのか、朧気に想像できる自分が嫌で堪らなかった。

(……まさか……。いや、そんなはずはないっ!)

首を振り、懸命に否定する。そして必死で祈った。予感が外れる様にと。

 だが、最悪の結果とは、追い詰められた時にこそ、回避出来ないのだと何処かで知っている自分が別に居る気がして、苦い表情のまま深く目を閉じた。



「忘れないで」と訴えた彼女に「忘れない」と答えて返したのはそう遠い昔ではなかったはずだった。彼女は言った。帰って来ると。だから約束した。待っているからと。

 だが、この状況は望んだ事じゃなかった。

 教会からさらわれて、連れてこられたこの見知らぬ場所で、雪之は彼女と再会した。

 戦いに卑怯も卑劣も無い事を知っている。

 蒼白な顔で剣を構えたまま、人質として捕らえられた雪之を、久しぶりに見たマリアージュは凝視していた。

 自分が何に利用されているのかを雪之は知っていた。雪之を捕らえたこの異形は、それを楯にマリアージュを傷つけようとしているのだ。逃れようともがくが、逆に締めつけられて気が遠くなる。

『コレハ、オ前ノ殉教者カ? ナラバ、コノ者ノ死ヲ命シレバヨイ。崇高ナ使命ヲ全ウサセルタメニ命をサシダセト』

 マリアージュの泣きそうな水色の瞳が、異形と雪之の間をゆらりと彷徨う。使命と感情の間に揺れ動く様が雪之を切なくさせた。

(……泣かないで欲しい)

 雪之は、異形に捕らえられた不自由な姿勢のまま、仄かに笑んだ。

(……捕まったのは、わたしの油断だ。きみに聞いていたのに、別な所での出来事だとの過信が現在の状況を招き寄せた)

 そして、遠い目をする。脳裏には、自分の帰りを待っているだろうと思われる妹の姿が過った。

────兄上さま。花見をしましょう。

 その声、姿に向かって、約束を違えてすまなかったと告げる。

(……わたしを捉えるために、町をあの異形たちが襲ったのだとしたら、わたしは戦っているきみにも、世話をしてくれた町のひとたちにも危険に晒してしまった責任がある)

 もう一度、マリアージュを見つめた。綺麗な綺麗な…そして、とても強いだろうと思われるその天使を。

(……わたしを好きだと言ってくれた、唯一の人)

 ふわりと笑って、覚悟を決める。そろりと脇差しに手を延ばした。

(この人だけは、守り通さなければ成らない。……わたしの意地にかけてっ!)

 刀身の冷たい感触が肌を伝う。不自由な姿勢で鞘を払うと、驚愕に強張るマリアージュの前で、それを己の胸に深く突きたてた。人質が消えれば、彼女は自由。

 人質というものは、生きていてこその価値。くずおれる雪之の霞む視界に、彼女の泣き顔を見た気がした。

(……どうか、無事で……それだけを願う……)

 それが、雪之の最後の意識で、後は闇に飲まれてしまった。

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