一話
光が落ちてくる。
近江雪之正守はそんな錯覚に囚われた。
故国・日本を離れ、師である風祭源一郎に付き添って、阿蘭陀の船の乗ったのは、かれこれ二月以上前の事である。
航海中はさして海が荒れる事もなく、遭難する危機に遭遇する事すらも無く、順調に目的地にたどり着いたのだが、言葉が通訳の者を仲介しないと判らない事だらけだった。
母国で無い資料を漁って、独学で勉強した雪之を含む留学生たちだったが、実際には殆ど役にたたなかったりして、知りたい事が多々あるのに、それが障害となり、中々本来の目的である医学までたどり着けない。
読めない書けない理解出来ないの三重苦で悲鳴を上げる毎日である。
幸い、泣きそうな気分に成りながらも、必死に語学の勉強に勤しむ面々に同情した通訳の者が、余暇を利用して親切に言葉と読み書きを教えてくれた。
「ツメコミスギハ、覚エル効率ヲサゲルネ」
と、医学より先に言葉を覚える勉強をする事になった留学生たちにそう言って、昼の休憩どきや、一日の勉強過程を消化しおえた後に、町に繰り出し、時間が許す限り色々と説明してくれた。
美術館や図書館など、公共的な建物を何台かに別れて乗り込んだ馬車の中から示しつつ、実物と文字を比較しながら、日本語と阿蘭陀語を交互に発音しながら教えてくれる。
気分転換を混ぜながらの彼の教え方のお陰で、二ヵ月を経過する頃には、たどたどしいながらも簡単な会話を留学生たちは成立させるまでになったし、読むことに関しては、通訳の人の手を煩わせない程度まで上達した。 現在は、念願の医学の勉強に没頭する毎日である。
「先生、あれは何ですか?」
その日、医学についての講義を聞きおえ、宿泊している建物へ帰る途中だった。
「どれ?」
留学生の一人である加納宗次郎は、伸び上がるようにして、大通りの向かい側に建つ、他の建物から異彩を放った作りのそれを示した。その建物の前には、馬車が何台も留まり、着飾ってはいたが、どこか質素な洋服を纏った貴婦人や紳士たちを下ろして走り去っていく。
「あの建物ですよ。……何をするつもりでしょう。沢山の人達が中に入って行くのです」
硬質な四角い建物の並ぶ町中で、精巧な彫刻をあしらった尖った屋根を持つその建物は、人が住むには不向きな様子だった。ホテルと呼ばれる宿にしては、建物を潜る時の人々の顔の表情が神妙である。宗次郎の見ているものを見た他の者たちも不思議そうに見つめた。
「この辺りにわざわざ足を留めるほど有名な場所があったとは、聞いていないな」
「……とても美味しい料理店がある……とか。だが、料理を食べるのなら、あんなヴェールは邪魔だぞ」
源一郎は、好き勝手想像しながら思い思いの意見を述べる宗次郎たちの視線を追って、話題の中心である建物を見、「なんだ、あれか」と笑いながら呟いた。
「……先生?」
「きりすと教徒の教会だ。……そうだな、日本で言えば仏教の寺院の様なものだろう」
きりすと教と聞いて、興味が湧いた雪之たちである。故国・日本において、色々問題の起きた宗教の一つだ。天草では、そのために多くの人々が亡くなったと聞いている。
「我々の知る宗教的建築物とは随分異なりますね」
神社や寺院の趣とはまるで違う、その不可思議な雰囲気を持つ建物に興味を抱く。
それを察したのだろうか、源一郎は隣を歩いていた、通訳の人に二三話すと、笑って「ご案内しましょう」と申し出てくれた。そして教会に入ったわけだが、その壮麗で幻想的なその装飾に目を奪われる。中で見事だったのは、丸天井一面に描かれた壁画だった。
目眩がしそうなほど高みを描く雲の層。今にも羽ばたきが聞こえてきそうな羽根の生えた綺麗な人々。みなが穏やかな表情で、どこか恍惚と互いに囁きあいながら、連なり高みを目指す雲の更に遠くにある光を目指して飛翔していた。
実際にいそうなリアルさを持つその壁画に、案内されてきた雪之を含めた留学生たちは暫し見とれる。
「……いやあ……見事だ」
かすれた声で感嘆の声を上げたのは、源一郎だ。それ以上、言葉にしようが無い。
ただ、その時源一郎が感じた気持ちは、等しく雪之たちの言葉でもあった。
見せてくれた通訳の人は、自分たちの文化を素直に認められた様な気分なのだろう。嬉しそうに何度も頷いて雪之たちと壁画を見比べていた。
(……また、見に来よう)
余暇が出来た時の、暫しの休息にはもってこいの静けさと冷やかさ。勉強に明け暮れていた留学生たちにとっての束の間の目の保養となった。
(異教徒とはいえ、鑑賞するだけなら、構わないはずだ)
誰もがそう思い、互いに祈りの邪魔に成らない程度にささめいた。仏教の寺院とは趣の違うそれらに浸って、その場を後にする。
「装飾が細やかだったな。近江殿」
雪之はそう声をかけてきた者に「そうだな」と頷き、丸天井の壁画を思い出した。
「……背に羽根が生えた人種がいるのだろうか?」
その問いに対して答える者は居ない。
(……宗教画の中だけの存在なのだろうか)
雪之の中に、一つの疑問が生まれ…それが、不思議と心に残るものとなった。
(絵のなかの彼らは何を欲しているのだろか?)
願う様に、焦がれる様に、空の高みを見つめていた。
(……これを書いた人達は、何を求めていたのだろう)
羽ばたきが聞こえる。彼らが求める光はどんな形をしているのだろう。
雪之たちが宿泊している場所は、彼らの希望もあって、町中から少し離れた郊外にある。
着物に袴、独特に結い上げた髷に腰に差した刀…何より明らかに東洋人だと判る姿は、好奇の眼差しで見られて、心の休まる所が無いからだ。
夕方、今日の予定を終えて戻った雪之は、ランプの灯で明日行われる実習の予習をしていた。病に倒れ亡くなった人の解剖が行われるという事で、人の体内がどうなっていて、何がどういう役割を示しているかを説明してくれるらしい。
本は借り物だったので、必要な所は抜き書きしていた。大切な部分は、印を入れる。
腕の樽さを覚えて顔を上げると、既に外は暗くなり、部屋の灯がともっているのが自分の部屋だけである事に気付いた。そして苦笑する。妹の…桜華の声が、優しく囁いた気がした。
────兄上さま。無理をなさらず、お休みくださいませ。
望郷かな、と雪之は思う。病気の妹を遠くに残して来た事もあり、こうやって何かの拍子に思い出し、桜華の安否を気づかった。
(……きつくないだろうか)
城勤めを終えて屋敷に戻ると、いつも床から身体を起こし、土間で出迎えてくれた。
コンコンとか細い咳を繰り返す桜華は、一度も“苦しい”とは、言わない。
────兄上さま……。
それでもいつも、雪之の仕事ぶりを気づかっていた。それが脳裏から離れないのだろうか。こうやって離れていても、その心配りを思い出す。 夢の中でも、時々過る幻聴も、どれもが雪之を労っていた。
催促されている様な気がして、苦笑しながら本を閉じる。ランプの灯を消して未だ慣れない柔らかすぎるベットに入ろうとした。
「……なんだ、あれは」
窓の外の闇の方が灯を吹き消した室内より明るい時間帯だったが、それでも、夜と呼ぶべき暗闇に包まれていた。
その暗闇の世界を、一条の光が空を割いて落ちてきたのだ。雪之は驚いて窓の側へ駆け寄ると、閉じられた窓を開け放ち、身を外へ乗り出す。
空は満天の星。その星のかけらが一つ流れ落ちた様な錯覚を受けた。雪之の宿泊している場所からそう離れていない林の中に、チラチラとした残像を残しながら、落ちていく。
気がつくと、廊下を出て、光を追うように、外へ走り出ていた。
消え行く光の軌跡を追って、落下地点をうろうろと探し、そこで雪之は不思議なものを見つける。
「……“光”が落ちている」
純粋な蜂蜜を溶かし込んだ様な色の髪だった。身を覆うのは、西洋風の使い込んだ戦装束だが、先程まで戦闘に身を投じていたかの様な風体である。少し離れた所には、見事な細工を刀身に刻んだ剣が、地面に生える様に突き立っていて、空に登った細身の月の光を浴び、鈍く反射していた。
雪之は瞬間、息を短く吸い込んだが、口から出たのは次のようなものである。
「……どうしようか」
雪之は困惑して、屈んだまま腕を組んだ。その者、────多分女性と思われる ────を見つめながら、眉間に皺を寄せて唸った。
「怪我人らしいから、助けるべきなのだが……」
気を失った青白い顔は、見たこともないほど造作が整っていて、思わず不謹慎な事だが見とれた。だが、この者の背に生えている大きな双翼は、何を意味しているのだろう。
「……西洋人には、時々とても綺麗な人がいる事は知っていたが、ここまでとは思わなかったな。わたしは」
感嘆の声が思わず漏れる。そして、
「……しかし、西洋には背中に羽根を持った人種がいるとは知らなかった」
初めは作り物かと思ったが、触れてみると、血が通う暖かなもので、どうやら鳥と同じ、身体の一部だと知れる。
「だが…この怪我。刀傷だぞ」
大きな戦争があっているとは、近隣に詳しい通訳の人から聞いた事も無かった。
ふと、瞼が震えて固く閉じられた目がゆっくりと開いた。雪之を一度ぼんやりと見て、驚いた様だったが、怪我が酷いのか、再び意識を失う。雪之は相手の状況を見て、怪我の手当てが早急に必要だという事が判り、そっと抱え上げた。今は亡き母が病に倒れて、床から離れられなくなった時、四季の訪れを直接見たがった。それでよく、抱え上げて縁側に連れていってた経験から、どの様に一人で人、一人を運べば良いかはコツを知っている。
弛緩しきった身体を運ぶのはとても難しいが、この場所から、雪之の宿泊している建物までそう距離は無かった。どうにか背負い上げると、部屋まで背負って行く。自身のベットにその者を横たえると、さっそく治療を始めた。診察を始めて判った事は、出血のわりに、そうひどい怪我は無かったという事。これなら、自身の知識だけでどうにかなるとホッとため息を付く雪之である。
身体全体を診察し終えると、怪我を治療し、包帯を巻いてそっと寝かせる。
雪之は、引き寄せていた椅子に座って、怪我のために熱をだしたその者の額に濡れたタオルを置き、時々温くなった濡れタオルと水を変えながら、病状を観察した。熱が下がって落ちつく頃、暗かった空も光がさしてくる時間帯となる。雪之は看病疲れと病状が安定した事に安堵してか、いつのまにか椅子に座った状態で、眠ってしまった。
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