光を拾う
西崎 劉
序章
「桜華、寂しいだろうが、我慢しておくれ」
江戸中期。日本は鎖国政策を取り、諸外国との接触は限られた所でしか許されなかった時代の事である。
医学の勉強のために、海外への窓口の一つ、長崎へ向かおうとする一人の旅装束の若侍が、病床の娘に別れの挨拶を述べている所だった。
「兄上さま。本当に留学されるのですか?船旅は危険なのでございましょう?」
艶やかな黒い髪を背に流した、整った顔だちの色白の娘が、床から身体を起こし、旅支度を整えた青年を見上げた。
「……だけど、蘭学の先生が仰ったんだ。お前の病は、西洋医学で治る可能性があるって。……父上も母上も同じ病で亡くした。わたしには、もうお前しか残っていない」
脇差しをさし、身支度を整えおえると、側に控えていた年嵩の女性に頭を下げた。
「……わたしの留守の間、妹を…桜華を宜しくお頼み申します」
「若さま……」
涙ぐむその女性の背を軽く叩き、そう言うと、ふわりと笑う。
不安そうな様子で青年を見る唯一の妹を安心させる様に優しい眼差しを向けた。
「武士に二言はない。この兄を信じて、日々を生きて欲しい」
そう言って、その屋敷の庭に植えられた、まだ若木である桜を見やった。
「剣術や体術はそう得意ではないのだが、唯一学問だけは、自身に誇れた。母上や父上の事が切っ掛けで、医術に興味を示した。……独学で色々な医師を尋ねて勉学を積んでいるのを認められて、長崎奉行のお抱え医師に紹介を受けて勉強を始めたのはかれこれ半年ほど前。その勉強も行き詰まっていた時に“阿蘭陀”に留学をしてみないかと、声をかけられたのだ。待っていろ、桜華。……必ず、この兄の手でその病を直し、一緒に花見をしよう」
桜華は、兄…雪之を見上げ、泣きそうな表情をした。
兄はいつも桜華を一番に考え行動する。その心が嬉しくもあり、寂しくもあった。人並みの幸せを、兄に与えたくもあったし、桜華という枷から解放してあげたかった。だが、病のある身では兄は桜華が何を言おうとも聞かないだろう。自分という者がいるために、兄は恋人すら作っていない気もして、身の置場もないほど辛かった。
「……桜華? 身体が辛いのか」
心配そうな顔が、俯いた桜華の視界に飛び込んでくる。桜華は首を横に振ると、無理やり笑みを作った。
「いいえ、兄上さま。 桜華は、兄上さまがお帰りになるのをお待ちしています」
目元が僅かに潤んでいたが、精一杯の微笑みを浮かべた。
「そうして、庭の桜の下で、花見をしましょう。ウメと、この桜華と、兄上さまの三人で」
ご無事でいる事を信じていますとそう告げて、雪之を送り出し、これから自分の世話をしてくれるだろうと思われる乳母のウメと、門の所で見送った。火打ち石を打ち、厄を払う。時々、振り返って見送る桜華とウメに手を振った。角を曲がって姿が見えなくなった時、初めて涙が零れる。
「……桜華お嬢様……」
労るように肩を抱くウメの肩口に顔を埋めて桜華は震える。
「……兄上さまが、霞んで見えたの。わたくしは、兄上さまを失うのかしら」
予感があった。それを打ち消す様に、ウメは桜華をギュッと抱く。
「大丈夫ですとも。若さまは、お嬢様を残してどうにかなるお人じゃありませんっ」
そして軽く背を叩く。それは幼い子供を宥める仕種にも似ていた。
「ええ、そうですとも。雪之さまは、それはそれはお優しいお方ですから、きっと役目を果して桜華さまの所へ、飛んで帰って来るに違い有りません」
桜華はくすりと笑った。ウメの腕を軽く拳で叩くと一つ頷いてみせる。
「そうして、今度こそ桜華は兄上さまのために、お嫁さんを見つけて差し上げるのだわ」
それを夢見ようと、桜華は思った。……そう思って、庭の桜の若木を見る。
その桜は、桜華が生まれた時に植えられた木だった。樹齢十四年の木である。
その木に桜華は祈る。
(……どうか兄上さまをお守りください)
祈る事が、これから先の桜華の日課となる。
幾度四季が巡ろうとも、どんなに悪天候の日も、とめるウメを振り切って、兄の息災を願い、若い桜の木に祈りつづけた。
──────────生涯。
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