第5話 雨は世界を
駆けよってきた豆だいふくは、私がしゃがんで左手を出すとちょこちょこと乗ってきた。手のひらに顔をすりつけて匂いをかぐ。久しぶりに会う私をたしかめているようだった。
「これが、ハコベの『豆だいふく』?」
「そう。私が入院してる間に死んじゃって、お別れが言えなかったんだ」
「――そっか」
私の声に頭を上げた豆だいふくを、そうっとなでる。うれしそうに目を細めるハムスターの背中をくりかえしなぞってやると、手のひらの上でテロンと手足を広げてしまった。
「敷物かよ」
「へへー、かわいいでしょ」
私の手ですっかりくつろいでいるハムスターに、レイくんも目を細めて笑った。
ハムスターの寿命は短い。豆だいふくは四歳近かった。もういつでも、というご長寿だ。それがすこしやせて動きが遅くなり、調子が悪そうだなと思っていたタイミングで私があんなことになった。
「……ごめんね。私がいきなりいなくなって寂しかった? お世話できなくてごめん。最後に一緒にいてあげられなくてごめん」
なでながら話しかける――私も本当はずっと、こう言いたかったよ。伝えたかったよ。
退院して家に帰る時になってやっと、豆だいふくが死んだと聞いた。それでなくても辛いはずの私には教えられなかったと謝られて、納得するしかなかった。
でも豆だいふくにはそんなことわからないよね。なでてくれない私を、手に乗せてくれない私を待っていたんだね。
豆だいふくは安心したようにスリ、と私の手にほおずりした。
「『豆だいふく』」
大好きだよ、という気持ちをこめて、私はゆっくり名前を呼んだ。そしてそっと両手に包む。
私の手の中から柔らかな光がもれた。
手をひらくと、豆だいふくは光に包まれていた。そしてその小さな体も光になっていく。
豆だいふくだった光は、大小の粒々の姿でふわりと舞い上がった。光の粒がくるくる、キラキラしながら空にのぼる。
その輝きが弱まるにつれて、あたりの景色もどんどん色を失っていった。
「『豆だいふく』――」
見上げる私を残して、豆だいふくの光は消えていった。
今までふんわりしたハムスターがおさまっていた、そのままの形の手のひらを私は見つめた。
「……消えちゃった、よ」
「想い残りがなくなったんだ」
となりにいたレイくんが静かに言う。
そうなんだ。よかった。
でも。
「もう会えないの?」
灰色に染まっていくケージの箱庭。ハムスターの見た夢の名残り。
キノコの家も、回し車も、すこしずつ形をなくしていく。それを見ながら私の言葉はのどに詰まった。
「どう、して」
「いのち、てそういうものだろ」
さとすように言われて、私はレイくんに目をやった。
「なんでそんなこと言うの」
レイくんは肩をすくめた。せめられたように思ったのだろうか。
そうじゃないよ、不安になったの。
「――だってレイくんは? レイくんも、本当の名前を呼んだら消えちゃうの?」
怒ったように私が言うと、レイくんはびっくり顔になった。
レイくんのことは思い出せていない。でも、もしそれでレイくんがいなくなってしまうなら、思い出したくなんてない。
かたく口を結ぶ私に、レイくんはニヤリと笑った。
「そんなに俺のこと好きなんだ」
「はあっ?」
いきなり的外れなことを言われて、私の顔は真っ赤になった。あわてて大声で抗議する。
「そういう意味じゃないって! ただ、知っている人がいなくなるのが嫌ってだけだからね?」
「はいはいはい。だいじょうぶ、名前がわかったって消えやしないからさ」
「あーもー、なんかムカつく!」
怒る私をニヤニヤ見ていたレイくんだけど、ふと真顔になった。
「だけど今は、お別れだな。もう雨がやむ」
「――雨?」
雨がやむとなんだというんだろう。
レイくんはまっすぐに私を見た。なんでも知っているような、不思議な目だ。
「雨は、世界をめぐる水だ。いのちなんだ。ここは、いのちのはざま。揺らぐ
「――どういう意味? むずかしいよ」
「だよな。俺だって、来て初めてわかった」
へへ、と笑うレイくんはこれまでのレイくんと変わらなくて、私は安心する。
「まあとにかく、またな、てこと。またこんど、雨の日に」
「雨の日なら、会えるのね」
うなずくレイくんが私に手を伸ばす。ここに来た時の、あれか。私は合わせるように手を出した。
指がふれる瞬間、レイくんはさびしそうに告げた。
「ハコベが忘れちゃっても、会いにいく」
「え」
忘れるって何をと思った時にはもう、重ねた手から波もんが広がり私をのみこんでいた。
――私は家の前に立っていた。
今、何をしてたんだっけ。
自分の行動が一瞬わからなくなったけど、別になんてことはない。学校を早退して帰ってきたところだ。カバンは持っているし、傘は――あれ、なんで落っことしてるんだろ。
今までサアと降っていたはずの雨が、いつの間にかやんでいた。ひらいたまま転がっている傘を拾い、私は左手で雨模様をみる。
上に向けた、手のひら。
ふと手の中があたたかくなったような気がして、私は左手を見つめた。
豆だいふく。
飼っていたハムスターのことをいきなり思い出した。私がいない間に死んでしまった大事な子。ちゃんと見送ってやれなかったことをこっそり泣いた。
でもなんだか、もういいんだと思える。
私は左手と雨上がりの空を見くらべた。
うん。私の手のひらの上が大好きだった豆だいふくは、もういない。いないけど、たぶん今も幸せだ。
今日の雨といっしょに空にのぼって、雲の回し車で駆けているのか――それともただ、光になったのかもしれない。
なぜか今は、そう信じられた。
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