後篇

 さあさあ。しとしと。ぽたぽた。


 雨粒が様々に形を変えて踊るようにテンポを刻みリズムを生んでいる。その旋律はとても心地が良い。


 駅前にある大きな公園の東屋。そこに設置された机上で風花は勉強していた。

 そして、人一人分が空いた隣には、本を読む真理愛がいる。

 別に待ち合わせたわけではない。お互いの行動が重なって出会えば一緒に過ごす。


 彼女の許容を得てから一週間、これが今の二人の距離感だった。

 やっていることは知り合う以前と変わりないが、変わったこともあって。


「そう言えば、真理愛って携帯持ってる?」

「……持ってない」


 勉強の手を止めてふと口にした問いに、真理愛は本から視線を動かさずに答える。


「そうなんだ。あった方が便利じゃない? いつでも連絡取れたり」

「いらない。連絡取る相手なんていないし」

「私がいるよ!」

「ウザそうだから嫌」

「酷いっ!」


 不満の声を真理愛は意にも介さない。

 そこで一度会話は途切れたが、少しして今度は彼女の方から口を開いた。


「あんた、名字は?」

「言ってなかったっけ。つじ、だよ。でも、名前で呼んでくれると嬉しいな~」

「どっちでも呼ばないけど。あんたで十分」

「冷たい……」


 主に毒を吐かれて終わるが、嫌な気はしなかった。

 交互に質問を投げ掛け、少し話す。別にそういうルールを決めたわけではないけど、自然とそうなっていた。


 なので、次はこちらが質問を投げる。


「真理愛って本読んでる以外は何してるの?」

「何も」

「えっ、テレビとかネットとか見ないの?」

「見ない」


 道理で某アンパンのキャラとか知らないわけだ、と納得する。真理愛にとっての情報源は小難しい本だけなのかもしれない。


「そんなに本読むのって面白い?」

「別に。ただの暇潰し」

「それにしては重くない? 暇潰しならもっと気楽に楽しめるものでも良いんじゃない」

「……昔、知りたいことがあるなら本を読めって教えてもらったから」

「じゃあ何か知りたいことがあるんだ」

「…………」


 最後の疑問には答えてくれなかった。まあ、話したくないならそれで構わない。少し踏み込み過ぎたくらいだ。


 しばらく勉強に気を向けていると、読書がひと段落したらしい真理愛から新しい問いが来た。


「あんたは良くそんなに勉強する気が起きるわ。学校の勉強なんて面白くも何ともないのに」

「行きたい高校があってね。ちょっと遠くにある有名な私立なんだけど、家にお金出してもらうのは難しいから特待生で入ろうと思ってるんだ」

「ご立派なこと」

「そうでもないよ。真理愛はどこ行きたいとかあったり?」

「考えてない」

「そっか」


 他愛もない会話。すぐに沈黙する。お互いに勉強や本に集中することもある。でも、それが苦ではない。

 まるで二人しか存在しないように隔絶された空間で、穏やかな時が過ぎていく。


 こんな瞬間がずっと続けば良いのに。


 ふと湧き出た願いは蕭々しょうしょうと降る雨の中に吸い込まれて行った。






 放課後、図書室に向かおうと廊下に出たところ、待ち構えていた様子の三組の友人が声を掛けてきた。何か用があるようなので、端に移って会話する。


「どうかした?」


 用件を訊くと、なぜか言い淀んでいた。脳裏に疑問符が浮かぶ。

 やがて、彼女は意を決した表情で口を開く。その内容は、真理愛と仲が良いのか、というものだった。


 そういうことか、とすぐに事情を察した。どう答えるか、一瞬考える。

 もし真理愛に迷惑がられるなら誤魔化しても良い。ただ多分、気にしないだろう。


「うん、最近仲良くなったんだ」


 そう返すと、友人は深刻な顔になって言った。あいつと仲良くするのはやめた方が良い、酷い目に遭わされるかも、と。本気で心配するような口調だった。

 こちらとしては理由を訊かないわけにはいかない。


「どうして?」


 彼女は同じ小学校だったらしい。曰く、真理愛の母親は風俗嬢で父親もいないから常識がない、いつも同じ服で臭かったし給食も残してばっかで迷惑かけて皆に嫌われていた、とのことだ。

 彼女の話は何となく予想していた通りだった。流石に具体的なことは知らなかったが。話の濁し方から察するに虐めもあったんだろうな、と思う。


「今は全然普通だよ」


 その言葉に彼女は何やら血相変えた様子で、クラスメイトにカッターを振り回したこともある、と言った。

 三組に薄っすらと漂っていた真理愛に対する怯えの理由を知る。

 きっと彼女や他の同じ小学校の生徒がこうして言い触らしているのだろう。それも、当人達は善意でやっているに違いない。


 集団はいつだって異物を排斥する。敵を設定することで団結する機能を備えている。

 異物側に取れる手は二つ。孤高になるか、擬態するか。ただそれだけ。

 どちらでも在れない者は、滅ぼされるしかない。


「分かった、気を付けるよ。心配してくれてありがとうね」


 相手の気分が良くなるような返事をして済ませた。


 その後、図書室で真理愛と二人きりになると早速確認した。知らない振りをするのは嫌だったから。


「──と、そんな話を聞いたんだけど、本当?」

「事実」


 真理愛は迷いなく認めた。隠すようなことでもないらしい。


「そうなんだ」


 風花としては特に言うこともなかったが、なぜか真理愛の方から言い連ねてくる。


「あんたもそのうち私に刺されるかもよ」

「刺したの?」

「……いや、いつも突っかかってきてむかついたから脅しただけ。みっともなくビビってて良い気味だった」

「じゃあ大丈夫。私はそんなことしないから」


 こちらが怯える様子を見せなかったからか、彼女は鼻白んでいた。


「父親を知らない人間の名前が真理愛マリアってのも皮肉なもんよ。あの女が何を思ってそんな名前を付けたのか知らないけど。馬鹿馬鹿しい。この世に救いの神なんていやしない。あるのは法則だけ」


 真理愛は誰に言うでもなく悪態を吐いた。その様は自分の境遇を気に病んではいないように見えた。少なくとも、表面的には。






 教室棟の反対にある特別棟、その屋上へと続く踊り場。

 そこで風花は階段に腰かけて人を待っていた。膝の上には閉じたままの弁当箱。まだ昼休みになったばかりだ。


 少しして、人気がなく静かな空間に小さな足音が響いた。その主は風花の前に姿を現す。


「真理愛、来てくれたんだね」

「……別に、たまたま通りがかっただけ」


 真理愛はそう言ってそっぽ向いた。コンビニの袋に入ったサンドウィッチと文庫本を手にしている。そんなことはあり得ないが、突っ込まないでおく。


 普段の風花は昼休みは大体教室にいる。クラスの友人と一緒に昼食を食べて、その後は雑談していることが多い。対して真理愛は昼食を教室で食べて、その後は図書室にいるようだった。


 けれど昨日、風花は一方的にこんな提案をした。


『明日はお昼一緒に食べようよ。特別棟の屋上前なら誰も来ないと思うから、昼休みにそこで待ってるね!』


 その言葉に真理愛は何も答えなかったが、こうして来てくれた。これ程に嬉しいことはない。もう少し距離を詰めたいと思って、彼女は応えてくれたのだから。


 風花は弁当箱の蓋を開けて膝の上に並べた。半分には白米、もう半分には彩り豊かなおかずが詰まっている。とは言え、既に中身は知っているので驚きはない。

 隣に座った真理愛はサンドウィッチの袋を開けると、カツサンドと卵サンドからそれぞれレタスとキュウリを取り去っていた。どちらも嫌いらしい。


「そのレタスとキュウリ、いらないなら貰って良い?」

「好きにしたら」


 許可を得たので箸で摘まんで蓋の上に載せる。それから弁当箱を彼女の方に差し出した。


「代わりに私のお弁当のおかずをどうぞ。今日の唐揚げは良い出来だからおすすめ」

「……自分で作ったってこと?」

「うん、全部じゃないけどね。いつもお手伝いしてるんだ」


 真理愛は唐揚げを指で摘まんで口に入れた。噛み締めた瞬間、頬が少し綻んだのを見逃さない。ウェットティッシュで指を拭うだけで何も言わなかったが、その反応で満足だ。


 昼食は和やかに進んだ。一足先に食べ終えた真理愛の顔を見て気づく。


「あ、口に付いてるよ」


 ソースが付着していて、自分では取りにくそうだったので、思わず手を伸ばした。


 パチン、と乾いた音がする。穏やかな空気が一転、突き刺さるような静寂で満たされた。

 伸ばした手がジンジンと痛むのを感じて、ようやく思考が追い付いた。どうやら手を弾かれたらしい。


 真理愛は怯えた表情で振り払った自分の手を見ていた。彼女は身を震わしており、自分でも何をしたか分かっていないという様子だった。


「ご、ごめん! 急に触られそうになるとびっくりするよね……」


 慌てて謝りながら、迂闊なことをしたと思う。

 真理愛と出会ったあの夜、警官が手を伸ばそうとした際、妙に怯えた様子を見せていたのを思い出す。あれは単に自分より大柄な男性に恐怖したものだと考えていた。


 でも、この反応は明らかにそういったものとは違う。

 真理愛はしばらく黙り込んだままだったが、ポツリと呟いた。


「駄目、なの。人に触られるのが」


 俯いたまま、訥々とつとつと語り始める。

 無理に話す必要はなかったが、彼女も誰かに聞いて欲しいように見えた。


「母親は昔から良く家に男を連れ込んでいた。誰一人として恋人ではなくて、身体だけの関係のようだった。小さい頃の私はそういう時は自分の部屋にいるようにしていた。邪魔にならないように」


 幼少期の真理愛の健気な姿が伝わってくる。それを省みずに肉欲に溺れている母親のことも。


「小五の時、母親がいつものように男と一緒に帰ってきた。私はすぐに自分の部屋に逃げたけど、しばらくして、急に扉が開いて男が入ってきた。無理やりされそうになって、私は必死に抵抗した。最終的には自力で逃げた」


 淡々とおぞましい光景を口にする。

 その短い言葉で表した中にどれだけの苦痛があったのだろうか。想像してもし足りないと思える。


「それ自体は多分、大したことじゃなかった。でも、その時の母親の言葉が忘れられない。目が合った私は助けてって言ったの。なのに、どうせそのうちやるんだから早い方がいいでしょ、だって。自分の娘が犯されそうになってるのに」


 唾棄するように言う。母親への怒りを露わとしていた。


「私は多分、その瞬間まで母親のことを心のどこかで信じてた。母親は母親なりに私を愛してくれているんだ、って。言えば金はくれるし、小さい頃は食事だって買ってきてくれて、私が育つ為の最低限の世話はしてくれたから」


 真理愛は微かにわらう。その対象はきっと、過去の彼女自身。


「別にその行いが動物としての本能でも何でも構わなかった。でも、この間読んだ『利己的な遺伝子』に書いてた。人間は遺伝子にも文化にも逆らえる存在なんだって。だから、母親が子を愛することは定められていない」


 自分が体験し、本でも学んだ、衝撃的な事実のように言う。

 でも、それは当たり前の話だと思った。だって、いくらでもその反例となる痛ましい事件が起きているから。彼女が触れて来なかった剥き出しの世界では。


「私は誰かに愛されて、求められて、生まれてきたわけじゃない。なら、私は何で生きているの。誰からも望まれていない人間に生きている意味なんてあるの。本をいくら読んでも分からないまま」


 以前、真理愛が口にしなかった本を読み続ける理由。それは、愛や生きる意味といった縹渺ひょうびょうたる問いへの答えを欲してなのかもしれない。


 彼女は縋るような表情で問いかけてくる。


「……風花、教えてよ。私に生きている意味はあるの?」


 初めて名前を呼んでくれた。それは真理愛が一対一の特別な関係として認めてくれた証に思えた。


 あるよ、と答えるのは簡単だ。しかし、それで良いのだろうか。

 彼女がそう言って欲しいのは分かる。けれど、求められたままに返す言葉なんて、薄っぺらいだけだ。自分が常日頃から周囲の人間に振り撒いていて、ただ表層を気持ち良くするだけのものだ。決して深い部分、心には届かない。

 それは、人の顔色ばかり窺ってきた風花が、誰より実感していた。


「…………」


 黙り込んでしまう。真理愛には信実で在りたいと思うと、そうするしかなかった。

 彼女のひとみに失望の色が宿り、無言で去って行った。


 取り残された風花が自分の軽率さを悔やんでいると、やがて昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。






 風花は放課後になっても普段のように図書室に行けずにいた。真理愛と顔を合わせ辛い。


 行き場なく教室に残っていたところ、友人達に声を掛けられた。テスト前で部活がないので、駅前でも行ってちょっと駄弁っていこう、という誘いだった。

 やることもなかったので了承した。久しぶりに日が暮れる前に学校を出ると、歓談しながら駅へと続く道を歩いていき、ファミレスに入ることに決まった。

 そこでテスト、流行、恋愛といった話をしてのんべんだらりと過ごす。


 風花は彼女達に阿諛追従あゆついしょうするように振舞った。いつものことだ。

 学校でも、家でも、目の前の相手が求める役割を演じている。

 その人が楽しい気分でいられるように。気分を害することがないように。

 そうやってずっと生きてきた。このからだと風花という名前以外の全てが変わってしまった、あの日から。


 真理愛と出会う前の息が詰まるような毎日。誰とも分かち合えない苦しみがあった。どこにいても自分が異物にしか感じられなかった。


 けれど、真理愛だけは、彼女だけは、このどうしようもない孤独を分かり合えるかもしれない。

 だって、初めてだったから。あんなにも救われた気持ちになれたのは。


 運命。あの夜の出会いは紛れもなく風花の人生を変えた瞬間だった。

 まだ何も伝えられていない。真理愛に対しても仮面を被ったままだった。

 でも、彼女にだけは信実で在りたい。ありのままの気持ちを届けたい。


 だから、行かないと。


 もう間もなく日が暮れる時間帯、そこで風花は急にソファから立ち上がった。


「ごめん、忘れ物思い出した!」


 驚く友人達をそっちのけに飛び出した。後でフォローはするが、今は優先したいことがある。


 先程まで歩いてきた道を逆行して学校へと向かう。

 はしる。必死に、懸命に。自分だけの星へと手を伸ばすように。


 ようやく学校に辿り着いた時、彼女は校門からちょうど出てきたところだった。


「っ……」


 真理愛は慌てて方向転換したが、すぐさま回り込んだ。


「キミに聞いて欲しい話があるんだ。私と一緒に来てくれないかな」

「……いいけど」


 渋々といった様子で了承してくれた。

 真理愛の家の方角へと歩いていく。彼女は訝しそうにしながらも付いて来てくれた。


 やがて到着したのは、あの夜に真理愛と出会った路地。


「私はね、この場所で真理愛に出会えて良かったって思う」


 そこからあの夜に駆け抜けた道のりを辿っていく。流石に茂みは通らなかったが。


 二人で休んだ公園のベンチまで行くと、座るように促した。

 お互いの姿が眩むような夕焼けの中で話し始める。


「真理愛はさ、私のことを優等生って言うけど、そんなんじゃないよ。考えてみてよ。本当に優等生なら、あんな深夜に出歩いてると思う?」

「……確かに」


 どうやら今まで何の疑問にも思っていなかったようだ。真理愛らしい。


「私が小三の時、お父さんとお母さんが死んじゃったんだ。交通事故で。その時のことは良く覚えてないんだけど、私だけが助かった」


 いきなりの告白だったからか、真理愛は息を呑んでいた。

 それは学校の人間は誰も知らないことだ。隠し通してきたから。


「今住んでいるのはお母さんの兄、叔父さん夫婦のお家。私の名字、元々は清瀬きよせって言うんだ。でも、引き取られた時に今の名字の辻に変わったの」


 両親が変わり、名字が変わり、家が変わり、学校が変わり。

 それはまるで、世界との繋がりが断ち切られたかのようだった。

 その時から私はただの風花になった。


「叔父さんは義務感から、叔母さんは嫌々、って感じだったよ。まあ、叔母さんは私と少しも血が繋がってないし、自分の息子がいるところに、急にそんな人間が来たんだから、仕方ないよね」


 真理愛が言っていたように、血の繋がりが絶対ではないのだと思う。

 しかし、それが大きな影響を与えるのも間違いないのだろう。だから、叔母は腹を痛めて生んだ息子が何より大事だし、叔父からしても風花の優先順位は低い。そんな意識から自然と生じていく壁がある。


「いつまで経っても異物感は拭えなかった。他人の家にずっといるみたいで気が休まらなかった。それでも、私は私なりに何とか上手くやってきたつもり。食事中なんかに積極的に話をしたり、家事を手伝ったりしてさ」


 叔父は学校生活を楽しげに話せば満足そうだった。

 叔母は自分が楽できることなら快く教えてくれた。

 三つ下の従弟は運動のコツなんかを教えれば慕ってくれた。

 他人の顔色を窺う能力の基礎はそんな暮らしの中で培われたものだった。


「勉強を頑張ってたのは家を離れたい一心だったんだ。私立で寮に入るなんてお金が掛かるからとても認めてもらえないけど、特待生でほとんど免除されるならきっと許してもらえるって思ったから。叔父夫婦からしても私がさっさと出ていってくれるにこしたことはないしね」


 それを正直に話しても認めてもらえないかもしれないので、騙し打ちのような形で伝える予定だった。特待生で通った結果さえ見せれば、何の文句もないはずだ。


「目標が出来ると、少し気が楽になった。それまでの辛抱だ、って。人間関係も勉強も運動も、全部頑張った。完璧な自分であることで、本当の自分を覆い隠していた」


 被り続けた仮面。それは知らず知らずに心身に大きな負担を掛けていたのだろう。


「でも、一月くらい前からかな、急に夜眠れなくなったんだ。布団に入っても目が冴えっぱなしで、心臓の音がうるさくて、嫌な考えが止まらなくて。居ても立ってもいられなくなって、外に飛び出した」


 まるで星空に呼ばれたようだった。特に理由もなく外に出た。

 それが気持ち良かった。爽快感で溢れていた。


「私、深夜の町の雰囲気って好きなんだ。そこでなら何だって出来る気がした。何にでもなれる気がした。そんな気持ちを持ったまま帰れば、ぐっすり眠ることが出来たんだ。だから、私は何度も何度も深夜に町を出歩いていた。危険なことは承知の上で」


 色々な可能性を想像した。けれど、眠れない。落ち着かない。救われない。

 だから、深夜の町を遊歩する。そうすると、嘘みたいにスッキリした気持ちで眠ることが出来る。


「もう、自分でも歯止めが効いてなかったんだ。このままじゃきっと何か問題が起きる。叔父さん達に迷惑を掛けることになる。取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。それでも、止められなかった」


 坂を転がり始めたボールのようだ。何かにぶつからなければ、決して止まってはくれない。


「そんな時だったんだよ、あの夜は。真理愛に出会ったのは」


 そう、彼女と出会った際は危機的な状態にあった。

 けれど、その相手が誰でも良かったわけではない。


「私、本当は真理愛のこと、ずっと前から知ってたし、気になってたんだよ。同じ学校で図書室の利用者ってだけじゃなくてね。だってさ、私と同じようなことしてるんだもん」


 学校の図書室、駅前の図書館、公園などなど。風花があまり家にいたくないからいた場所で、いつも目にする相手がいた。それは同じ学校の生徒で、同い年の少女で、興味を持たないわけがない。真理愛はまったく気づいていなかったようだが。


「きっと私と一緒でどこにも居場所がないんだって。仲間だと思った。独りぼっち仲間。でも、話しかける勇気は出なくて、あ、今日もいる、って安心するだけだった。そんなだから、あの夜の出会いはどこまでも劇的だったんだ、私にとって。きっとそれがなければ、私は今もキミと一緒にはいられていないと思うから」


 運命と感じた意味、今なら分かる気がする。あの出会いなくして、この関係性は多分ない。

 偶然に偶然が重なったような巡り合わせが起こした奇跡。その恩寵がもたらしたものは計り知れなかった。


「真理愛と出会ってから、世界が変わったようだった。気づけば、息苦しさはどこかへ行っちゃってた。夜も普通に眠れるようになった。キミは私を救ってくれたんだよ」


 長くなったが、ここまでは前置きだ。これからが本番となる。

 風花は一度深呼吸すると、一つの問いを投げた。


「手は握っても大丈夫?」


 あの夜に握って問題なかったとはいえ、念の為の確認だ。

 真理愛はこちらの意図を掴み損ねた様子ながらもおずおずと頷いた。


「……多分」


 初めは慎重に触れてみる。問題なさそうだ。顔や胴体といった部分が強く危険を感じて駄目なのかもしれない。あとは性別や親近感によって違う可能性もある。


 今度はしっかりと両手で包み込むように握った。相変わらず冷ややかで小さな手。

 少しでも想いを届けるにはこうするのが一番だと思った。多分、それは言葉だけではなくて、表情や身体の感触といった色々なものを通して伝わるものだから。


 ──さあ、私のありのままの気持ちを伝えよう。


「私は、真理愛に出会えて嬉しいよ。すごく、すごく、すっごく、嬉しい。生まれてきてくれてありがとう。私の救いになってくれてありがとう。だから、これからも一緒にいて欲しいんだ。キミが私の生きる意味になってよ。私がキミの生きる意味になるよ。お互いがお互いにとっての居場所になろう。それならきっと、この先も生きていこうって思えるから」


 心の奥底から湧き出てくる言葉を紡いだ。

 彼女の心に届くだろうか。届くと良いな。そんな風に祈る。


 真理愛は少しの間沈黙していたが、やがて一つの反応を見せた。


「っ……」


 突然、彼女の玻璃はりのような双眸そうぼうから大粒の涙が溢れ出した。

 それと同時、その表情は普段の張り詰めたものから幼いものへと転じた。


「うわああぁぁああぁぁんっ!」


 小さい子供のように泣きじゃくる。抑え込んでいた感情が決壊したかのようだった。

 抱き締めるわけにもいかないので、手を握ったままでいるくらいしか出来ない。


 泣き止むまでしばらく時間が掛かり、通りかかる人に奇異な目で見られたものの、気にはならなかった。むしろ、風花もその姿を見てじんわりと涙ぐんでいた。

 少し落ち着いた真理愛は片手を胸に当てながらしみじみと言う。


「……私、今みたいに言ってもらったの、初めて。いや、小学校の時に保健室の先生とかに言われたかもしれないけど、全部嘘っぱちに思えて何も感じなかった。だけど、風花の言葉は、想いは、何ていうか、心に響いた。ずっと空っぽだった場所が満たされたような気がして、それが嬉しくて、頭が真っ白になった」


 その言葉は風花にとって至福だった。本当の自分を覆い隠すように生きてきた為、素の自分を晒して通じ合える繋がりは、何より尊いものに思えた。


「風花の提案、まるで生存戦略だと思う。アリとアブラムシが行ってるような相利共生」

「何か嫌な例え……それなら連星の方が良いと思うな。知ってる?」

「知らない」


 真理愛は少しムッとした表情をする。学問的な話なので、読書家の彼女としては悔しいのかもしれない。


「ふふ、私は星のことはちょいと詳しいのさ。似たサイズの恒星がこう、お互いの重力の影響を受けて、周りをぐるぐる回ってることを言うんだ。例えば二つだとこんな感じに」


 落ちていた木の枝で地面に、同質量の恒星が共通の重心の周りを楕円軌道する図を描いた。


「別名はね、双子星。四六時中一緒というわけにはいかないけど、こうやって繰り返し巡り合ってその度に幸せな気持ちになれるなら、素敵だなって」

「なるほど……良い、かも」


 真理愛は自分の案が棄却されたことで不服そうではあったものの、こちらの案を良いと感じてくれた様子だった。


 自分達はこれから双子星のように生きていく。そう思うと、不思議な安心感があった。それはまるで、大好きな両親が生きていた頃のような感覚。


 風花はふと思ったことを口にする。


「前にさ、真理愛は神なんていないって言ったけど、今の私はそんなことないんじゃないかって思う。だって、あの夜の出会いがなかったらなんて考えたくもない。やっぱり運命としか表現できない。人はただの偶然だって言うと思う。でも、そんな偶然に宿るものこそが神なんじゃないかな」

「……私も本当のところは良く分からない。多分、本を書いてる凄い人達だってそうなんだ。だから、風花がそう感じたならそれで良いんだと思う。それに私も、風花と出会いのお陰で救われたから、同じように思いたい」


 そう言って、真理愛はわらった。

 慣れていないのが良く分かる不格好な、だけど、自然な感情が溢れた形で魅力的だった。






 いつの間にやら夜の帳は降りていて、黄金きん色に輝く下弦の月が姿を表していた。


 あの夜は三日月──満ちていくものだったけれど、今は欠けていくもの。

 完全に欠けてしまっても、再び満ちていくと頭では分かっている。それでも、終わりを想起してしまい、得も言えぬ寂寥感に襲われた。

 だから、自分のものにしてしまいたい。そんな欲求が表れたようにふと手を伸ばす。


「私、いつか月に行ってみたいな」

「……何かの比喩?」

「いんや、そのまんまの意味。ほら、十年後とか二十年後ならお金出せば簡単に行けるかもしれないじゃん」

「まあ、不可能ではないだろうけど」


 別に深い意味のある発言ではなかった。

 ただ、今この瞬間を名残惜しむように、もう少しだけ真理愛と話をしていたかった。


「私は月を見ていたら『月と六ペンス』を思い出す」

「何それ?」

「サマセット・モームって人が書いた小説。ゴーギャンは知ってる?」

「まあ、名前くらいは。画家、だよね?」

「そう。そのゴーギャンをモデルにした天才芸術家ストリックランドと、語り手であり駆け出し作家の“わたし”の話。そのタイトルはストリックランドと“わたし”、不可能と現実、狂気と日常、天才と凡人、なんてものを対比していると言われてる。答えがあるわけじゃないけど」


 真理愛は先程の風花と同じように月へと手を伸ばそうとする。


 しかし、それは途上でくしゃりと勢いを失くして、墜落した。

 その後、彼女は力ない様子で呟く。


「『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』」

「それは?」

「ゴーギャンが南の島タヒチで描いた作品の名前。私はそれを知った時、何一つ分からなくてぼんやりした不安に囚われた。自分がどこから来たのかも、何者なのかも、どこへ行くのかも。だからきっと、月を目指すことも、六ペンスを握り締めることすら、出来ない」


 その表情は迷子になった子供のようだった。寄る辺を持たずに世界を彷徨い続けてきたのだ。

 けれど、今の彼女はもう独りではないのだから、心配はいらない。


「そんなことないよ」


 首を軽く横に振ると、真理愛の片手を掴んで立ち上がった。

 握った手を月へと向けて、宣言した。


これは一人の人間にとってはThat's one small小さな一歩に過ぎないけどstep for man,私とキミにとっては偉大な跳躍だよone giant leap for you and me

「……アームストロング?」

「正解! 私達バージョンだけどね」


 今の自分達には踏み締める大地がある。暗闇の中でだって跳躍できる。

 それこそが双子星のような関係性だと思うから。


「大丈夫、一緒に行こうよ、月に」


 真理愛は綺麗な眸を不安そうに揺らす。

 けれど、繋いだ手を一瞥すると、その表情は決意を宿した。


「私を連れていって、この手を離さないで」

「もちろん、そのつもりだよ」


 この伸ばした手はどこまで届くだろう。それはまだ分からない。

 だけど、独りでなく二人ならきっと──無限の可能性が広がっている。

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双子の星は愛で結ばれて 吉野玄冬 @TALISKER7

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