後編



「失礼。よかった、またいらっしゃって」

「カスミさん?」

「お邪魔しても良いですか」

「どうぞ」


 翌日の生徒会室で、昨日の続きの計算をしている深冬のもとに再びやってきたのは、学校事務員のカスミだ。


「今度は、なんでしょうか」


 深冬には思い当たる節がもうなかったので、その訪問に違和感を持っていた。


「昨日、具合が悪そうでしたので、気になりまして」

「へ」


 机に座って作業をしている深冬の側に、ゆっくりと歩いて近づいてくるカスミは、どこか――おかしい。


「眠れない? 頭が痛い? ……息が、できない?」


 黒目がちな目を細めて、静かな声で、だが有無を言わさず聞いてくる。


 深冬はたちまち恐怖を感じた。――その目が、深冬でない何かを見ている気がしたからだ。


「な、なん、ですか、いっ……!」


 突如として絞まる首。


「が、う……! ! ……っけ」

 

 深冬は、途端にパニックに陥った。


「チッ」

 

 舌打ちをしたカスミは、まっすぐに左腕を前に出すと手のひらを上に向ける。


蓮華れんげ!」


 すると驚いたことに、ぬろろろろ、と手のひらから生えるのは――白く煌めく刃を持つ日本刀だ。


「!? ! っ、っけ……!」

「落ち着いて。あなたは、あやかしに憑かれてる。今から助ける」

「!?!!?」


 言われて、はいそうですかと言えるわけがない。

 イヤイヤと頭を振る。涙があふれて、鼻水もあふれて、顔がぐじゃぐじゃになる。首がグイグイと絞められていく。息ができない。熱い。耳の奥がドクドク言う。こめかみから、血流が溢れて弾けそうだ。

 

 深冬は椅子から雪崩なだれ落ち、机に体ごとぶつかり――ガタタン! と大きな音を立てた。


 日本刀の柄を左手に持ち直したカスミは、まだ構えずに、あの静かな低い声で語りかける。深冬ではなく、その奥の窓際へ向かって。


「離してやれ。今離せば、斬らない」



 ――何を言っているの!?



「お前はただの妖だ。いくら望んでも、その子は連れていけない。本当は分かっているのだろう?」

 


 ――あやか……し? あやかしって、なに? あ、くる、しい……も、だめ……



「みふゆ!」

「ひ……」


 陽葵ひまりだ。陽葵の声がする。

 なぜここに? いつの間に?


 深冬が懸命に目を開けると、確かにカスミの背後に必死の形相の陽葵がいた。叫んでいる。


「に……げ……」

「ゆるさない……あたしの大事な深冬を連れてくなんて……悲しいのは分かるよ。辛いよ。でも、違うでしょう?」


 カスミが、

「よせ! 近づくな!」

 と言うと、陽葵は笑ってかぶりを振る。


「みふゆ。大好き。みふゆもでしょ?」

「ひま……」

 

 ああ。笑顔が、可愛い。


「ひま……り、だいす……き」

「あたしもよ、みふゆ。ずっとずっと、好きだった」


 柔らかそうな頬。くるくると動く瞳。愛しくて、可愛くて、触れたくて。


「大丈夫。おかしくないよ。だってあたしもおんなじだもん。ね」

「……!」

 

 深冬の全身から、力が抜ける。絞まっていた首が弱まって、少し息ができ――激しく咳込んだ。


「寂しかったの? そう。あたしが一緒に行こうか?」

 優しい声で妖に語りかける陽葵を、

「それはダメだ」

 とカスミが止める。

 

「もう手遅れだ。人に危害が及んだ時点で、こいつは戻れない場所にいる」

「そう……」


 カスミが、ちゃきっとつばを鳴らして日本刀を構えた。


「だがありがとう。おかげで奴は満足できたようだ――覚悟はいいか?」



 ――ごめんね……



 深冬の耳に、そんな声が聞こえた気がした。


「――滅」


 カスミが、日本刀を横一閃に振るうと。


「バイバイ……」


 陽葵の切なそうな声がして、深冬は気を失った。




 ◇ ◇ ◇



 

「あ、起きましたか」

 

 目が覚めた深冬は、どこかに寝ていたようだ。

 白い天井が見える。この独特な模様と、視界に見えるカーテンレールには見覚えがあった。


「あ……保健室?」

「はい」


 首を巡らせると、ベッドの脇にカスミが座っている。

 

「カスミ……さん……」

「熱中症で倒れたので、運んだんです」

「え?」

「あいにく今日は保健の先生が来ていなかったので、私が代理で」

「あ……りがと……ざいます」

「いいえ」

 

 ごくり、と深冬は唾を飲み下した。

 あれは、夢だったのだろうか? 陽葵に、好きと言われて、同じだと言われて――


 がばり!


「あ、急に起きたら危ないですよ」

「カスミさん、陽葵! 陽葵は!」


 きょろきょろと周りを見たが、いない。

 

「……」

「あ、帰った……の?」


 なぜか、カスミはとても辛そうな顔をした。

 

「車で来ています。家までお送りしましょう」


 なぜか、カスミは質問に答えなかった。


「……はい」

 

 深冬は、寒気がした。

 ずっと目をそらしていたことに、向き合わなければならない時がやってきた――それを悟ったからだ。



 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

「小さな車ですみません。知人に借りているものですから」


 職員の駐車場でそう謝罪したカスミに、深冬は首を振った。


「いえ。送っていただけるだけで助かります」


 国産の軽自動車は確かにとてもコンパクトだが、後ろがスライドドアになっていて、後部座席にはたくさんの段ボールが積んである。


「その……古書のカフェの店主から借りているので、荷物も多くて」

 ハンドルを握るカスミが、珍しくもそもそと話しているのが、深冬にはおかしく映った。

「こしょ?」

「古書。簡単に言うと、古い本です」

「なるほど。古書」


 深冬の脳みそに、ようやく正しい漢字が浮かんだことを悟ったカスミは、車に乗るや否や冷房を最大にした。


「はあ。本当に暑いですね」

 

 送風口からはもわりとした熱い風が出てきて、走り出してだいぶ経ってからようやく冷蔵庫の中のような風が出てきた。

 

「はい」


 しばらく無言で車を走らせる。

 深冬は、カスミに家の場所を告げていないが、カスミが確信を持ってどこかへ向かっているため、何も言わなかった。

 

 やがて車は、住宅地に入っていく。

 深冬の見慣れた風景ではなく、何度か見ただけの。


 カッチ、カッチ。カッチ、カッチ。

 

 ハザードランプを点けて、とある家の前で停車した。その表札を見て――

 

「ああ」


 思わず、声が漏れた。


「行きましょう」

「――はい」


 チャイムを押すカスミ。

 家から出てきた女性が、深冬を見ると涙ぐんだ後笑顔になって、招いてくれた。

 

 リビングは、エアコンが効いていて涼しい。

 

 柔らかそうな頬。くるくると動く瞳。愛しくて、可愛くて、触れたい。

 そんな愛する人が――写真の中で、笑っていた。




 ◇ ◇ ◇


 


 夏休みに入る前、自転車に乗っていた十七歳の女子高生が、とある交差点を左折するトラックに巻き込まれた。

 居眠り運転。十七歳の女子高生、意識不明の重体で運ばれる。


 ネットニュースはそんな二、三行で終わりだ。


 でも陽葵は。わたしの最愛の陽葵は。



 

 ◇ ◇ ◇



 

「カスミさん、ありがとうございました」

「いえ、お気になさらず。別れの儀式が、重要なものですから。これも私の仕事です」

「陽葵が、言ってました。大好きだから、ずっと待っているって。だから、たくさんの人を愛してから来てね、って」

「はい。言っていましたね。素敵な方です」

「初恋でした」

「そうでしたか」

「カスミさん」

「はい」

「あれがなんだったのか、知りたいのですが」

「……」

「他言はしません」


 カスミは、大きく息を吐いてから、一息で言った。


「同性に恋をし、苦しい思いを抱えたまま受験して失敗――恋にも破れ、世をはかなんで自ら命を絶った。そんな未練が、様々な悪い感情を吸い寄せて、妖になるのです」

「儚いですね。一行で終わってしまった」

「言い得て妙です」


 車に乗り込む寸前、じりじりと焼け付く太陽に手をかざし、深冬はつぶやいた。

 

「蝉みたい」

 


 耳鳴りがするほど、鳴いていた。

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