泡沫(うたかた)の蝉
卯崎瑛珠@初書籍発売中
前編
◇ ◇ ◇
夏休みの生徒会室。
申し訳程度のエアコン(集中管理という名の、勝手に温度変更できない鬼設定)が、かすかにカラカラと音を立てている。
家から持参したハンディファンの方がよほど良い仕事をしている、と
来年大学受験を控えている高校三年生の彼女は、生徒会書記として二学期の部費申請の集計を行っていた。
夏休みを終えたら役目を後任へ譲るのが、この学校の慣例だからだ。
家には母親がいるので、少し居心地が悪い。
仲が悪いわけでもないのだが――小さな家は、動くたびに何かとお互いが視界に入って――普段家にいない時間にいる、というのはなぜだか申し訳ない気持ちになるのだ。
真っ白な半そでブラウスにつけた水色のリボンが少し窮屈になり、深冬は襟裏のボタン止めを片方だけ外し、第一ボタンも外す。
額に浮いた汗をそっとハンカチで拭う。息苦しいが、窓を開けたら熱波が入ってくるので我慢だ。
――いまどき、メイクもしないし、髪も染めないって珍しいね?
とよく言われるが、肌が弱いのでなるべく何も付けたくないし、同様に地肌も弱いのでカラー剤でかぶれるだけだ。
カラコンも……可愛いのか、あれは? と違和感しか持てないのは、かなりの少数派らしい。
息苦しい。頭痛がする。
持ってきたボトルの中の麦茶を、流し込む。
「はあ……夏バテ……? 熱中症気味なのかな……」
最近、よく眠れない。
父と母の小競り合いは、いつものことだ。
自分の成績が上がって、国公立よりも有名私立が視界に入ってきた頃から、両親が毎日喧嘩するようになった。
私立大学の授業料が高額なのは、世間知らずの女子高生だって分かっている。
家計への負担が大きいので、経済的にそれほど余裕のない深冬の家は、娘の進路でギスギスしているのだろう。それぐらいは、分かる。
「いいよもう……安いところで……」
思わずつぶやくと
「いっ!」
こめかみに激痛が走って思わず頭を抱え込んだ。
そこへ――
コンコン。
「!? は、い……」
と、ノック音がした。
夏休みの生徒会室を訪れる人間なんて、と激痛と混乱の最中にいた深冬に、低い女性の声が呼び掛ける。
「失礼。川島さん」
よかった、知っている声だ、と深冬は息を吐く。が、痛みが激しく、すぐに顔を上げられない。
「あの……カスミさん?」
「はい。生徒会費の件でちょっと良いですか?」
「はい、……どうぞ」
カスミは、学校事務員だ。名前のようだが、苗字らしい。
いつもぴっしりとした上下スーツに、黒くて細いフレーム眼鏡の、最近になって来た女性だ。
隙が無いいかにも「仕事ができる」感じで、深冬のようにあまりメイクもしていないし、髪も染めていない。さらさらストレートのロングヘアを、後頭部でしっかりと結んでいるので生徒たちに『キマジメさん』と呼ばれていた。
ただし隠し切れないものすごい巨乳が、ブラウスの前合わせをいつも歪めていて、男子たちが「エロい」「今日も見に行こう」などと用もないのに事務室に行くために、おばちゃん事務員からは無駄に敵視されていた。
ようやく顔を起こすと、カスミはこんなに暑い日であるにも関わらず、長そでブラウスにカーディガンを羽織り、下は細身のパンツ姿だった。
汗一つかいていない様子が、まるで雪女みたいだなと深冬は思った。
カスミは、手に持ったクリアファイルを机の上にそっと置きながら、静かに話し出す。
「いつも早めに数字を取りまとめてくださって、ありがとうございます」
「あ、いえ……」
「夏休みまで、熱心ですね……でも顔色が悪いです。大丈夫ですか?」
「あ、頭が少し……」
――なんだろう?
なんでわたしは、素直に話しているんだろう?
眼鏡越しにじっと見つめてくるカスミの目が、す、と細められた。
「水分不足かもしれません。脈を取っても?」
「ええ、はい」
「では失礼して」
深冬の脇で床に膝を突き、カスミは丁寧に深冬の手を持ち上げてから、そっと手首の裏側に指を四本添わせるようにした。
――つめたい
その手がひんやりと冷たくて、気持ち良い。
カスミの左手親指の付け根に、大きなホクロのようなものがあるのに気が付いた。青い、花? ――
「……まだ、大丈夫」
「え?」
「こほん。脈は、大丈夫そうです。今日は暑いですからね。無理はしないで」
「ありがとうございます」
「いえいえ。さて本題ですが、生徒会費の項目で一部不明なところがあったのです」
とカスミは言いながら立ち、机の上のクリアファイルに入ったプリントの、該当の箇所を指さす。
深冬は、
「あー、それは使途不明というか……予備というか……」
と正直に答える。
「なるほど。文化祭もありますし、多少の余裕は必要ですね、気づかなかったことにしておきます。では」
とカスミは言い、綺麗な姿勢ですたすたと去っていった。
「あ……頭痛、消えてる……」
なんとなく見送ったカスミの背中をぼうっと見ていたら、ぽろりと口からこぼれ出て。
戸口からひょこりと首だけで覗いている女子の存在が、全く頭に入っていなかった。
「んもー! みふゆー!」
「
「またきちゃったー!」
薄茶色の髪の毛は、地毛でふわふわ。くるくるとよく動く瞳に、ぷくぷくの頬っぺたはいつもチークみたいにバラ色で、「こどもっぽいから嫌!」と本人は言っているが、深冬からしたら可愛いでしかない。そんな友達の陽葵は、こうして生徒会でもないのに、深冬のところへよく来てくれる。
「いいけどさ……それ」
眉間にしわを寄せる深冬から見て、机の角を挟んで左斜め前に、陽葵はにこにこと腰かけた。
「まだ買ってないの?」
「へ?」
「リボン。今年からデザイン変わったでしょ。一学期は移行期間だけど、二学期はもう」
「はいはい。はあ~い」
「はあ……制服もジェンダーレス、ってねえ」
今年入学の学生から、女子生徒もスラックスを選べるようになった。
リボンでも、ネクタイでもいい。色も、濃い赤色だったのが水色に変わった。陽葵のはまだ赤いリボンだ。
「男子がスカート履いてもいいってならないのにね」
「あは、そだね!」
「で、何しに来たの?」
「暇だから、話に来たよ!」
「そう……サボってはいないのね?」
「サボってません!」
夏休みの間は、期末テストで赤点を取った生徒の補講がある。
陽葵はそれを受けに来ているそうだが、科目と科目の間が大きく開いている時間があるらしく、こうして毎日のように生徒会室に顔を出す。
「陽葵も来年受験でしょう? 空き時間も勉強したらいいのに」
ちろりと見るその手には、何も持っていない。手ぶらだ。
「えぇ!? ちゃんと来てるだけでも、えらいでしょ!?」
「それは、そうだけど……それにしても、暑いね」
「つめたーいシェイク飲みたくない?」
「甘いのって逆に暑くない? わたしはアイスティのがいいけどな」
「駅のマ〇ク、寄りたくなっちゃうよ」
深冬は、思わず目をぱちくりさせた。
「陽葵……そこ先月潰れたじゃん」
「え? そうだったっけ? あはは~暑くて頭おかしくなった~」
「んもう。リボンと言い……笑えないよ。ボケた?」
「深冬がいじめる!」
ぷう、と膨らませる頬が柔らかそうで、思わず深冬は手を伸ばして……ひっこめた。
だがそれを、陽葵は目ざとく見つける。
「あー! また触ろうとしたな! 気にしてるのに! ぷんぷん!」
ズキン、と鳴る胸を誤魔化すように、深冬は笑う。
「ごめごめ。っていうか口でぷんぷんて言う? だいぶ痛い」
「なにおぅ!」
――キーン、コーン、カーン、コーン。
「あ、やば。あたし行くね! また明日ね!」
「明日も来るんかい」
「あはは! じゃねー!」
可愛い陽葵は、明るくてよく笑う。色白で茶髪で、美人ではないけれど裏表がない素直な性格は、皮肉屋の自分からしたら正直羨ましいと思う。
密かに狙っている男子も結構いて――とまで考えてから、ぶんぶんと深冬は頭を振る。
ややこしい計算。汚い字の申請書。じりじりの太陽に、ミンミンと止むことのない蝉の声。
可愛い。触れたい。抱きしめたい。キスしたい。
いや、違う違う。これは違う。違う。違う!
――息苦しい。頭が痛い。きっと、今夜も眠れない。
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