誰のためも無く、鐘は鳴り

 社員食堂を離れ、大穴の断崖を瓦礫をよじ登って移動していく。遥か上方から垂れ伸びた植物を手で払い、壊れ崩れた美しさに圧巻されるように、メリアはゆっくりと息を吐いた。


「ワタシは……何も知らなかったのね。最初から頭にあった知識だけがワタシのすべてで、……だから、連れ出してくれた貴方にはとても感謝してるわ?」


 振り返り、ジンに柔らかな表情を向ける。


 ――そんな目で見られるようなことはしていないのに。


 ジンは引き攣りそうになる頬でなんとか笑顔を返した。無垢な破壊兵器を前に、自分自身の心が映し出されている気がして、言葉が詰まる。


「急にどうしたんだよ……」


「思ったことを素直に言えって言わなかったっけ? だから言葉にしてるの。こうやって対話になるのも凄く嬉しい。ずっと、ずっとここにいたはずなのに、真っ白な部屋か時間の終わらない牢獄だけだったから」


 何も言わないままテンルも立ち止まった。澄んだ声が空気と共に触れる。どこか冷たく、霧を帯びたような感触だった。静かに少女の声へ耳を傾けると、大穴を通して薄っすらと反響していく。


「食べ物も、こんな植物のことも全然知らなかった。さっきようやく気づいたの。ワタシが食べてたアレ……この植物からできてるみたい。同じ匂いがするもの」


 そう言って葉を千切りもさもさと食む。……少しして吐き出した。


「やっぱり、美味しくないわね」


「「……そうか」」


 テンルとジンは同時に同じ言葉を発した。静かに肯定して、躊躇うことのないように俯く。


 テンルは視線を前に戻した。ジンと目を合わせないように歩き出す。


 緩やかな足取り、他人に合わせ慣れた歩調。


 だが彼は一人だ。隣に歩く者などいない。だというのに、誰かがそこにいるように錯覚してしまいそうだった。


 ――メリアは、気付く訳もない。彼女は最初から一人だったから。


 ジンは沈黙したまま確信した。彼に着いていくことを止めるべきか? ……いや、彼女はすべてを知るべきだ。自由になり、幸せを知り、苦しみを知り。全部が苦痛に変わらなければならない。


 静かにナイフの柄を握り締めたままにした。力を込めると、とっくに乾いた返り血がぱらぱらと粉になって解けていく。


「着きましたよ。ここです。……運よく、教会の部分はほとんど壊れずに残っていたんですよ。オルトストーリア黄金教は私達のなかにはいなかったんですがね。……神の一つでも信じるべきだったんでしょうか」


 崩落した天井を乗り越え、砂塵と蔓を被った白い通路の先、研究施設にはあまりにも似つかわしくない巨大な扉を押し開けていく。


 真っ直ぐに部屋は伸びていた。霜を帯びていて、部屋は酷く冷えきっている。


 教会の長椅子は隅に追いやられ、無数のコードが床を巡り、駆動音を鳴らす発電機にすべてつながっていた。棺のように並ぶ無数の機械円筒。


 ジンには見覚えがあった。


 ――冷凍睡眠(クライオニクス)装置缶。動かなくなってしまった本物のヴィコラを、そのままに保つために使っていた機械だ。


 それが一台ではない。何台も、長椅子があった場所を占有し、静かにくぐもった音と冷気を漏らしていた。


 テンルは運んできた食べ物を一つ一つ、彼らの前に置いていく。供えるように、厳かに。


「…………これは」


 メリアが呟いた。飄々とした表情のまま、しかし瞳孔が細まり息は詰まる。


「全てあなたが殺したんですよ。メリア・イクリビタ。あなたが自由になるために、関係もなく、訳もわからず、死んだ仲間たちです。言ったじゃないですか。……上に行けないって」


 テンルはゆっくりと白衣を脱ぎ捨てた。壁にかけられた、プニャーレ四点事務所の黒い外套を羽織り、失意に押しつぶされるように、項垂れ、冷凍缶の前に膝をついた。


「全部、ワタシが殺したの? その食べ物が好きだった人達を。何も知らないままワタシが」


 声が僅かに震えていた。……理解していたはずだろう。無数の墓標が地の底にあった。……わかっていたはずだ。


 だが今まで誰も殺した者のことを話してはくれなかったのだろう。死んだ者のことを話してくれなかったのだろう。死体は喋らないのだから。


「そうですよ。……けど恨んでいるわけじゃないんです。皆、誰かを犠牲にしないと前に進めないんです。私の道は途絶えて見えなくなった。彼らを置いて自由になることもできません。大切な同胞は……いつも一緒にいました」


 彼らを優しく撫でながら、仕事用の手袋を身につける。


「だから私も貴女を犠牲にしましょう。貴女は自由になってはいけない。貴女が空の下を歩いてはいけないんです」


テンルは黒衣を身に纏い、眼鏡越し、乾いた眼差しが険しく視線を突き刺す。亡霊のように立ち上がり、指の隙間から無数の針が伸びた。


「……仲間達は穴から這い上がることもできないのに。貴女の存在が肯定されていい道理がないでしょう? 誰一人として貴女を祝福してはいけないんです。生物兵器の怪物。全てを破壊した貴女がどうして喜びを口にする権利があるのでしょうか。……メリア・イクリビタは存在してはいけない」


 テンルは真っ向からメリアの存在を否定した。ジンは沈黙したまま、庇うようにメリアの前に出る。


 ――隙だらけのはずだ。今すぐ有無を言わさず殺してしまえばそれで終わる。余計なことを、感傷を知ることもない。


 ……だというのに、テンルに自分の姿が重なる。


 吐き気を、歯を噛み締めて潰し隠した。そうしている間にもテンルは、プニャーレ事務所最後の一人として振る舞うように装備を目の前で整え終える。


「……貴方達は待ってくれると信じていましたよ。とてもお強いようですから」


「便利屋が、信じるなんてバカバカしいな」


 ジンは空間に亀裂を走らせ、ヴィコラの造った絡繰り槍と散弾銃を引き抜き構えた。内部冷却液が揺れ、小さな水音がぽちゃりと鳴り渡る。


「ジン・ジェスター、貴方が言えたことでしょうか。私達は似た者同士に思えますがね。それに、……もう便利屋ではありませんよ。事務所は一人で成立しません。ここにいるのは……ただのテンルです」


 突き刺すような殺意が底冷えた失意と脱力に紛れ全身を撫でる。


 メリアは顔を歪め、半ば本能的に【玲槍アムリタ】を構えた。銀の刃が呼応するように翡翠と紫紺の蛍光を帯び、重々しい鐘音を教会の代わりのように響かせる。


「嗚呼、無謀なことをしているな……。けどメリア・イクリビタ、お前の同行者を殺して、お前は今一度ラインフォード社に収容されればいい。ずっと、ずっと。死なずというなら永遠に。お前に自由はいらない」


 呪詛のように、テンルは呪いの言葉を吐き捨てて。


 ――瞬間、毒煙が視界を黒く塗り潰した。

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