記憶は描かれ、思い出は消えず

 狭く薄暗い通路を歩き始める。大穴によって通路の大半は機能不全に陥っていた。途切れた先まで向かうと、薄ぼやけた陽光が視界に差し込める。


 眩しくて僅かに視線を細めながら、円弧を描き白霧の奥まで伸びる断崖に沿って進んでいく。


 ジンは大穴から遥か上方を見上げ、怪訝そうに表情を曇らせた。


「……水の量も高さも違うじゃねえか。どうなってんだ? 壊れる前はエレベーターしか使わなかったし、こんな構造だと思わなかったんだが」


 流れ落ちる海水が作り出した滝は地の底よりも多量に白飛沫をあげていた。


 どれだけ上を見ようとも、地の底で見たときと違い晴天さえ見ることは叶わない。薄い霧、多湿。気化した水のヴェールが覆い隠している。


「広い空間を簡易的に移動するための特異点技術だそうです。とある地点から観測するとほんの200メートル程度のものが、違う場所から観測すると数十倍にも広くなるんですよ」


 テンルは淡々と説明しながら、ひしゃげた金属扉の隙間を潜り奥へ入っていく。


 数フロア分の吹き抜けに出た。研究者達の居住区画、その食堂のような場所だろうか。部分的に何層もの天井が折れ重なって潰れているせいで広く見えた。当然のことながら電灯は着いておらず、埃を被っていて薄暗い。


「ここは見覚えがあるな。研究者共に嫌な顔はされたが、設備の利用はできた。まぁ、……頼めるもんなんて限られてたが」


「奇遇ですね。わたしもあまりいい顔はされませんでしたよ。外から来た人達は全員、異界汚染やら放射能やらを受けたと本気で思われてましたから」


 外は碌でもない。ほとんどの海は黒く深く、地はこの場所以上に時間と空間が乱れ、僅かに残った都市には、企業へ縋るように無秩序なスラムが郡を成している。


 今となってはこの場所も、同じような臭いがするが。反響を伴う濁った空気を撫でながら、ジンは一人心地に嘆息した。


 ――望んでいた安泰はもう欠片さえ残っちゃいない。


「……よければ食料集めを手伝ってくれませんか? 仲間たちの分を探しに来たんです」


「生憎、俺は彼女の付き添いというか。まぁ流れで同行してる身なんでな。どうするお嬢さん」


「構わないわ? ワタシにも手伝わせて。数があるなら少し食べてみたいの。皆が食べてたもの。一番興味があるのは、あのポスターにあった食べ物かしら」


 ふんとご機嫌に鼻を鳴らして、食堂のカウンターを乗り超えていく。潰れていない棚や、電気の止まった冷凍庫を開け覗いていった。


 保存状態になっていない肉類はとっくに他の誰かが食い荒らしたのか、人間ではない散らし方をして蟲が集っている。


「案外、残ってるもんだな」


 運びきれない程度には食料が放棄されていた。冷凍、冷蔵の類は電気系統が壊滅しているためかダメになっていたが、缶詰の類や真空状態の完全食は充分にある。それだけこの区画の生存者がいないのか、逃げ切ったのか。


 どちらにせよあまり考えを巡らしたくはない。


「こんなのが食べられるわけ……? ああ、開けるのね? これ」


 缶詰さえ見たこともないらしい。収容室育ちの少女は怪訝そうに金属蓋を指で弾き叩いていた。


「缶詰も見たことないのか? 箱入り娘なのに」


 鼠に喰われた段ボールを漁りながらジンが茶化す。メリアは僅かに苦笑いをしながらジトリと湿度を帯びた眼差しで睨んだ。


「その皮肉……面白くないんだけど。缶詰なんて初めて見たわ? ワタシが食べてたのはこれね。……一番在庫が残ってる」


 四角く硬い緑の物体。原色のような真緑は食欲をまるで刺激しない。包装もされておらず、動物に食べられてすらいない。臭いもない。


 ……食べ物なのか? 本当に。疑問がよぎったが、メリアの視線を気にして、恐る恐る齧り噛み切る。咀嚼し、後悔の味が広がった。


「うわ、まじい……。なんか微妙に甘いのに青臭い。やる気のない味がする。こっちを食ってみろよ。もっと味がしっかりしてて旨いぞ」


「珈琲の二の舞いは勘弁してよ」


 不器用そうに微笑みながらメリアは小さく首を横に振った。そしてテンルの方へ振り返り、彼の様子を覗き込む。


「ええ……皆が好きだったものをいくつか」


 メリアは周囲を見渡し、テンルが手にしていた缶詰と同じものを見つけ、金属蓋を破り開けた。自分が今まで食べていたものとは明らかに違う匂い。刺激的で、感じたこともない胃のうねりが音となって響いた。


 思うがままに口にして、目を見開いたまま数秒、動けなくなった。


「っ……こんなものを、いままでずっと。…………こんなものが」


 慌てるようにがっついた。空腹なわけでもないのに。今まで感じたこともない感覚に舌が震えて、考えるよりも早く咀嚼していたものを飲み込む。


「旨かったのか?」


 ジンの質問に、言葉は出てこなかった。ただ力強く頷いて、どうしようもなく、呆然とする。


「…………きっと、これを食べれた生物兵器はこの施設でワタシだけね? じゃなきゃ、こんなに残ってるはずがないもの。……あのポスターの人たちが食べてたものもこれぐらい美味しいのかしら」


 鞄を持っていないことを悔やむように無数に視線が泳ぎ向かい、メリアは僅かにあったポケットに幾つかの缶詰を無理矢理押し込んでいく。


 ジンは笑うしかなかった。呆れてから、冷ややかな何かが湧き上がる。喉元まで自己嫌悪が這い上がった。吐き気がしてくるのを、自嘲混じりに誤魔化す。


「ファーストフードなんちゃかとか書いてあったやつか? 俺も食べたことないからわからん。何十年、百年単位かもわからん昔のことだ」


「………そろそろ行きましょうか。皆の分もおかげで集まりました。きっと、喜んでくれます」


 テンルは瞬きもせずにメリアのことを見つめていたが。強引に区切りをつけて缶詰を仕舞い込んだ。腰をあげて立ち上がり移動の準備を再び整える。


「本当に……わからなくなってしまいそうですよ。そんな表情ができるのに、本当に造られた生物兵器なんですか?」


 上擦った声でテンルは尋ねた。メリアはすぐに表情を戻して静かに頷く。


「……じゃなきゃ、どうしてワタシは沢山実験をして、同胞を殺して、その屍の上で生き続けたのか分からないもの」


 真摯な眼差しを向け返し、眼鏡越しの黒い視線に向かい合う。テンルの目は、ジン・ジェスターが向けてくれる目線によく似ていたから。


 メリアは顔を覗いたまま、緊張の糸をほぐすように小さく微笑んでみせた。


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