知るほどに苦痛は正直で


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 研究者達は随分人間らしい生活を送れていたらしい。外の連中がこぞって企業の庇護を得ようと便利屋家業に染まっていくのも理解できる。


 ――俺自身も、そんな在り来りな一人物だった。けれども、企業の内部施設を利用できるのはほんの一握りの奴等だったから。だから殺して、殺して、殺して。数えたくもないほど屍を背に辿り着いた場所だったというのに。


 便利屋なんて汚れ仕事を辞めて企業そのものになれるはずだったというのに。


 真っ暗な通路は未だ非常灯が機能し、緑の明かりが一定間隔にぼんやりと照らしていた。なんの曲かも分からない音楽がノイズを重ねながらも、歩くだけで再生されていく。


 ……企業に入ることが出来れば得られるはずだった安寧の残骸が、この区画に広がっていた。今はもう、人の気配さえないが。


 道の一部は途中で途切れ、大穴の絶壁にぶち当たり、陽光が差し込めていた。どこまで登れたのかと見下ろして見るが、視界に映る景色は歪んでいて、地の底の墓標も見えない。ただ、滝の音がざぁざぁと轟いていた。


「いい匂いがするわね? ここ」


 メリアはぴたりと足を止めた。途切れた十字路の手前、小さなレストルームにふらふらと引き寄せられていく。


「珈琲の匂いのことか? 多分、本物じゃないが香りはたしかにいいからな」


 埃の積もった椅子がちょうど2つ。転がり倒れていた。高めの位置に造られた白いカウンターテーブルに、置き去りにされた読めない本とコーヒーメーカー。マグカップはほとんど砕け割れていたが、まだ使えるものも残っていた。


 散らばったパックの粉飲料を一瞥しながら、ジンはため息をついて腰を下ろす。


「気になるなら淹れてやろうか? その不老不死とやらが治ったあとに飲める機会があるかは別だからな」


 機会はこれが最期だ。


 心の中でそうぼやいた。


 ――幸せは知れば知るほど、それを無くすときの喪失は大きくなる。自由に届けば届くほど、終わりは相応しいものになってくれるだろう。それこそが苦痛だ。苦痛は裏切らない。


 笑顔の奥底で反吐が出そうな本性が囁いていた。


 俺はそれを否定するつもりもなくて、だからこそこうして、隣にいるんだ。【錆染】が怒っていたのも、もう一人のヴィコラが止めてくれたのも頷ける。……醜悪な感情だ。


「その機械、まだ動くの? ワタシのせいで電気なんて消し飛んでそうだけど」


「問題ない。電気の小細工ぐらいできなきゃ便利屋なんてやってらんないからな」


 ジンは手袋を嵌めるとコンセントを握りしめる。数秒、バチンと空気が弾けると周囲に紫電が迸った。くぐもった駆動音と共に機械が正常に稼働する。


「珈琲はもう本物がないからな。よくわからん粉を複数混ぜないといけないんだよ。アルティラ合成香だろ? それから着色七号と……まぁ、こんなもんでいいか」


 合成珈琲とでも言えばいいか。とにかく、粉を機械に混ぜ入れるだけでも深みのある独特な芳香がより強く漂っていく。


「少し時間かかるし座ってたらどうだ? なんというか……落ち着きがないぞ」


 メリアは座ろうとはせず、興味津々な様子で機械を凝視していた。しかしそれも数十秒ほど。駆動音を響かせるだけのそれを見飽きたのか視線は周囲へと広がり、やがて一枚の古ぼけたポスターを前に首を傾げた。


「……これは? この人が持ってる物とこの格好はなに?」


 旧時代の、とんだアンティーク……世界が終末になってしまう前の代物だ。


 読めない文字の羅列、この世界と違うとしか思えない美しい海と砂浜を背景に、白フリルの水着を着た女が笑顔で酒瓶を持っていた。危なげなまでに肌が露出している。


「旧時代の広告用紙だな。手に持ってるのは酒で、格好は水着だ。間違いないと思う。馬鹿げてるがそういう見た目の異界道具を見たことがある。まぁ、異界道具とじゃ実際の用途は全然違うだろうがな」


 辟易としながら答えた。酒も、男女問わず不要な肌の露出もあまり好ましいとは思えない。特に水着なんてものは、むしろどこでなら使用できるものか。


 海に異常がないのはごく僅かな区画のみだ。それ以外は黒く染まり、深海から這い上がった怪物が跋扈している。


「そうなの? ……ワタシは凄く可愛い服だと思うけど。こういう服、ここにもあるのかしら」


 フリフリと、メリアは今着ている衣服を揺らし靡かせる。白い布地と共に長い銀の髪が揺れると、陽光に煌めいてラインフォード商会の色である翠と紫の光が入り混じっていた。


 宝石のような煌めきだった。この先を考えた途端、その輝きが蝋燭の灯りのように思えてくる。


「……流石に水着はないんじゃないか? それにこんな海見たことねえ」


「そうなの? ……残念ね。あれば着てみたいのに。なら、お酒っていうのはあるのかしら」


「まー……合成粉飲料のタイプならあるかもな。けど酒はやめとけよ? あれに落ちぶれた奴は二度と戻ってこれない。ずぶずぶだ」


 嗚呼、けれど酒に溺れてしまえばこんなことは実行しようとも思わなかったか? ……もう一人のヴィコラが望んでいたように、ただそこにいるだけぐらいならできたかもしれない。


「へぇ。それだけ魅力的ってことなんだ。ぜひ飲んでみたいわね? けど、呪いが無くなってからじゃないと悪い効果だけ全部貴方に飛んでしまうかも。ジン」


 にへらぁと。冗談なのか冗談じゃないのか分からなくなりそうな邪気を帯びた微笑み。退廃的な眼差しがじんわりと顔を覗いた。


「魅力的……まぁそうかもな。けど酒飲むぐらいなら珈琲がいい。なにせ美味い上に元気が出るし。何より素面に戻ってこれる」


 淹れていた合成飲料が充分に熱を持って混ざりあった。マグカップに満たされたややドロついた珈琲をメリアに手渡す。


「一気に飲むなよ。火傷が俺に移りそうだから」


 メリアは小さく頷くと匂いを嗅ぐようにゆっくりと息を吸った。それから恐る恐る、ズズズと音を立て啜り――静止。


「…………」


 何かを訴えかけるように涙に潤んだ翡翠の眼差しがジンを睨んだ。半開きになった口から飲み込めなかった珈琲がぼたぼたと零れ出ていく。


「嗚呼……悪い。言い忘れてたけど苦いぞ」


 今更な警告をぼそりと呟くと、メリアは今に泣きそうな表情で首を横に振って残った珈琲をジンに押し付けた。


「この味を今すぐ貴方に押し付けたいわ?」


「いや、悪かったって……」


 渦巻いていた悪感情がほんの一時ばかり吹き飛んでしまって、ジンは僅かにニヤけながら、誤魔化すようにマグカップの残りを一気に飲み干した。


 曇り割れた鏡に映る自分が笑みを浮かべていることに、違和感を抱いて冷や汗を拭う。

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