後悔をしないために

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 空っぽになった抑制剤と、残り一つの幸福を治す薬。


 シルヴィの首に掛けられた二つの薬瓶がカチャンとぶつかり合う音が響いた。


 呆然としたまま長い間少女二人に手を握られていたエストだったが、その音で我に返るように、俯いたままだった顔を上げた。


「……何をしている。両手が塞がるのは危険だ。咄嗟に動けないだろう」


 さきほどまでが嘘のようにすぐに手を振り払った。何も無かったことにしたいらしい。言及するなと言わんばかりに鋭い視線で二人を見下ろす。


「アハ……はは」


 シルヴィは返事代わりに苦笑いを返した。エストは空っぽになった手を一瞥し項垂れ、深いため息を零した。


「……企業に対抗しうる便利屋、色付きだの【緋刃】だのと呼ばれていたのに。笑えてくるな。……重い肩書だ。元弟子とこんな少女に救われるのだからな」


「こんな少女ってぇ?」


 シルヴィは勝ち誇ったように満面の笑みを浮かべ肘で小突いた。エストは鼻で笑うと、ゆっくりと立ち上がる。


「はっ、メスガキが。嗚呼、だが今ならようやく少し理解できる。その呼称の持つ意味を。…………起こしてくれて助かった。感謝する」


「…………す、素直に褒めないでくれない? 慣れないっ……んだけど。まぁ、許してあげるわ」


 シルヴィは顔を真っ赤にしながらなんとも言えない笑顔で応えた。


「師匠、それでどうやって抜け出すの? ここまで巡回は来てないけど地上が騒がしい。まだ便利屋を使っている以上本気ではないとは思うけど……」


「少し待て。もう一度【逃し屋】と連絡をつける。地上の状況を知る必要がある」


 レーヴェがシグナルジャマーの電源を落とすと、エストは急ぐように端末を手に取った。


「追加の連絡がなかったということはまだ追手は来ていないのか?」


『てっきりあんたがハートと笑顔共を買収したかと思ったんだが。奴らわざとらしくその場所だけはまだ避けてるぞ』


 ボイスチェンジャーの姦しい合成音。奥でケタケタと笑い声が響く。


「……ルドヴィコか」


 エストは疑念をよぎらせるが、すぐに忌々しく心当たりをぼやいた。


『爆破はあまり意味がなかったようだな。すまない。同じ手段ももう使えない。街中で歌姫のゲリラライブイベントと称して爆竹がばら撒かれて大音量で音楽が流れてる。火薬の量を増やせば……まだどうにかなるかもしれんが』


「他の方法は? ルートは変えるべきか?」


『いや、赤い荒野に出るしかない。海は無謀。陽動もないと【緋刃】と言えど時間を食うだろうね。一人じゃないんだから。……爆破よりも効果的な方法はある。金はかかるがね? シェイプシフト・デザインドール社の――――』


「そこを利用するつもりはない」


 食い入るようにエストは即座に拒絶した。そのまま通話を切り上げてしまうとレーヴェに目配せし、ジャマーを再起動させる。


「……シェイプシフト・デザインドール社をどう使えば陽動になるわけ?」


 ――純粋な好奇心…………ではないだろう。いい加減理解している。これまでもシルヴィは僅かな機微を理解するように言葉を詰めてきた。


「話す必要性はない」


「その方法は最善じゃないってこと?」


 ……沈黙。シルヴィは僅かに表情を曇らせた。踏み込めば、エストを傷つけるだろう。そんな確信が出掛かった言葉を詰まらせる。


「私は……自分のためもあるけどさ。エストに後悔して欲しくない。後悔して欲しいことがあるとすればぁ……一夜の過ちで私を無茶苦茶にしちゃった……。とか、そういうときにだけ後悔とかでグチャグチャになってほしい」


「む、むちゃぐちゃ……!?」


 レーヴェが困惑しながら復唱していた。エストは相変わらず黙り込んだまま。それでも耳を傾けてくれていた。


「――デキること……。するんでしょ? シてよ」


「できることをしたからこそ後悔することもあった。事態が悪化することもあった」


「…………今回も、そうなるの?」


 グイと、シルヴィは顔を近づけた。エストが顔を背けることを許さなかった。ガスマスクのレンズ越しに目と目が向かい合う。


「…………」


 エストは何も答えなかった。シルヴィの両頬に手を置いて視線を離すと、幾つかの注射剤を自身に打ち込んだ。便利屋との戦闘で生じた外傷にスプレーを掛けていく。


 拳銃の点検。擲弾の不備がないことを確認してからシルヴィとレーヴェを一瞥した。


「移動する。シェイプシフト・デザインドール社までは遠くない」


 地上へ出るための重い防水扉を一閃した。金属を焼き溶かす高温が空気を歪める。撫で下ろすような斬撃だった。扉を蹴って初めて、斬られたことを主張するように扉は金属片へと変わり転がり落ちる。


 急勾配の階段を前に無機質な敵意が三人を見据えた。白く湾曲した装甲を纏う人型の機体。腕部に備えられたプラズマライフルと金属切断機。暴徒用ではない、対企業戦力機。


「ブリッツIV……っ!」


 エスコエンドルフィア製薬の研究施設警備にも配属されているのを、シルヴィは見たことがあった。咄嗟に機体名を口にする刹那、黒い影が頭上を舞った。機体を飛び越え、爆炎に等しい業火の輝きが瞬く。


 機械が敵を捉え仕留めるよりも疾く、見惚れるような緋色の軌跡が宙を凪いだ。白い金属装甲を塗り潰し、それで終わりだった。


 数瞬の間を置いて機体が無数のスクラップへと変わり果てる。


「……似てる」


 ルドヴィコのことを思い出すように、シルヴィはぼやいた。けれど、あいつの斬撃よりも何倍も速く、鋭く、重い。企業に対抗しうる便利屋。色付き……。【緋刃】と呼ばれたその片鱗を今一度目の当たりにし、瞬きを忘れ視界が眩んだ。


「嗚呼、逃し屋め。何が買収したかと思っただ。適当な情報を……。急ぐぞ」


 エストはそれ以上何も言わなかった。ずっと抑え込んでいた力が、ルドヴィコを斬り裂いた技術を反射的に振るった。


 ――今までこんなことはなかったはずだ。


 考え込んだ。答えのでないまま階段を上がっていく。震える手で刃を鞘へ収めた。

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