分裂した自我と自分
「……冷静になれ。何かを思い出して、力が戻ったからといって変わらなければならないわけではない」
痛覚の麻痺した身体で立ち上がると僅かにフラついた。吐瀉し、咽ぶシルヴィの背を淡々と擦りながら、小さな吐息が落ち着きを取り戻すまで沈黙し続ける。
「俺は、中古品だとか、穢れがどうだとか。そんなことを気にしている奴だと思われていたのか?」
シルヴィは慌てて首を横に振った。血やら胃液やら唾液やら。不快な感触を纏ったままの口元を服の袖で拭い取る。
「……違う! ただ、我は……私は」
エストは僅かに沈黙をおいた後、再びガスマスクの奥からくぐもったような声を響かせた。
「これも最初に言ったはずだ。俺は身体を目的として助けた訳ではない。……それに、感傷となる思い出を作りたくはない。何かを失ったとき、それが大きくなっているほど、どうしようもなく無力になる」
「……助けた理由も答えられぬ癖に、我と交わることで感傷が増えると?」
「助けなかった日の食事がまずくなると思った。これでいいだろう。俺のことなんてどうでもいい。お前は約束を守れ。力に呑まれるな」
シルヴィは気づけば手を握られていた。……反抗して、手を振り解くことだってできるはずなのにしなかった。――できなかった。
「……力に呑まれてなんかない。私は、我の本来こそがこれなだけだ……! 弱く何にもない少女も、彼女が作り出した薄っぺらい仮面(メスガキ)も本当の我ではない……!」
「なら今日まで一緒にいたお前は偽物か?」
ガスマスクに覆われた顔がすぐ目の前に向かう。どこを見ているかも分からないのに、鋭い視線が緋色の双眸を覗いている。
力ある者の悠然とした微笑みが保てなくなる。余裕なく額に刻む不快感。長い髪が苛立つように強く靡く。目頭が熱くなって、どうしようもなく泣きたくなってくる。
「……な、んで。なんでそんなこと言うのぉ……!!」
嗚咽が混じる。頬を伝いかけた涙を慌てて拭い隠して、シルヴィは声を裏返しながらぐしゃりと、足元のゴミを強く踏み潰して口を硬く結んだ。
「我は……! 貴様の色で身体を塗りつぶして欲しいんだ。綺麗な緋色……。だって、そうでなければ我は!」
「事情は分からない。俺が一撃を貰った所為で何かを思い出したのかもしれないが。シルヴィ、キミは自由になりたかったんじゃないのか。誰かに依存すべきではない」
――こんな話をしている猶予はない。無理矢理にでも切り上げて移動すべきだ。……だが、彼女はどう思うだろう。取り返しのつかないことにならないか?
淡々と言葉を吐きながらも思考が複雑に巡る。感傷の元が作られ続けていく。……不快ではなかった。
シルヴィは言葉に悩んでから、震える手で握り拳を作った。余裕のない表情を取り繕おうとすると自然と蠱惑的な笑みに変わる。
「今の我は自由だとも。愛玩動物じゃない……! し、支配する側なの♡」
力ずくでエストの身体を手繰り寄せる。細い指先で彼のガスマスクをゆっくりと愛でるように撫でた。
「……互いに抱き合えば一時的には何か嫌なことを忘れられるかもしれない。何かを満たすことができるかもしれない。だが、解決に至るとは思えない。キミは抵抗があるからそんな顔になる」
レーヴェが不安げに窺うような視線を向けていた。僅かに頬が赤い。
――自分は、どのような表情をしているだろうか。ガスマスクで覆い隠し続けていた所為か、いつしか予測も出来なくなっていた。
「その精神状態で行為を結んで何を得られる。愛玩動物としてではなく交わったということになるだろう。だが、互いに恋人ではない。汚いものをなかったことにするためだけにしたという記憶は残り続けるだろう」
エストは優しくシルヴィの手を解いた。シルヴィは抵抗しようとは思わなかった。宙ぶらりんになった手で自分の衣服をじんわりと握り締めた。
――興味がないような、関わりたくないような威圧感はずっと滲んだままなのに。不愛想で無機質な仮面(ガスマスク)から熱を帯びた言葉ばかりが響く。
「…………その理論なら、互いに後悔しない状況ならいいわけ?」
ぼそぼそと、声から気迫が消えていく。シルヴィは段々と俯いて、表情を隠した。そうでもしないと正面に立っていられなかった。
「そんな状況があるとは思えないが。互いに後悔をしないのならばそれは良い事なのだろう。だが、今は違う。おそらくはお互いに不本意だ」
「なぜ言い切れる。我は貴様を望んでいる。嘘じゃない。本心だ……! お腹が熱い。舌が乾く。牙が乾く。唾液を絡め合いたい。手を握られたい。……全て事実だ」
シルヴィは俯いたまま力なくそう言い切った。エストを見上げることもできないまま。確かな生理現象を主張して、激しく打ち付ける胸へ手を当てる。身体の震えを隠しきれなかった。
「だが無理をしている。苦しんでいるように見える。無理に急ぐ必要はない。今、何かを変えなければならない理由はない。力に呑まれる必要も、自分の一部を偽物だと考える必要もない」
シルヴィは黙り込んだ。桃、薄紫、赤……。繊細に色を揺らす髪は力なく靡くのをやめた。蛍光を灯す双眸から涙が滲む。もう、拭おうとも思えなかった。ぽたぽたと、薄汚い地面へ流れ落ちる。
「だって……私にもわからないんだもん。どうしたらいいのか……! 自分が何人もいるみたいで、ぐちゃぐちゃで……」
「それは俺にも指示することはできない。無理をしないならば、苦しくないならば。素直になることも、尊大な態度を取ることも、仮面を被って演じることも。好きにすればいい。そのうち自然に混ざるはずだ」
付け加えるようにボソリと、だが今は深呼吸をしろとぼやいた。小さな口から、大きな吐息が震えながらゆっくりと絞り出る。スゥと、長い呼気。震えは消えた。
「そうだ。……私は自由になりたいの。身体だけじゃない。心も。そのうえでいくつかしたい事があって……今、一つか二つ増えたよ。それに思い出した」
鬱屈とした想いが消えたわけではない。が、吐き出すものを吐き出すと熱が冷めるみたいに冷静さが頭を満たした。
――傲慢な私でも、弱々しい私でも言えない事だから、小さく舌を出して煽るようにジッと睨む。微笑みながら。
「忘れてたことぉ、思い出させちゃったねぇ? 私はエストが知らないことを教えてあげるって言ってたんだ。だからぁ、からかって……煽って。エストがここで私のことをぎゅーってして一緒に気持ちよくならなかったこと、後悔させる♡」
嫌いだったはずの仮面を被り直して。今までそうしてきたようにニヘラぁと笑って見せる。
……恥ずかしくなかったはずなのに表情が強張ってしまった。目は見開いたまま落ち着けないし、耳まで熱い。牙がムズ痒い。
「もう平気か?」
急いでいるのだろう。エストが無粋な言葉を投げかける。それが不満で、不満だと知ってほしくて。シルヴィはわざとらしく頬を膨らませた。
虹彩を煌めかせる髪をくしゃくしゃと掻いてから、ジッと睨んだまま自分の口元を指で撫でる。
その指を、エストの口元へ……とは言え、ガスマスク越しに。押し付けた。
「……なにをしている?」
心の底から理解をしていない疑問の言葉。そんなんだと思った。
シルヴィは小さな溜息をついた。教える気なんてさらさらない。
「へ、へぇ? 教えない♡ エストはいつもみたいに黙ってればいいの。……平気になったから」
自分の指を見詰めたまま大嘘をついた。
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