剥がれた仮面(メスガキ)
朦朧としていく眼差しで未だ鋭く睥睨するルドヴィコ。危惧していた違和感の正体を目の当たりにするエスト。
ふわりと、シルヴィの身体が浮いた。体を慣らすように首を捻りながら二人を一瞥して、微笑む。
「私に幸福を治す特別な力があるわけじゃないの。……我々が幸福を強いることも、消すこともできる種であり、劣等種の街を築き上げたのだよ」
――自我が宙ぶらりんになった。愛玩動物を強いられて、同情されるのは嫌で、そういう行為もするのが嫌で。
なにもかも嫌で自由になりたかった私。私から生まれた私に耐えられないことが平気でできる生意気で、口下手な自分。
…………今はどちらでもない。
「ルドヴィコ、私は貴様が嫌いだ。エストを私より理解していて、親しくて。私には踏み入られない過去があることが、酷く腹立たしい」
シルヴィは歩み寄っていた。レーヴェが打たれた幸福剤と同等か、それ以上の濃度の多幸感がルドヴィコの脳を蝕む。
どれだけ卓越した技術があろうと。抗うことのできない倦怠感と多幸感は生きようと抗う力を奪う。ルドヴィコは【白影】を握り締めたまま動けなかった。
「貴様はエストが甘くなったと言ったな。だが、エストはずっと、沢山……貴様のための酒だって用意していたのに」
舌にのこる苦く辛い酒の味。飲めたものじゃないそれを思い出しながら拳銃を構えた。頭部へ突きつけ引き金を振り絞る。パンと、乾いた銃声。
ルドヴィコの身体が倒れた。弾痕から蛇口の水みたいに血が吹き出して、ルドヴィコの体が無数の羽根を散らして消えた。
連れの便利屋が所持していた異界道具だろう。残されたメガハートポリスとスマイルオフィサーは依然として包囲を続けていたが。
「退け。そして貴様らの上に伝えればいい。パパを殺してくれてありがとう。だが、戻る気はないと」
シルヴィの言葉に全員が一律に従った。統率された敬礼をして、彼らはその場から離れていく。薄汚れた路地裏に静けさが戻り、残されたのは三人だけだった。
「し、シルヴィさん?」
怪訝そうに、はたまた不安そうに。レーヴェが名前を呼んだ。
「貴様には申し訳ないことをしたな。我々の揉め事に巻き込んで、我々の薬で異常な多幸感に酔わされた」
「わたしはいいの。それより師匠は!?」
「……歩ける。彼女に注目が集まっている間に最低限の処置はした」
血まみれの手。転がる無数の注射器と空の溶液。エスコエンドルフィア製薬のロゴが描かれていた。
「……なにも、幸福剤だけでのし上がった企業ではない。もともとは暴徒を対策の鎮静剤と医療品を売っていた会社だ。……使えるものは使う」
「傷、みせて」
シルヴィはそう言うと有無を言わさずエストの衣服を捲り、腹部の傷口を覗き見た。皮膚が裂け、血に染まった刺突痕。
「なんのつもりだ」
「傷つけたりなんかしない。我にとって貴様は大事な人物だ」
逃げられないように背に華奢な腕を回して。見上げながら、顔を寄せる。口を這わせて小さな舌で愛でるように血を舐めた。彼の味が咥内に広がる。下腹部に熱がこもる。牙が疼く衝動を押し殺すのがやっとだった。
「ッ……なにをしている。離れろ」
エストの言葉を無視して、僅かな幸福を傷口に馴染ませる。ぷは、と。口を離すと小さな空気音。
「依存にならない程度であれば毒じゃない。薬だ。我は貴様の痛みを紛らわし、傷を僅かでも癒すこともできる。……痛みはなくなっただろう?」
エストは何も答えない。黙り込んだまま傷を一瞥して、目を見合わせる。ガスマスク越しでも確かに感じることのできる視線に、シルヴィは牙を見せて満面の笑みを返した。
「貴様を気に入っているんだ。食料としてではない」
唾液に含めた幸福の副作用……体の痺れがあるうちに詰め寄って、エストを押し倒した。シルヴィはそのまま馬乗りになってガスマスクをジッと見下ろす。
「我は本気で貴様を気に入っている。無防備な状態であった我を、何の見返りさえ求めることなく助け、危険を背負った。強さもある。人間の境地を超えた剣捌きは綺麗だ。凄く格好いい。それに……」
――――言えなかった言葉がこんな状態になって初めてスラスラと出てくる。……けどこれは私なの? わからない。きっと今話している私が元々の私で、薬で訳がわからなくなって、耐えられなくなって……。エストとまともに喋っていた私は、私の代理の代理?
「……んぐッ」
不意にどうしようもなく悲しくなって嗚咽が込み上げた。喉元にまで酸っぱくて不快な感覚が滲む。
「貴様は誰よりも優しい。だから、耐えられないから仮面を被ったのだろう? だが今は外してくれないか?」
妖艶に振る舞い、シルヴィは血で汚れた指でガスマスクを撫でる。――私はこんなことをしたくなかったはずなのに。
「子を成そう。やり方はわかるか? 我は私だった頃に散々させられた。してきた。手取り足取り、今なら文字通り教えてやれる」
「最初に言ったことを忘れたか。……趣味じゃない」
前にも言われた言葉。――けど今は許せなかった。
シルヴィは牙を軋ませ苛立ちに目を見開く。怒気を隠すこともできずにエストの胸倉を強く掴んだ。
「我が不完全な体の個体だからか? それともあの異界嫌いの糞野郎(パパ)に騙されて、何度も身体を穢し続け、使い続けた中古品だからか!?」
込み上げていた嗚咽が限界までせり上がる。シルヴィは口元を慌てて押さえた。エストの身体から降りて薄汚い建物の外壁にもたれかかる。
「おぇぇえええ……!! ッぢ、んグ……おぇぇ……!」
仮面が剥がれた。――弱くて仕方ない愛玩動物(ヴィヴィ)じゃなくなったとき、いままでしてきた事が突然耐えられなくなって不快な感情と胃の中の物を地面に汚らしくぶち撒けた。
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