ガスマスクの覆う夢

 レーヴェがまじまじと見つめて、顔を赤くしながら口をあわあわと泳がせる。


「そ、それで……その。どうするの?」


「……エスコエンドルフィアと提携のない場所で、少し休む。バニーホイップのモーテルまで移動したい。血を補う薬はあるが時間がかかる」


 シルヴィの唾液が混じってから出血は止まり痛みもないが、滲むような麻痺、倦怠感は一層強く身体を巡る。


『異界道具を持つ者同士で手加減をしないでください。エスト、貴方とワタシは一心同体なのですよ? 理解していますか?』


 【緋色の剣】が無機質な口調で警告を発する。エストは何も答えないまま俯き、剣を収めた。


「……移動する」


 シルヴィは頷いてエストの隣まで駆け寄った。その意味をエストが理解しなくても、もう後ろを追いかけるだけでいるつもりはなかった。


 狭い路地とゴミ山を抜けると視界が開けていく。頭上を巡る絡み合った電線がなくなり、やがて黒い海が広がった。


 ツンとした薬品臭と磯臭さが混じった空気がどんよりと漂う。


 岸壁に打ち付けるさざ波に錆びついた鎖が地面を摩擦しながら揺らしていた。遠くで濃く影を刻むガントリークレーン。


「魚……いると思う?」


 シルヴィは見慣れない景色を見渡しながら、フンと鼻で笑って冗談をぼやいた。すぐ足元の海面は漂着した無数のゴミと得体のしれない悪臭の原因が漂うばかりで。いいものなんて何もなかった。


「いるぞ。夜行性で地上に上がってくる。この時間は会わなくて済む」


 クソ真面目に求めてもない質問の答えが返ってくる。


 おかしくって、シルヴィは噴き出すのを咄嗟に押さえた。どれだけ余裕がなかったとしても、不快感を帯びた異臭が漂っていても、笑えるものは笑えるし、波音だけは心地いい。


「モーテル、どこまで歩くの?」


「もう見えている。すぐに着く」


 そんな言葉からしばらくの間、海沿いを歩き続けた。風と波で打ち上げられたゴミや得体のしれない生物の死体が散乱していて道は薄汚れていたが、モーテル自体は予想していたよりも清潔だった。


 建物の外壁が塩で錆びついているぐらいだろうか。昼なのに艶やかな薄赤いネオン。バニーホイップって名前が描かれていた。


 中は薄暗くて受付が一人いるだけ。武装していて薬品臭い。


「三人。1日でいい。一部屋だ。オプションは『護衛と警告』。『兎とクリーム』はいらない」


 エストが淡々と金を支払って鍵を受け取る。待ってる間、その辺を見渡したら薄明かりを放つ自販機は栄養ドリンクだとか、パパ達がよく使っていた不快な道具が売っていた。


「ここってそういう所なの? 教えて欲しいならぁ……私はいいよぉ?」


 視線を売り物に向けたままシルヴィは鼻で笑う。


「そういう用途で使わない分には安上がりで便利な場所だ」


「あの自販機に売ってるものがわかるの? 飲み物は飲み物だろうけど」


 レーヴェだけが何もわかってないように首を傾げた。つぶらな黒い瞳がジッと怪訝そうに自販機とシルヴィを見詰める。


「……うぐ」


 無垢な眼差しに耐えきれずにシルヴィは苦い声を零した。


 ……部屋は簡素だ。シャワールームにベッド。それでもエストが生活していた車の中よりずっと広い。艶やかなピンクの室内灯が妖しく照らしている。


 エストは習慣付いた癖のように盗聴器の類を探し回って。安全を確認すると深く椅子に座り込んだ。


「ベッドは二人で使っていい」


「どうして? あ、もしかしてぇ枕が違うから寝れないの? だったら私が膝枕してあげてもいいよ……って。もう寝てるし……」


 牙を見せて嘲って。華奢な腿をぽんぽんと擦ってみたのに。エストは座ると同時に眠ってしまった。寝息を立てるわけでもない。ガスマスクをしたままで、目を閉じているかもわからない。けど、眠っていた。


「…………レーヴェに女の子を教えてあげようかぁ?」


「ふぇッ、へ……ッ!?」


 わきわきと手を蠢かせながら冗談を言うと、驚いたようにレーヴェが身体を強張らせ、声を裏返す。……そんな反応をできるのが羨ましくて。


「自分で最低限分かってからね?」


 そんなことを言って。拗ねるみたいにシーツを頭の天辺まで被って目を瞑った。




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 ――――ぼんやりと意識が暗闇のなかから覚めていく。しばらく、目の前に広がる光景を理解できないままぼんやりと眺めていた。


「師匠ぉ……どうされたんですか?」


 怪訝そうに翡翠の双眸がエストを覗く。咄嗟に首を横に振った。なんでもないと。言い切ってから、目の前の人物がルドヴィコ・アーヴェであることを理解する。


 しかし顔も腕も全て生身のまま。……嗚呼、夢を見ているのだと。エストは漠然と理解した。アーヴェはこちらの反応を見て安堵するように穏やかに微笑むと、ツンとしたアルコール臭を帯びた杯を向ける。


「仕事も終わったんだからさぁ……。ほら、乾杯しよう」


 白い肌、忘れようもない儚げな笑みの追憶。銀の髪がふわりと揺れた。夢だと理解していながら思うような言葉は出てくれない。口を閉ざすこともできないまま、アーヴェと向かい合う。


「……乾杯。とはいえ、俺は飲まないが」


「師匠はいつになったら仮面(ガスマスク)を外してくれるんだい? 僕はさぁ……ずっ――と楽しみにしてるのにさぁ」


 ヘラヘラと訛った口調で一気に蒸留酒を飲み干して、白い頬が赤らんだ。――苦く、度数の強い酒が好きだというのにアルコールに弱い。……そんな特徴まで忘れることはできないらしい。


 記憶の中の思い出がどうしようもなく五感を刺激し続ける。不快感は不思議と感じなかった。過去のときと同じ想いが灯るように熱を帯びる。


「……僕は、師匠の事が好きかもしれないですよ。家族のようになりたいと思っています」


 緊張と恥じらいの混ざった語気。アーヴェは神妙に頬杖をついて、言い切ってから俯いた。エストはガスマスクの被ったまま、照れるように笑い返した。


「……悪くない。そのときはこれも外せるだろうか」


 言葉を口にした途端、耳を突き破るようなノイズが鼓膜を震わせる。視界が白く何度も点滅を繰り返す。フラッシュバックする幾つもの記憶。


 視界から色が消えた。白黒になった世界。景色が消え、曖昧に広がる空間。足元にまで広がる黒い血溜まり。


 その中心、動かなくなった亡骸を見下ろしたとき。翡翠の眼と眼が合った。

 瞬間、舌にまで這い上がる吐き気。堪えきれずに涙が滲む。目を閉じた。脳が軋むように激痛を走らせる。




「ッ――――――!!」


 言葉にならない叫び声をあげて、どうしようもない嫌悪と寒気に身体を震わせながら飛び起きた。


 ズキリと頭を突き刺す痛み。エストは顔を歪めて黒い髪を掻く。


「師匠……? 凄く、うなされてたよ?」


 レーヴェが不安げに水を持ってくる。首を横に振って拒んだ。飲む気になれない。……ガスマスクを人前で脱ぐことはできない。


「…………平気だ」


 声がみっともなく震える。目頭がどうしようもなく熱い。――悪夢だ。この前見たものとは比較にできないほどの。


 今回もきっと例外ではないだろう。……悪夢を見た日は仕事の依頼が来る。エストはジッと、シルヴィを見据えた。


 直感を信じすぎるつもりはないが。絶対的な確信だった。


「今はもうさ。居候ですら、ないでしょ? 私ね。依頼がしたいの。便利屋エストに。【緋刃】に」


 シルヴィは毅然とした態度で凛として見つめ返してくる。エストの、プロとしての矜持が震える息を押し殺した。


「………………高くつくぞ」


 長く重い沈黙をおいて、ようやく出たのは余裕の欠片もない冗談だった。

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