夏の終わり、海香がいた

北原小五

夏の終わり、海香がいた




――私はこの『世界の秘密』を知っている。


 ***


 西暦二〇二三年、初夏。私立高校の一角に古い弓道場が建っている。道場の中では練習を終えた三十人ほどの部員がモップや箒を持って掃除に励んでいて、中でもとりわけ丁寧に道具を磨いているのは、今日で引退する三年生たちだった。島本璃紗(りさ)も皆と同じく、二年半お世話になった道場を隅々まで綺麗に掃除していた。掃除も終わりかけていたとき、道場の引き戸が開き、ジャージ姿の女生徒が入ってくる。

「こんにちは。お疲れ様です!」

 顔を出したのはここ一週間、『家庭の事情』で学校を休んでいた成瀬海香(うみか)だった。驚いた璃紗は弓を立てて海香に駆け寄った。

「海香!」

 璃紗はここ一週間、ずっと海香のことを心配していた。メッセージの既読もなかなかつかないし、事情が事情で何があったのかも思い切って聞き出せないのでやきもきもしていたのだ。

 『家族が亡くなったとかじゃないよ。すぐ戻るから大丈夫』と笑顔の絵文字とともに海香は返事をくれたけれど、その返事もなんだか璃紗にはたどたどしく感じられた。

「璃紗〜! ごめん。なんか心配させちゃった? 今日は部活に来れそうって連絡しとけばよかったね」

 久しぶりに会う海香にこれといって以前との違いはない。無理をしているのではないかと思ったが、海香は笑顔を崩さず部員や顧問に挨拶をして中に入っていく。

 部活の最後に、後輩から三年生への感謝を伝える会が開かれた。その会では後輩がサプライズで三年生それぞれに色紙もくれた。璃紗はどちらかというと人見知りで、後輩と交流が多い方ではなかったけれど、後輩は皆気を使って璃紗の色紙にも何かしらは書いてくれていた。

 午前で部活が終わり、帰宅しようと海香を誘う。校門を出た海香はのびをしながら、晴れた空を見上げて言った。

「ねえ、璃紗。都大会で負けた日のこと覚えてる?」

「え? ああ、まあ……」

 全国大会へあと一歩のところで璃紗たちのチームは負けてしまった。中学から弓道をやっている海香は歴が長いだけに、璃紗よりも悔しかったことだろう。けれどその話をする海香に後悔の色はない。清々しい青色、そんな表情だ。

「すっごい悔しかったけどさぁ、あれもいつか思い出になるんだろうねえ。高校時代の部活、なんか最高に楽しかったな、みたいな」

「なにそれ、あっはは」

 璃紗が笑い飛ばすと、今度は少し真剣な口調で海香が問う。

「今から海に行かない? 江の島までさ。電車で一時間くらいでしょう? パーッと行って、ちゃちゃっと帰ってこない?」

 素っ頓狂なタイミングでの誘いに璃紗は少し目を丸くする。けれど、部活動の引退でセンチメンタルになっているのかもしれないなとすぐに璃紗は思いなおした。

「いいよ。でも十九時前には帰りたいな」

「了解!」

 そうして電車に乗り、二人、神奈川県藤沢市まで向かった。江の島電鉄に乗り換え、江の島駅で降りる。そこからは海を見ながらしばらく歩いて、喫茶店で昼食を食べた。璃紗はしらすチャーハン。海香はガパオライスを食べた。ランチの後は江島神社に行き、璃紗は第一志望の大学に受かるようにと神様にお願いした。

 夕暮れどき、もうそろそろ帰ろうかというころ、海を眼下に望みながらぽつりと海香が言った。

「……璃紗は何をお願いしたの?」

「ん? 大学受かるようにって」

「そっか」

「海香は?」

 海香は答えない。密やかな横顔を夕焼けが赤く染める。海風が彼女の前髪を揺らし、目元に暗い影を落とした。

「私、家庭の事情で休んでたわけじゃないんだよね。検査入院してたの」

「…………」

 とっさに璃紗は言葉が出てこなかった。海香は自嘲気味に薄く微笑む。

「重たい病気なんだって。明日から入院なの。でも、どれだけ頑張っても、もうあんまり時間はないんだって」

 海香が、病気?

 狼狽えることしかできない璃紗に向かって、海香は、今度は綺麗に笑ってみせた。

「でも負けないよ。頑張るから。病院にお見舞いに来てよね、璃紗」

「…………うん。お見舞いに行くよ、絶対」

 その日、結局どうやって家まで帰ったのか、璃紗はよく覚えていない。ただ確実に言えることがあった。

 海香は死なない。

 それは精神論や根性論、まして現実を見ていないわけでもない。

 海香が死ぬはずがない。いや、死ぬことはできないはずなのだ。

 だってこの世界の若者は、死なないから。


 ***


 カチカチという時計の針の音で、璃紗は目を覚ました。白い壁に白い床。部屋には白い時計と白いシーツがひかれたベッドががひとつずつ。

 璃紗はサイドテーブルに置かれたカジュアルなグレイの服を着て、上から白衣を羽織った。部屋から出るとまっすぐに白い廊下が続いている。その左手はガラス張りで、そこからは数えきれないほどの棚がある。数万にも及ぶ棚には人が入るくらいの棺が入れられ、青白く発光している。耳を澄ますとゴーっという電子機器の稼働音が聞えてくる。

 ここは西暦二〇二三年、ではない。本当は、本当の世界は、西暦三〇二四年。

 それが私が知る『世界の秘密』だ。



 璃紗は長い廊下の先、『Doctor』と書かれた研究室をノックした。応答があり、中に入る。中ではコーヒーを片手にデバイスを操作している島本秋人(あきひと)、つまり璃紗の父親がいた。

「璃紗。手伝いに来てくれたのか。というか、もう一週間たったのか」

「そうだよ。ちゃんとカレンダーを見てよね」

 璃紗たちは現在、宇宙空間を救難船で航行中だ。もともと璃紗たちの先祖は地球という惑星に住んでいたらしいけれど、何らかの理由で生存が困難になり、星を捨てた。かわりにこの船で新天地を探すことにしたが、密閉された船での生活は人間には向かなかった。殺戮や感染症が横行し船の中の治安は最悪だった。時の権力者はコールドスリープと意識の並列化を用いて、人間の体を凍結、その意識だけを同じ空間(二〇二三年ごろ)に集めた。その時代が選ばれたのは、科学的に地球全体が最も発展し、最も平和な時代だったからだそうだ。

 しかしこのコールドスリープは不完全で、細胞は徐々にだが劣化してしまう。百年経てば、誰もが細胞の劣化に追いつかなくなり亡くなってしまうのだ。だから意識の世界で子孫を望んだ夫婦には船内のロボットが手伝い人工授精させ、人工子宮である程度の成長がみられるまで管理、その後、子供もコールドスリープさせ、人口減少をぎりぎりで抑えている。璃紗の両親の仕事はこのコールドスリープの完全化で、船の操舵や管理はAIに一任されている。真実を知る科学者はローテーションで目覚め、火曜日がこの区画では島本家の担当だった。

 また意識の世界の存在を認知しているのは一定数の権力者と璃紗の両親のような科学者、その家族に限定されている。璃紗は週に一度ほど目覚め、未来の科学者となるべく両親を手伝っていた。

「お父さん、成瀬海香を知ってる……?」

 父はコーヒーを飲みながら、頷いた。

「ええ、あのシリーズのオブジェクト開発には私も関わっていましたから」

 意識の世界の中で、人は突発的に死なない。事故死や殺人はありえないのだ。かわりに消えるのは、あらかじめそうプログラムされていた偽物の人間。つまりはオブジェクト(物体)だけだ。病気になって死ぬことが確定している成瀬海香はコンピューターと意識上の存在にすぎないということになる。

「嘘よ!」反射的に璃紗は大きな声を出していた。「海香がオブジェクトのはずがない! だって海香はあんなに……!!」

 後輩から慕われて、友達も多くて、勉強もできて、部活だって一番で……!

 他者の感情に機敏とは言い難い父親は、論文に眼を落しながら言う。

「規約でどうしても教えられませんでした。悲しいですね」

「うるさい! わかりもしないくせに!」

 そう言い捨てて、璃紗はドアを開いて廊下へ走り出た。息が切れるほど走っても、人の入った無限の回廊が尽きることはなかった。

 地球から脱出を試みた人間は何十億人といるが、そのほとんどが船に乗るときに散り散りになった。この船は最小サイズで百万人しか載っていないので、艦隊を組んで航行している。ときおりドッキングして部品のメンテナンスや人員の入れ替えはしているが、ここ十年、璃紗は目覚めている人間を両親以外見たことがなかった。

 走り疲れ、璃紗は白すぎる廊下にへたりと座り込んだ。

 こんな現実、知らなければよかった。海香のことはもちろん、『世界の秘密』そのものについて。そう思ったのは別に初めてではない。けれどコールドスリープの完全化にはどうしても人の手が必要で、百万人の命と未来が璃紗たちの手の中にある。その責任からは逃げることはできない。

 なぜ、意識の世界の住民たちに本当のことを伝えないのかと父に訊ねたことがある。父は人間が生きるためですよと答えた。

 ちょうど璃紗は小学生で、テレビの中で地球に帰還した宇宙飛行士が笑っていた。彼らは地球周辺の衛星の調査に行って帰ってきたところだったのか、偉業を成し遂げとても誇らしげだった。コーヒーをすすりながら、規約でサラリーマンを演じる父親は滔々という。

「人が生きるためには生き甲斐が必要なんです。生きる目的や、意味や、価値が。だから私たちは本当のことを隠します。ここが意識で作られた仮想世界ならば、かりそめの月になんの価値もなくなってしまうでしょう?」

 璃紗も父も、宇宙飛行士を笑わなかった。存在しない月に手を伸ばしている彼らの生き方を否定することは、やはりできなかった。


 ***


 意識の世界に入り込むため、特殊な錠剤をのみカプセルへ入る。璃紗の服用している薬は両親を手伝うため一週間で効果が切れるようになっている。棺にも似たカプセルの中で眠りにつき、意識の世界に戻った璃紗は六時間の不眠の空白に苦しみながらも学校へ行き受験生専用の特別授業を受けた。

 こちらの世界の大学に行くことになんの意味があるのだろうと思わなくもないのだが、璃紗にとっての現実はあの味気ない白い空間よりは色づいたこちらの世界だった。とても大切なこの世界をさらに充実させるためにも、やはり人並みには志望校に受かりたかった。

「あれ、海香ちゃんは? 今日もいないの?」

 いつも璃紗と海香がつるんでいるのを知っている数名が、海香の不在の理由を璃紗に訊ねてきた。本当のことを勝手に話すわけにもいかず、「なんだか都合が悪いみたい」と適当に誤魔化した。

 海香のことを考えると正直気持ちが沈んだ。彼女のことは好きだけれど、彼女が存在しないということに、璃紗自身受け止めきれない感情を持っていたからだ。

 一週間後、授業の後に海香から連絡があった。

『海の見える病院に移ったよ。面会できるから、よかったら会いに来て!』

 璃紗は返事を五分近く悩み、結局行くことにした。海香がなんであれ、ここで行かないという選択をすれば周囲の人が不審がるだろうとも思った。

 その週の土曜日、電車を乗り継いで千葉にある病院に行った。切り立った崖の近くにある真新しい病院が海香の新しい家らしい。お見舞いには花がいいだろうと母親が言ったので、最寄りの駅の前で花を買い病室へ向かった。ドアを開くと、窓越しに海を見ている海香がいた。ドアがスライドする音が聞こえたのか、彼女がこちらを見て、ぱっと表情を輝かせる。

「璃紗! 待ってたよ」

 昨日から見舞いに行く旨のメッセージは既に送ってあったが、海香はこちらの来訪をいたく喜んでいるようだった。

 でも海香は偽物なんだ……。

 成瀬海香は存在しない。生命ではなく、死ぬために出来たデータに過ぎない。

 自分が上手く笑えているのかわからないまま、璃紗はベッド横にある丸椅子に腰かけた。

「これ、お花。ネットでお見舞いに最適な花とか調べたんだけど、あってるのかな?」

「あはは。なんだって嬉しいよ。ありがとう」

 それから海香は病院であった様々な出来事を面白おかしく語り聞かせた。初めて会ったときから思っていたことだが、海香は話すのが上手いし、面白い。看護師さん同士の些細なギスギスしたやり取りをすぐに見抜く観察眼と、それをさらっとアレンジしてユーモアを振りまくセンスに長けている。

「ああ、そうだ。二週間後の土曜日、八月の終わりの方にさ、うちの病院で小さい花火大会をやるんだって」

「花火大会? そんなのやっていいの?」

「それ私も思った」あはは、と海香は笑う。「あんまり元気じゃない人は上から見てるだけみたいだけど、元気な人は駐車場前の狭い公園みたいなところに集まって線香花火とかするんだって。今、これくらいしか楽しみなイベントってなくてさ~。璃紗、もしよかったら遊びに来て」

「い、いいけど……」

「やった。病院生活って本当に退屈。病気で死んじゃう前に、退屈すぎて死にそうだよ」

 笑えないジョークを飛ばしながら、海香はまた海を見る。きらきらと光る波が嘘みたいに綺麗だった。

 人付き合いが得意で明るい性格の海香と友達になれたのは、好きなアーティストが同じだったことがきっかけだった。そこまでマイナーなバンドじゃないけれど、たまたまそのバンドを好きな子はクラスで璃紗と海香だけだったようだ。二人とも電車通学で、同じ車両で落ちあい、よく車内で音楽を聴いた。いつの間にか音楽だけではなく、よそのクラスのかっこいい男子の話や、最近の小テストの話題、家族や学校周辺の野良猫の話なんかもした。

 思い出せば、思い出すほど、海香との思い出があふれてくる。

 璃紗はいつの間にか目に涙をためて泣いていた。

「ちょっと、璃紗!? 大丈夫!?」

 驚いた海香がこちらを心配する。

「だ、大丈夫。目にゴミが入っただけ……」

 海香を心配させまいと笑いながら、璃紗は確信を持ち始めていた。たしかに海香はただのオブジェクトなのかもしれない。けれど璃紗にとって、海香は何者にも代えがたい存在なのだ。

 私はきっと海香を失うことに耐えられない……。

 運命、という言葉がある。変えることができない現象や過去があることは璃紗も理解はしている。しかし璃紗はたぶんその運命の輪の外にいる。

 世界を変える力を、璃紗は手にしている。


 ***


 目を覚ましたのは前から一週間たった日の夜だった。現実の時刻と意識の世界の時刻は同一で、同じように経過していく。璃紗はいつものように白衣に着替え、何気ない顔で父親たちのいる部屋に行った。

「やあ、璃紗。こんにちは。コーヒーを作ってくれますか? 璃紗はコーヒーを淹れるのが上手だからね」

 いつになく機嫌がいい父親はそう言いながらも忙しそうに両目を機械のモニターたちに向けている。何か新しい発見でもあったのかもしれないが、聞いたところでまだ璃紗にはすべてを理解はできないだろう。

「わかった。でもコーヒー豆を取りに行かせて」

 そういって部屋から出た。もちろんポケットの中に、父親の部屋から盗んだサーバールームへの鍵を隠し持って。

 自室に戻ってデバイスを取り、サーバールームへ駆け込む。あとはハッキングを仕掛けて、海香の運命を変えればいい。

 意識の世界での璃紗は法学部志望のただの女子高生だけれど、この世界での璃紗は優秀な技術者兼科学者の卵でもあるのだから、それは容易いことだった。

「見つけた!」

 数字と文字の羅列の中から、海香のプログラムと思わしきデータを発見した。あとはこれを書き換えればいい。そう考えて、キーボードに指を置いたときだった。

「神様になるつもり、璃紗?」

 はっとした璃紗が顔を上げると、無表情の母親が立っていた。赤いハイヒールに白衣を着ている奇抜なセンスを持った母は、父同様変人で、天才で、なぜかピンヒールで歩いても足音がない。

「……ご、ごめんなさい」

「怒ってないわよ」そういう母親の声音は特別優しくもなかったが、確かに怒っている、という風でもなかった。「別に、私たちにはオブジェクトの運命を書き換える特権くらいあってもいいと思うし」

「え? ほ、本当に?」

 意外にも母は、規約に抵触しそうなこの行為を見逃すどころか賛成してくれようとしているらしい。

「それであなたが幸せになれるなら、止めないわ」

 まっすぐにこちらを見る母に射すくめられたように、璃紗は一瞬、言葉が出なくなった。

 神様になってもいい。海香の運命を、変えてもいい。私が、海香を。海香の人生を……。海香は……。

 海香はこのままでは、死んでしまう。けれどそれに介入することは、本当に正しいのだろうか。大切だから、死んでほしくない、消えてほしくない、そう思うのは当たり前のことだろう。けれど、ここで運命を変えるのは、海香のためになるのだろうか。

 海香が死を望んでいるとは思わない。けれど、他人に運命を握られ、他人に支配されることを海香が望むとも思えない。ましてねじ曲げられた運命のことを知らず生きることを、活発で明るい彼女が許せるとも思えないのだ。

 海香にとっての一番の幸せと結末。それは――。

「でも、私、海香と一緒にいたい……」

 涙がぼろぼろと零れ、母は今度こそ優しく璃紗を抱きとめてくれた。

「そうね」

「けど神様になんてなれない」

「うん」

「私は海香の友達でいたいの……!」

 それから子供のように母親の腕の中でひとしきり泣いた。

 海香、海香。

 初めて会ったとき、彼女はなんと自分が言ったか覚えてくれているだろうか。

――璃紗っていい名前だね。『り』の字は、瑠璃色の璃でしょう? 瑠璃色も、海みたいで好きな色だよ。ほら、私の名前も海が入ってるから。海の色も好きなの。

――私たち、きっと良い友達になれるよ!

 そんなの、かなり無理なこじつけじゃない?

 泣き終わるころ、それを思い出して、少し笑った。


 ***


 花火大会が開かれる日、璃紗はまた花を持って海香のいる病院に行った。一週間ぶりに会った海香は髪を剃っていて、やつれて頬がこけている。だが笑顔を浮かべるとえくぼが出るところは、昔と変わっていなかった。

 十八時半になり、中庭のようなスペースで花火大会が開かれた。小児科病棟にいる子供やその保護者はもちろん、看護師や医師に混ざり、大人の患者もいた。その輪の中に入り、璃紗と海香は花火で遊んだ。

 ぱちぱちと爆ぜる線香花火を眺めながら、海香が言った。

「璃紗、今までありがとう。でももうお見舞いには来ないでほしいんだ。勝手言ってごめんね。けど、璃紗には元気な自分の姿だけ見ててほしいの」

「……そっか」

 海香の言葉、一つ一つが胸にしみて痛かった。けれど、話す海香も辛いはずだと璃紗はこらえる。

「次の手術、難しくてさ。二十九日にやるんだけど、そこで天国に行っちゃうかもしれない」

「…………」

 八月二十九日。それは成瀬海香というオブジェクトが意識の世界から削除される日だった。璃紗はいよいよ目が潤み始めた。現実世界での自分の決断が本当に正しかったのかすら揺らぎ始める。

「死ぬのは怖いよ」線香花火の黄色い光を見つめながら、ぽつりと海香が言う。「でも、病気がきっかけでいつも喧嘩ばっかりのお兄ちゃんと仲直りできたんだ。悔しいけど、悪いことばっかりじゃなかったんだよね……」

 海香は微笑んだ。

「私、璃紗に会えてよかった。病気になったのは辛いことだったけど、自分の人生がこういう風でよかった」

 その言葉に、璃紗ははっとさせられ、それと同時に、安心した。

 ああ、海香は自分の人生に満足しているんだ。

 ならば璃紗がやれることも、言うべきことも、もうただ一つだった。

「こっちこそ、ありがとう海香。大好きだよ」


 ***


 八月二十九日、璃紗は受験勉強を休んで一日中、スマホを握りしめてベッドの上にいた。緊張はしたけれど、不思議と涙はあふれなかった。

 夜になり、海香の母親から電話があった。

「もしもし、璃紗ちゃん?」

「はい……」

「海香がね……」

 涙ぐむ母親の声を聞きながら、璃紗は目を閉じた。海香は削除された。海香を産んだこの人もきっとただのオブジェクトなのだろうけれど、それでもやはり娘を失い涙を流す母親の声は胸を痛ませた。

「今夜、お通夜をするんだけど、来れるかしら?」

「はい、大丈夫です。参列させていただきます」

 電話を切り、下の階のリビングに降りる。既に帰宅している父親がいた。

「お父さん、車出してくれる?」

「ええ、構いませんよ」

 今日が海香の命日になることは父にも伝えてある。だから、送迎のためわざわざ『サラリーマン』の仕事を早帰りしてもらっていた。

 夜の高速を走り、海香が待つ海の見える街へ向かった。海香の望みで葬儀は病院の近くの教会でするらしい。車の中でふと父親が言った。

「……実はあの子のバックアップをとっておきました」

 めずらしくこちらの気持ちを伺うように父親が言う。

「どうしますか? あなただけ会うこともできますよ」

「いらないよ」

 相変わらず人間の感情というものに疎い父に呆れながら、それも父らしいと思う。

「そうですか。秋穂さんも璃紗はそういうだろうと言っていました」

 秋穂は母親の名前だ。

「たしかにお母さんなら私の気持ちもわかるかもね。少なくともお父さんよりは」

「なるほど。どうにも私は昔から人間のこととなるとダメですね」

 教会の前につき、父に礼を言って車から降りる。

 丘の上にある教会からは海が見えた。月の光が反射して波がきらりと光っている。

 海香は死んだ。海香は生きていた。

 たとえ生命のないオブジェクトだとしても、たしかに私の心の中で、あの広い海と共に笑っていた。

 夏の終わり、海香がいた。


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