第25話・のえるの涙

もうじき5月になる。

一片の雲もない青空の下、ゆるやかに流れる川がキラキラ光り、餌の小魚でも探しているのか、一羽の白鷺しらさぎが浅瀬をゆっくり歩く。遠くからは子どもたちが河川敷でサッカーや野球にきょうじる声が聞こえてくる。

実におだやかな土曜の昼下がりであった。


「……………」

「……………」


そして階段に腰かけた制服姿の二人が、同じような体勢で、同じような形をしたクレープを握りしめたまま動きを止めていた。違うのは大樹のクレープの形が左肩上がり、のえるは右上がりという点だろうか。お互い相手がかじったサイドが高くなっているのだ。


「ささっち、これ…」

「うん、詰んでるなぁ…」

捨てるのはもったいない。クレープを手でちぎるのは至難しなん。と言ってこのままぼけーっと冷えてゆくのをながめているのも芸がない。

「あー、これはあれだ、のえる」大樹がおもむろに言った。「たぶん気にしたら負け、ってやつだ」

「…せやな。ほな…あ、そうや!」

「!?」大口を開けてクレープにかぶりつこうとした大樹の手が押さえられた。

「さっきは口を付けてないとこ、って言われたからちょっと遠慮してん。もう一口もろてええ?」

そう言ってにっこりと笑う。

「あ、うん、いいよ」けっこう大胆にいってたけどなあ、というツッコミは決して口に出さずに素直に差し出す。大樹も大人になったのだ。

「ふぁい、ささっひも。」

「おう」お返しの一口をいただく。

そして二つのクレープは、なかよく平たんな形になった。二人はどちらからともなく顔を見合わせ、にひひと笑って、残りのクレープにとりかかった。



食べ終わった後も、二人はしばらく階段に座り込んだまま、平和な気持ちで流れる川を眺めていた。


「…昨日な」やおらのえるが口を開く。「カッシーと帰りの電車で、ささっちのこと、話しててんけど」

のえるの横顔は真剣なものだった。大樹は黙って頷く。

「――ウチはよう分かれへん、って。優しい人なんか、怖い人か、それともイヤ~なやつなんか」

「そっか。」

のえるからの評価としてはそんなものだろう。むしろ愛想を尽かされずに済んでいるのは、彼女のおおらかな性格のおかげだ、と大樹は思う。

「カッシーは、たぶんええやつや、でも大樹はかしこい。知らん間に深いところまで見透みすかされとる気がする。下手に隠し事でけへん、怖いやっちゃで、って」

「へへえ。――喜んでいいか微妙な評価だな。」

こっちこそ見透かされてるじゃないか、と悠星の洞察力に改めて驚きながら、ごまかすように笑った。


「ささっち」のえるの声が張りつめる。

「――どうした」

「やっぱり、ウチは、ささっちには、本当のことを知っといて欲しい。」

あえぐように、苦しそうに、少女は言葉をつむぐ。

「え………」

それは果たして、付き合いの浅い自分が、本当に聞いていいい話なのだろうか。大樹は逡巡しゅんじゅんする。

「カッシーにも話してないねん。もし話して笑われたりしたら…もう、ウチは友達ではおられんようになる」

悠星ならあるいは、重苦しい空気を和ませようとして、冗談のひとつでも飛ばすかも知れない。

「――わかった。」大樹は心優しい少女のためにひとつ、決心を固めた。「最後まで、真面目に聞くよ」

のえるはその答えに安心したように、ふっと小さく息をついた。

「その—―ちょっとだけ付き合うた先輩やねんけど…どっちか言うと、男の中では小柄な人やってん」

昨夜、大樹がどうにもに落ちなかった部分であった。のえるをお姫様抱っこするなら、それなりの体格や筋力がなければ無理な話で、つまりそれは、付き合う前から分かっていることのはずだった。もしのえるの「夢」が交際する絶対条件ならば、その先輩の告白を最初に断っていなければおかしい。付き合っておいて、無理難題を突き付けたとしたら、それは余りにも悪質だ。大樹がのえるのすべてを知っているわけではない。しかし、それでも、およそのえるらしくないやり口だった。

「ウチには優しくしてくれて……ちょっとお兄ちゃんに似てる人やったわ。付き合ってるうちに好きになっていくんやろか、と思って、告白をオーケーして…。それで、1週間目にデートして…先輩の家に誘われて…ウチも、彼女なんやし、そういう事もあるんやろな、ってある程度覚悟はしててん」

そこまで話して、ふ――っとため息をつく。大樹は無言で続く言葉を待った。

「それで…部屋の中で抱きつかれてな、その時先輩が『ママー』って。ちょっとふざけたような感じやってんけど、ウチ、それ聞いた瞬間に頭が真っ白になって、思わず『ウチ、ママやないです!』って大声出してもうて」

それはそうだろう。兄のようにしたっていた男に突然そんなことを言われたらびっくりする。

「…そしたら先輩が、笑いながら『のえるちゃんにこうして甘えるのが夢やった』って。それで今度は、なんか頭の中が、す―――って冷たぁなってな。なら先輩、ウチのことお姫様抱っこしてください、ウチの夢です、言うたってん」

「それで、即答されたのか」

「うん。そんなん無理に決まってるわ、て。――先輩、ちょっとわろてたから、ウチの言うたんが冗談やと思いはったんかもわかれへんけど。……それで、ウチ、先輩の家を飛び出して、もう、それっきりや。お互い連絡もないわ。どっか、よその県の大学に行った、いう噂は聞いてんけど」

「なるほど、確かに、悠星には話しづらいかもな」

「――昨日はウソついて、かんにんな」

ウソ、ではない。

昨日、のえるが話したことは、決して作りごとではなかった。だが、もっとも肝心な部分が省かれていびつなものになっていたのだ。

おどけていたのえるの姿が、今にして思えば痛々しい。


「話したくないことを、無理に言わなくてもいいと思う」

大樹は誰にともなく言う。

「ふふふ、やっぱりささっちは、優しい人やねんな。あの舌打ちは、ウチを助けてくれたんやろ?」

「あれは――ただの悪い癖だよ。ごめんって謝ったろ」

「ウチ…先輩のこと、傷つけてしもうたんやろか。そんな事くらいなら、って笑ってガマンせなあかんかったんやろか。それとも最初から告白なんて断ればよかったんやろか……今でも……分かれへん…」

それは次第に、鼻声に転じてゆく。

のえるは膝の上で組んだ腕に顔をうずめた。しばらくして、その腕の中から嗚咽おえつが聞こえ始める。

「のえる、そで、汚れるからこれ使え」大樹はポケットから取り出したハンカチをそっと渡した。

「ひっ、うぐっ、おっ、おおぎに…」

子どものように泣きじゃくっているその背中を、大樹はゆっくりとさすり続けた。


初夏が近づいている。草の匂いが混じった涼やかな風が、優しく二人を包み込んでいた。

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