第9話・君の名は。①

—――金曜放課後の図書室。

それは、週末のどこか浮かれた空気をよそに、いわゆる「受験ガチ勢」が集う場所。と言っても、ここ朋学館高校の受験組は、多くが無難な地元の国立大学狙いである。超難関大学や医学部の志望者のように、進学塾にまで通おうとする者はほとんどいない。

大樹は基本、自宅で勉強するタイプである。しかし今日は色々とあって授業に身が入らなかったため、待ち時間を利用して図書館で復習することにしたのだ。


「久しぶりに来たな、ここ」

思わず大樹は深呼吸した。図書室に足を踏み入れるのは、入学時に数冊、本を借りて以来だろうか。建物に充満する紙の匂いが心地よい。

「――このへんにするか」

大樹は図書室の奥まった一角にある、仕切り付きの座席をひとつ確保した。

周囲には数人の生徒、主に3年生であるが、それぞれノートや参考書、電子教材などを開いている。誰も他人のすることに干渉する者などいない。聞こえてくるのはノートにペンを走らせる音くらいなものである。


「へえ、珍しい、佐々岡くんが来るなんて」

大樹が午前中の科目に取り掛かったとき、後ろから小声で呼びかけられた。

「――委員長」

後ろに立っていた円が、ちょっと外に出よう、と出口を指さした。


「言ってた用事、片付いた?」

「お陰さまで何とかなったよ。ついさっき、ね。」

「――よかった。」

「ご心配をおかけしました」

二人は図書室の前にある談話コーナーで並んで座った。

「委員長は、よく来るの、ここ?」

「私は今日みたいに時間が空いた時にね。塾に行くんだよ、6時から」

「あ、塾に通ってるんだ。どこの?」

「駅前の昇道ゼミ。うちの高校から通ってる人、少ないけどね。」

「あー、あの進学塾かぁ。俺には敷居しきい、高そうだな」

大樹は肩をすくめた。

「で、今日はどうしたの?」

「いや、午前中の授業内容が自信なくって。委員長、ちょっとだけ、ノート見せてくんないかな」

「なんか集中できてなかったよね。封筒の匂いを嗅いでたりとか。」

忍び笑いをしながら円が言う。

「うわ、何もかも見られてた。恥っず」

「用事って、あの封筒絡みだったの?」

「うん、そう。あれがトラブルの素っていうか…まあ、ゆ…樫井が助けてくれたおかげで片付いたけど。」

「ふうん、そう。――なら良かった。で、ノートは何を見たいの?」

「すいません、物理と数Ⅱです。よろしくお願いします!」

大樹は立ち上がって敬礼した。

「わかった。先に席に戻って勉強始めといて。準備して持って行ってあげる。成績を上げる第一歩は、その日のうちの復習だからね。」

そう言って円はその場で数冊のノートを取り出し、マーカーで線を引き始めた。

「助かります」大樹は大げさに頭を下げた。



「はい、どうぞ」

—―大樹が座席に戻って小1時間。

丁寧にポイントを示したノートとともに、円が大樹の座席にやって来た。

「は。このお礼は必ず」小声で言いながら、大樹はうやうやしく受け取る。

「いいよ、このくらい別に。――あ、一つあるか」

円は大樹への頼み事を何か思いついたようだ。

「何でもどうぞ」

「私、クラス委員はやってるけど、委員長じゃないから。あれはまた別の役職。ちゃんと名前で呼んでね。私は『佐々岡くん』って言ってるよね?」

まるで幼子に噛んで含めるような口調だった。

「うっく…あー…はい、了解しました、宗方さん」

大樹は頭を下げた。

「そろそろ時間だし、私行くね。ノートは週明けでいいよ」

「え?いいの?」

「うん。今のでだいたい頭に入れたから」

そう言い残して颯爽と去ってゆく委員長、もとい宗方さん。制服の上にカーディガンを羽織はおった後ろ姿を見送りながら、何もかもがかなわないと、大樹は苦笑を浮かべ、首を振るばかりだった。



「――ふう。よし、何だかんだ、あらかた見直せたな」


貸してもらったノートのおかげで、その後の復習は怖いほど順調に進んだ。

円のノートは、習う内容がすでに理解できている状態で書いたのかと思うくらい、実に分かりやすいものだった。

「あの人、なんでこの高校にいるんだろ」

大樹は改めてノートを見返し、首を傾げる。たしかこの高校からそう遠くない中学校出身と聞いていたが、彼女ほどの能力ならば、もっと上位の進学校を狙えるはずであった。

「…ま、そこらへんを聞くには、まだまだ距離があるかなぁ」

正直、当分の間、下手に円の機嫌を損ねるわけには行かないだろう。


大樹が広げた教材を片づけ始めたとき、内ポケットでスマホが振動した。

「お、いいタイミング」

それはのえるからの、「練習が終わった」という通知だった。


「おーい、ささっちー」のえるが校門の近くで手を振りながら大樹を呼ぶ。

「おーう」大樹は手を振り、何と呼びかけて良いか分からず、とりあえず笑顔でごまかしてのえるに駆け寄った。


「こっちやで」のえるが大樹の自宅と逆方向の道を指した。昼間見たジャージの上に厚手のスプリングコートを羽織っている。一枚上に着こんだだけなのに、身長が高いせいか、じゅうぶんサマになっていた。

「あったかそうなの着てるね」並んで歩きだしながら大樹は言った。

「ウチ、寒さには弱いねん。それに練習で汗かいた後やから、体冷やして風邪でもひいたらみんなに迷惑やし」

「バレー部の副主将なんだっけか、さすがだな。――あ、そういえば『いつもの店』って言ってたけど、どのへんにあんの?」

二人で歩き出しながら大樹は尋ねた。

「柿本駅に行く途中や。こっからやったら歩いて5分くらいやな。サンディーズっていうファミレスやけど、ささっちは知らんかなぁ」

「あー、見かけたことはある。まだ入ったことはなかったな。俺の家からの最寄りは隣の小野谷駅だから、あまり柿本は使わないんだよ。」

「あ、ささっち、家が高校の近くやねんな。中学校も小野谷やの?」

「そうそう。まあ、うちの高校に来た奴は少ないけどね。」

「そういえばウチも小野谷中出身の人は知らんわ。」

「悠星とは同じ中学なんだっけ」

「せやで、梅ヶ丘中。ウチな、中学校入学するときに、父ちゃんの仕事の都合で転校してきてん。」

「元は大阪の方にいた、とか?」

「あ、やっぱり分かってまうんや。それよう言われるわ。小学校まで天王寺におってん。でもそんなに大阪弁使てるかなあ、ウチ」

「うん。めっっっちゃつこてる。」

「カッシーにもよう言われんねん。あっちも訛ってる思うねんけど」

大樹の取ってつけたような大阪弁モノマネに、のえるは少しむっとする。

「ああ、悠星もちょっと関西弁だな」

悪い悪いと両手を上げつつ大樹が頷く。

「せやろ!ささっちもそう思うやろ!でも絶対認めよれへんであの男、今度聞いてみたらええわ」

大樹の賛同に鼻息を荒くするのえるであった。

実のところ、大樹は円以外の女子と二人きりで話すことは滅多になく、今日は間が持つだろうかと、少し心配していたのだが、どうやら杞憂きゆうに過ぎなかったようだ。のえるも悠星に負けず劣らず、コミュ力おばけなのかも知れない。二人はあっという間に、目的地に近づいていた。


「お、あそこがそう?」

大樹は夕やみに煌々と浮かぶ、『Sandie's』と書かれた黄色の看板を指した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る