第8話・屋上の攻防

「よっし、間に合ったな」

階段の最上部にあるドアを開け、屋上に誰もいないのを確認して悠星が言った。

屋上に出るドアのカギが壊れているのは一部の生徒の間では有名になっていて、そのために、ここはちょっとした告白スポットになっている。

「オッケー、じゃ悠星、打ち合わせの通りでいいか?」

やはり現役の野球部員に体力ではかなわない。一歩遅れて屋上に到達した大樹が少しばかり息を切らせて言った。

「おう、俺はこっちに隠れとくわ。出番がないことを祈っとくで」

悠星は屋上に突き出している出入口の向こう側を指す。その呼吸はまったく乱れていない。


―――悠星の考えた作戦はこうだ。


さすがに大の男が二人で相手を待ち構えるわけにはいかないので、まずは大樹が単独で待機する。その間、悠星は出入口の陰に潜んでおく。そして、もしもラブレターが人違いなどではなく、大樹本人へのものだったなら、悠星は見つからないようにやり過ごす。だが、それがもし悠星へ宛てたものだったり、不測の事態が起こったりした場合は、タイミングを見計らって登場する—――。


「悪いな悠星、思ったより寒かった、ここ」

大樹は自身の両肩をこすりながら言う。

「このくらいええって。俺が考えた作戦やしな。」

「――じゃ、合言葉はあれでいいな」

「おう、頼むわ」

そのとき、ドアの向こう側に人の気配がした。二人は顔を見合わせ、慌てて配置についた。

ガチャ…という音とともに、ゆっくりドアが開く。現れたのは、ショートボブを、茶髪と言うよりも金髪に近い明るい色に染めた、小柄な女子生徒であった。目つきはやや鋭く、制服を着崩している。ラブレターの文面から、大樹が勝手に抱いていたイメージとはちょっと違っていた。これだけ目立つ容貌なのに全く見覚えがないということは、文系のクラスの生徒なのだろうか。その少女は、あたりをキョロキョロと見まわしたあと、大樹の姿を見て少しためらったようだったが、それでも意を決したようにつかつかと近付いてきた。


「ここ…誰かほかに来てなかった?」

その少女は大樹の顔を気の強そうな目で、下から見上げながら尋ねてきた。けっこう強い、香水っぽい匂いがツンと大樹の鼻を突く。

「いや、一応、俺ひとりだけど…」

大樹はゆっくりポケットから封筒を取り出した。「この手紙の人?」その封筒からかすかに感じた香りは、確かにこの少女のものだった。


「私の手紙……!どうしてあなたが?」

小柄な少女が息をのむ。やはりこの手紙は、大樹に宛てたものではなかったようだ。

「まあ…俺の下駄箱に入ってたもんで」

「え、だって、私、ちゃんと確かめて…ほんとに、あんたの所に入ってたん?」

にわかに少女の口調が変わり、声がとげを含んだものになった。

「あ、いや、まあ…最近よく樫井と間違えられるし、これもそうかなと思ったんだけど……」

気圧けおされた大樹が、つい口ごもってしまう。どうやらそれが悪印象になったようだった。

「ほら!なんで悠星くんに出したって知ってんの?誰の名前も書いてないのに!」

そう言いざま、少女は大樹の手にあった封筒をひったくるように取り返した。

宛て名も差出人も書かれていないのは、単なるうっかりではなく、彼女の強い警戒心の現れだったようである。しかしこの流れでは最悪、大樹が手紙泥棒あつかいされてしまう。少女の背後でひそんでいた悠星も、不穏な空気を感じ取ったようだ。昇降口の陰から身を乗り出して「俺が行こうか?」と、せわしなく指で合図を送ってくる。

だが、大樹は悠星にも見えるように、目を閉じて首を振った。

「いや…、俺の下駄箱に入ってたのは間違いないよ。クラス表示はあったでしょ。あいつは文系で、俺は理系。」

ゆっくりした口調で、少女をなだめるように大樹が伝える。だが、その言葉が逆に少女の怒りに火をつける結果となる。

「――私が入れたのは、文系のクラスやったけど」

今や少女の顔は青ざめ、手が小刻みに震えている。

彼女の言葉に嘘はないように思えた。ということは、誰かがいたずらで悠星の場所にあった手紙を、ピンポイントで大樹の所へ移したのか?そんな悪質な、手の込んだマネをする者が、果たしているだろうか?


―――限界か。


大樹は天を仰いだ。

いざとなったら『じゃあ俺、先に帰るんで』という合言葉を使って悠星を呼び出すことになっていた。今にも怒りを爆発させそうな少女を前に、ゆっくりと考え込む猶予はない。だが、彼女の取り乱した姿を、実は悠星が後ろで見ていました、というのは、やはり気の毒である。出来ることならば大樹だけでこの場をしのぎたいところだった。

すでに悠星は呼ばれるのを覚悟して、その身を隠そうともしていない。わずかでも少女が振り返ったら、すぐさま大柄な彼の姿が視界に入ることだろう。

だが、あきらめて合言葉を言おうとした大樹は、その寸前で、ある事に気が付く。


頭から、すっぽり抜け落ちていた、あることに。


「いや、理系の下駄箱ですよ。」冷静に同じ言葉を繰り返した大樹を、少女はキッと睨みつけた。構わずに大樹は言葉を続ける。

「今年の2年生は、4組から理系なんです―――先輩。」


大樹の言葉が聞こえたのだろう。ぎょっとした悠星がコケそうになりながら、慌てふためき元の場所に身を隠した。体育会系の悲しい性と言うべきか。彼もまた、『先輩』というワードに極端に弱いのである。


「あ…あ……!」

淡いピンクの封筒を握りしめたまま、その女生徒はがっくりと肩を落とした。


彼女が勘違いしたのも無理はない。今年の卒業生と現3年生は2年連続で文系の志望者が多く、そのため1~4組が文系で、理系は5組と6組だけだったのだ。


「じゃ、これで失礼します」大樹は一礼して昇降口のドアに向かった。

ぼんやりとその姿を見送った少女が、後方で「あぁっ!」と驚きの声を上げる。

さすがに気が付いたようだ。大樹と悠星の後ろ姿が酷似こくじしていることに。


ガチャリと後ろ手にドアを閉めて、大樹はほっとため息をつき、ぽつりとつぶやいた。

「最初にくるっとターンして見せれば早かったな」


相当に間抜けな光景ではあるが。続く。

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