第24話 橘ヒロヤ、護衛者の誇りを持つ
夜の黒に東京の街灯りが色鮮やかだ。
日本に戻ってきたのだ。離れたのは二か月ほどだけなのに、別世界に戻る気がする。確かに、あの異国の地で息をしていた。
妃奈子があまりに不安そうなので、ヒロヤは彼女の手を握る。
妃奈子にとって忌むべき存在、椎名福助。その人はもう、ヒロヤにとっても忌むべき存在となっている。有川の言う肩入れしすぎとは、今の俺のことだとヒロヤは分かった。
ヒロヤの心の一部が妃奈子の目線だ。妃奈子を苦しめる人間が憎いし、妃奈子の不幸を許せない。俺は、こんな自分になりたかったから護衛者になったのか、と考えてもヒロヤには分からない。
力を持つことに意味を感じることのない、真に強い橘武文とは違って、ヒロヤにとって力は使いたいものだった。
父からヒロヤを守って、結局自殺した母を思う。狂気すら感じさせる程の癇癪持ちだった父に毎日大人しく殴られた母は、今思えば、彼女が標的になることでヒロヤに父の暴力の矛先が向くことを防いでいた。
『お母さんをいじめないで』
その五歳のヒロヤの言葉に嘘はなかった。ただ、『本当』があったのかは怪しいとヒロヤは自分を許せないでいる。五歳という、刷り込まれている最中の年齢。きっと、何かアニメか、幼稚園の誰かの受け売りの言葉だ。
それが引き金になり、父はついにヒロヤを殴った。頭を殴られ、数針縫ったらしい。縫われた記憶はない。だが、鮮明に覚えていることがある。
母は急いでヒロヤに駆け寄り、涙した。父はヒロヤをもっと殴りたかったらしい。母にどけと言い、彼女のことを何度も蹴った。そして、母はヒロヤから離れた。一瞬、見捨てられたのかと、ヒロヤは深い絶望を感じた。
その、さらに一瞬後、台所から最も大きな包丁を持った母が、背から父を刺した。一撃では父は死なず、父は母に向き直った。
今まで母とヒロヤを殴って遊んでいた父が恐れて、今まで黙って殴られていた母には一片の恐れも後悔もなかった。
その母の顔に、幼く言葉を知らないヒロヤは、強い憧れを感じた。言葉を知った今、その思いを言葉にするなら、『この人について行きたい』。
父が病院に運ばれ、直後に母は離婚を成立させた。やがて父は死んだ。もはや母に、父への恐怖はなかった。
その数日後、七月十日、ヒロヤの六歳の誕生日に、母と二人で一日中遊んだ。父、夫がいない二人は、幸せだった。ケーキを食べた。食べたいものは何でも食べさせてもらった。甘いものばかりだねと二人で笑った。
『ヒロヤは今日からここで暮らすんだよ。また会えるよ。ヒロヤはゆっくり来てね』
ヒロヤを孤児院に預けた母の言葉の意味が分からず、ヒロヤは頷いて、笑顔で手を振るだけだった。
警察が殺人事件で母を探し始めた時には既に、母は自殺していた。ヒロヤを犯罪者の子供にしたくなかったのではないか、というのが孤児院の人や、武文の共通の意見で、ヒロヤもそう思う。
妃奈子を守ることができたら、きっと自分はもっと強くなれるだろうとヒロヤは信じている。
暴力の衝動と縁を切れなくても、暴力に支配されない強い自分であり続けたい。だからヒロヤは護衛者の道を選んだ。旅人が一番明るい星を見て迷わずに歩くように、守る人、今は妃奈子、がいれば、ヒロヤの衝動が人を助ける。
自身の暴力を恐れて死んでしまった母を、ヒロヤは超えたい。人を殺せる力を持って、人を生かす力を持ち続ける。そのような誇り高い自分になることこそが、ヒロヤの夢だ。
「妃奈子さん、俺は戦います」
妃奈子の手をそっと握り、ヒロヤは妃奈子に笑う。
「俺は、妃奈子さんのために戦っているのではありません」
妃奈子が、疑問を持ったようにヒロヤを見る。
「俺のためでもあります。最高の護衛者になることを目指します。それは俺の誇りです」
泣き出した妃奈子に、もう絶望の色はなかった。
妃奈子に肩入れしていることは、決して悪いことではない。人の心に寄り添うことも護衛者の誇りだとヒロヤは思った。
ヘリコプターから降りると、たくさんの警察等が待機していた。
降りたのは、椎名ロックのホテルの上のエアポートだ。普段は客のプライベートの飛行機が行き来する。
ヘリを少しずつエアポートに近付けていく。ヘリが着陸する前に、ヒロヤははしごに捕まり、警察等に拡声器で叫ぶ。
「撃たないでください。妃奈子さんが乗っています」
何人かが率先して銃を下ろす。妃奈子が出てくると、驚きと感嘆の声があがった。ヒロヤが手伝って、妃奈子をエアポートに下ろした。そして、ヘリを下ろし、セボーラとアセウガが下りた。ワーレブルア人だと警察等がざわめく。
妃奈子が警察と、マスコミの前に進み、彼らを視線で刺した。そして、記者にマイクを向けさせた。
「椎名福助様にお話があります。機会をくださいませんか」
椎名福助は、エアポートの下、ホテルの最上階にいた。ここに妃奈子達が来ることをカメラで見ていたらしい。
ソファに座っている椎名に詰め寄る。
妃奈子とヒロヤ、セボーラ、アセウガは、フォービクティムに椎名ロックがスパイを送っていたこと、そしてそのスパイに妃奈子を襲わせて、フォービクティムが裏切ったと主張したことの証拠を突き付けた。
「で、どうした?」
扇子で扇ぎながら言う椎名の笑みに、ヒロヤは闘志を燃やす。
「真実を明らかにします。今すぐにワーレブルア国の鉱山から手を引き、永久にディザイアモンドを採掘しないでください」
「で?」
椎名の歪んだ口角に、話しが速すぎる嫌な人だ、とヒロヤは呆れる。何故、マスコミや警察に言う前に椎名に言っているか、理由はある。
「桜井妃奈子さんの脚のリングを外して下されば、あなたのことを殺しません」
椎名の目が大きく開かれた。
「お前を雇ったのは、この私だ。雇い主を殺すというのかね」
「俺は、桜井妃奈子さんの護衛を任されました。あなたはフォービクティムに潜入させたスパイを使って妃奈子さんを殺させようとした。つまり、あなたは俺の敵です」
「妃奈子、こいつ頭がおかしくなったんじゃないかね?」
椎名は、急に話を変えた。
「いいえ。そのようなことはありません」
妃奈子は、椎名に一歩近づく。
「あなたはもう、ディザイアモンドを手にいれることができません。私の脚に付いている五十カラットの石だけでは、兵器も作れませんから、研究することも無駄です。ですから、私からリングを外しても、あなたに痛手はないのです」
妃奈子の瞳に、恨みがある。そして、それ以上に、やっと正面から戦うことができるという、強い意思がある。
しかし、椎名は大笑いした。四人が警戒する。
「痛手はない? 馬鹿言うな」
椎名が手を上げると、部屋に十人の、戦闘服を着た人間たちが入ってきた。ヒロヤだけでなく、セボーラ、アセウガが妃奈子を庇うように立つ。
「お前の父、亘は生意気すぎた。成り上がりふぜいがこの椎名ロックに届こうとは」
妃奈子が目を見開く。
「まさか、あなたは父への恨みからこのリングをはめたのですか? 人に付ける金庫であるというのは、表向きだったのですか?」
「どこの国からも、地域からも、資源を取りつくした。後は、持続可能な成長という、つまらんテーマで経済を回すのか、そう思っていた」
妃奈子が、スカートをぎゅっと握る。怒りを律するように。
「やっと、新しい資源が発見されたのだ! 一番に乗り込まなければ、制圧せねば、勝てない。だから、先を越そうとした桜井亘を囲むのは、当然のことだ」
「では、私にリングを付けたのは、お父様への威圧ですか!」
椎名は立ち上がった。
「なんだ、ようやくわかったのか」
よろける妃奈子を、ヒロヤが支える。
「妃奈子、君は一生リングをして生きろ。誰かの妻になり、大人しくしていれば、それはただのアクセサリーも同然よ」
「アクセサリーですって?」
椎名に隙を与えず、妃奈子は叫んだ。
「足かせと同じじゃない!」
「ヒロヤ!」
椎名が矛先を変えた。ヒロヤは警戒しながら椎名を見据える。
「契約金、二千万を二億にしてやろう。妃奈子を黙らせろ」
ヒロヤは妃奈子の肩を抱く。椎名は理解できないようであり、顔を歪ませる。
「契約の変更なら、協会を通して下さい。俺は好き勝手に暴れるのではありません。妃奈子さんのリングを取って下さい」
椎名は、無言で扇子をがつっとテーブルに置いた。
それを合図に、ホテルの至る所から爆発の音がする。
「逃げよう!」
セボーラが叫んだ。
ヒロヤ達は逃げるしかなかった。
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