第23話 橘ヒロヤ、無力を感じる
妃奈子をフォービクティムのボス棟に隠して、セボーラに任せた。
ヒロヤとフォリアとアセウガは、目の前の敵を見据える。
椎名ロックの者達だけなら良かったのだが、残りは現地のフォービクティムのメンバーだ。臨戦態勢になっても、アセウガの絶望の色は消えない。
「しっかりしろ! 情に流されるな!」
フォリアの言葉はアセウガに向けられているが、ヒロヤにも沁みる言葉だ。
怒りに任せてブランシュを殴り、蹴った自分が妃奈子を恐怖させたことが辛く、申し訳ない。妃奈子を想っての怒りと言えば都合が良い。だが実際は、あくまでも自分の怒りでしかない。
妃奈子を守れる人間になりたい。
「ヒロヤ!」
声をかけてくれたフォリアは、ヒロヤが焦っていることを分かっているのだろう。落ち着かなければならないと、ヒロヤは頭に上った血を下げたい。下げたいのだが。気がつけば、ヒロヤは銃弾に構わず走っていた。
「馬鹿!」
フォリアの叫びは聞こえていたけれど、フォリア、アセウガと銃撃戦をするエルブ、グランに、ヒロヤは走って突っ込む。ヒロヤはナイフでエルブの腹部を刺す。鮮血が飛び散った。どうせあのくらいでは死なないだろう、とヒロヤは冷静にならないようにして、倒れるエルブを視界から外す。
グランを見て、ヒロヤは血の落ちるナイフを構えながら、一歩、一歩と距離を詰める。その時、はっきりとグランの瞳が見えた。その瞳に、普段なら絶対に恐怖しただろう。だが、今のヒロヤは恐怖を感じなかった。熱い油を注がれたも同然だった。
「お前、人を殺したことがあるな?」
ヒロヤはナイフを構えなおし、グランの正面に立つ。ヒロヤの軽蔑の目に、グランは爆笑した。
「よく気がついたね。俺たち三人は、死刑囚だよ」
先に踏み込んだのはグランで、ヒロヤはナイフを躱したが、形勢逆転できず、ヒロヤは避けるばかりだ。
「お前ごと妃奈子を殺せって、命じられているんだ!」
ナイフを振り下ろされ、振り上げられる。ヒロヤは少しずつ感覚を掴んで、避ける動きを小さくする。冷静さが戻ってくる。円の中心に近づいていくように、ナイフの軌道を避けながら、敵の核に近づいていく。グランの目に、一抹の恐れが浮かぶ。
ヒロヤは今だ、と確信し、ナイフを振り上げようとして、止まった。アセウガの弾丸が、グランを貫いた。
ヒロヤは口元を押さえ、固まった。アセウガが、気分が悪そうに銃を整備する。
「ヒロヤ」
いつの間にか、自分でも分からないうちに両ひざをついていたヒロヤの肩に、フォリアが触れる。
「お前、こういうことしたかったかい?」
したくない。
声を出せず、首を振ることもできず、頭の中でぽつりと呟くように思った。
もし刺していたら、殺していたのは自分だった。ヒロヤは俯き、冷えた頭の中で似たような思考を繰り返しながら、妃奈子の体温を頼りに歩いている。
「ヒロヤさんは悪くありません、私のためですから」
繋いでくれる妃奈子の手は温かく、ヒロヤを許してくれている気がする。だが、妃奈子が許しても、自分は許されるのか。妃奈子に対して罪悪感を覚える。
妃奈子のために何をしても許されるのなら、なんだってすると、頭の中に浮かんだ。ヒロヤは自分の中の恐ろしい一面を見た。
「まずは、ゆっくり休んでください」
妃奈子の笑みに、すがる思いだ。
フォービクティムのボス棟から少し離れた、森の中の空き地にフォリアのヘリコプターを隠してあった。
「大丈夫ですか?」
妃奈子がフォリアに言う。フォリアはワーレブルアに残り、椎名ロックと政治家として応戦するという。痛々しいほどに悲しそうな妃奈子の顔に、ヒロヤも苦しくなる。
「元はと言えば、我らワーレブルアが君のお父さんに鉱山の共同開発を持ちかけたのが発端だ。君はまず、君の無事を第一に考えてくれ」
妃奈子の手をしっかりと握るフォリアに、妃奈子の表情は固いままだった。
セボーラとアセウガは操縦室にいる。操縦室と簡素なしきりで区切られた荷物起き兼四つの席がある部屋に、ヒロヤと妃奈子は座っている。
左隣にいる妃奈子に背を向けて、ヒロヤは右手から空を見ている。海が荒れている。ワーレブルアから離れていくにつれて、端末が拾う電波の種類が多くなる。その情報によると、妃奈子と共にヒロヤがワーレブルアにいた間に、日本では大きな台風があったという。
ヒロヤと妃奈子にとっては、その台風は、無いも同じものだ。その時、あのジャングルで、綺麗な脚と引き換えに命を強くした妃奈子を見ていた。
「妃奈子さん、ごめんなさい」
妃奈子が振り返る。ヒロヤは声が震えてしまいそうで怖い。
「どうしてヒロヤさんが謝るのですか」
妃奈子の声が暗い。
「ブランシュを殴って、ごめんなさい。妃奈子さんに怖い思いをさせて、ごめんなさい」
「いいですよ」
ヒロヤの心を空虚にするほどに、妃奈子はあっさりと言った。そして、彼女は再び、ヒロヤに背を向けて、空と海を見始めた。
「無駄なことです」
急に、ぽつりと妃奈子が言った。ヒロヤは胸の中に、小さいが硬いものを投げ込まれた。
「あの末端の男に何をしたところで、なんにもなりません」
確かにそうかもしれないが、ヒロヤはそのように割り切れなかった。
「あいつの、何も考えずに人を苦しめている姿を許せませんでした。ごめんなさい」
「感情の浪費なんですよ」
妃奈子の、何もかもを水底に沈めてしまったような、暗さのある声に、ヒロヤは何も言えない。
「人の体力は無限ではありませんから」
美月に誘われて喫茶店に行った時にも、妃奈子はそう言っていた。自分の体力は、全て夢のために使いたいと。
「妃奈子さんの夢は、なんですか?」
話を逸らす形になってしまったが、ヒロヤは話を逸らしたかったのではなく、先の希望を見たかったのだ。妃奈子を守り切った後の、明るい未来に何があるのか。それがあるなら、ヒロヤも自分を律して立ち上がれる。
「なにが夢か、忘れました」
前は、自分の力で社長になることだと言っていた。黙ってしまうヒロヤに、妃奈子が振り返った。
「椎名お爺様を凌ぐ力を身につけて、お爺様を超えて、経済界に君臨したいと思っていました」
やはり、椎名への復讐心があったのだ。今まで強くあり、頑張ってきた妃奈子の裏を、ようやく見ることができた。
「でも」
妃奈子の声が、瞳が、揺れる。
「経済界に君臨して、何になるのか……。傷一つ無い、美しいドレスと靴に飾られた脚は、あのジャングルで傷がついた脚の価値を超えるのでしょうか」
妃奈子が、恥ずかしそうに微笑んだ。
「あの夜、お金の世界を悪だと思えないなんて言いましたが、迷い始めています」
妃奈子がたくさんのことを考えている。ヒロヤには、分からないことばかりだろう。
「リングを外したいです。でも、その後、どうなるのでしょうか。そもそも、リングを外せるのでしょうか」
「弱気になっては駄目です。二人でワーレブルアに行くとき、そんなに弱気でしたか?」
妃奈子の瞳の力が弱まっている。
なんて俺は無力なのかヒロヤは自分に苛立つ。
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