第19話 橘ヒロヤ、笑う

 朝。ヒロヤは日の出とともに起きた。


 妃奈子とフォリアとセボーラはまだ寝ている。

 ヒロヤは水分を取るという日課を無意識にしようとして、いつも水を置いていたところに手を伸ばす。伸ばしてから、ここは異国の地だと思い出した。自分ももっとしっかりしなければ、とヒロヤは両頬を手でばん、と叩いて、部屋の中の水を探した。フォリアのコップの中の水を、まあいいだろうと二口もらい、ヒロヤは格闘のステップをして、蹴りや突き、などの訓練をした。


「すごいですね」


 妃奈子がいつの間にか起きている。寝起きで、髪がぼさっとしていて、日本から着たままの制服も汚れているが、姿勢が良く、だらしなく見えない。さすがお嬢様だ。

「ヒロヤさんはやっぱり強いんですね」


 いつもより、声が間延びしていて、目も眠そうだ。気品はあるものの、いつもよりあどけなく見える。すると、急に妃奈子が立ち上がった。


「えい!」

 妃奈子がヒロヤの真似をして、宙を蹴る。

「あいた!」


 そしてバランスを崩して、布団に尻餅をついた。ヒロヤは口元を押さえる。


「大丈夫ですか」

 心配していると言うのに、妃奈子がヒロヤを赤い頬で睨む。


「笑うなんて酷いじゃないですか」

 口元を押さえたが、笑ったのがばれたらしい。

「だって、だって……こんなの、笑います!」


 拗ねる妃奈子を見ると、止まらないどころか、ますます笑えてくる。ついにヒロヤは腹を抱えて笑い出す。肩を竦め、笑う。妃奈子がふくれ面で背を向ける。


「すみません!」

「そんなに笑うなら、ちゃんと蹴ることができるように教えてくださいよ」


 腕を組んで赤い顔で睨む妃奈子。


「一年かかりますけど、いいですか!」


 ヒロヤはまた笑い出す。妃奈子がヒロヤの頬をつねるが、ダメージにならない。

 フォリアとセボーラが目を覚ましそうになり、ヒロヤは慌てて笑うのをやめた。


「内緒にしてください」

「誰にですか」

 妃奈子が口を尖らす。


「ええと……美月さんとか?」

「めちゃくちゃ馬鹿にされそうですもんね」

 これ以上笑わせないでくれ、と思うヒロヤの心情もしらず、妃奈子はじたばたする。


 朝食はジャガイモの具沢山スープだった。具は全て薬草でとても苦かったが。

 フォリアが難しい顔をした。何を言うのかとヒロヤは身構えた。


「フォービクティムを敵視する警察と戦うかもしれないが、とても歩きやすくて近道の街と、絶対に警察と出くわさないけどくそみたいな森、しかも遠回りの道。どっちがいいかい?」


 なんだ、こんなの森に決まっている、戦えば銃弾が減るかもしれないだろ、とヒロヤは思ったが、フォリアとセボーラの視線が明らかに妃奈子に向いている。

 ああ、そういうことかとヒロヤは苦い気持ちになる。


「なに言っているんですか! 森ですよ。ね、ヒロヤさん!」


 笑顔の妃奈子を見るフォリアとセボーラはとても心配そうだ。


 ざくざくと森を進む。薄暗く、地面を巨大な蔦が這う。椎名ロックの三人がディザイアモンド鉱山に近づいているか調査に行くのだ。しかも、セボーラ以外の隊員には一切何も言わない。


「仕方ない、疑うは大事」


 仲間を疑うのは、セボーラにとってはいい気持ちのしないことだが、頷いてくれた。


「ヒロヤ」


 セボーラは時折日本語で話しかけてくれる。

「妃奈子の護衛の君、妃奈子を守らないのか」

「守ることと過保護は違います」

「そうか」

 セボーラは感心したように頷いた。


 鳥が飛び立って、木がざわざわっと揺れた。現在、午後六時。朝からずっと歩き続けている。


「いやぁ、気の毒だねぇ」

「ボス、そんな風に言ったら可哀想ですよ」


 ワーレブルア語をいくらか聞いたので、ヒロヤにも少し分かってきた。言われてますよ、妃奈子さん、と思って隣を見ると、ふらふらしている。


「大丈夫ですか」


「お腹が……空きました。なんでヒロヤさんとお二人は平気なのですか」


 ヒロヤさんなんか、食べ盛りなのにとぶつぶつ妃奈子は言う。


「空腹を通り過ぎると、逆に何も食べたくなくなるから大丈夫ですよ」


「それは体に悪いのではないでしょうか?」


 ヒロヤはくすっと笑ってしまった。妃奈子がむっとする。


「また笑いましたね!」

「こんなジャングル歩いて体にいいもなにもありますか!」


 妃奈子がヒロヤを見て、足元を見なかった瞬間、転んだ。そして、脚を大きく開いて座ってしまった妃奈子が悲鳴を上げる。


「見ましたか! 見たんですか!」

「見てません」


「絶対見たでしょ!」

「見ましたよ!」

「酷い!」


「大丈夫です、俺は何も思いません」

「本当ですか?」


「訓練校時代に、格闘訓練で間違って先輩のズボンを下ろしてしまった俺にとって、どうってことはありません」


「そうなんですね!」


「二十代後半のお兄さんが雪だるまのパンツ履いてたのは笑いました」


「めちゃくちゃ覚えてるじゃないですか!」


 しかし、パンツを見られた恥ずかしさに意識を持って行かれた妃奈子は、無事に歩き切ったのである。


 野宿にしようと言って、セボーラが持ってきていた古いテントを広げた。なんとか四人が肩を寄せ合えば入ることができた。

 ヒロヤの包丁さばきは完璧で、フォリアとセボーラも感心するほどだ。


「最高位護衛者協会の前身は、最高位家政士協会ですので、護衛者は家事育児もこなします」


「いい旦那さんになりそうですね」


 妃奈子の笑顔に、ヒロヤは少し照れ臭くなる。

「でも、一年の半分以上空ける旦那です」


 別にいい旦那と言われても悪い気はしなかったのだが、ヒロヤはなんとなく言ってしまった。


 そっと妃奈子を見ると、鍋の火を見ていたので、ヒロヤは自分が気にしすぎたかと恥ずかしくなった。


 テントの灯りにつられたか、小動物の鳴き声がした。


「この鳴き声は、ワーレブルアウサギだ。食べられるぞ」


 フォリアはさくっと捕らえた。


「絞めましょうか」


 ヒロヤに、フォリアとセボーラはなんてことなく頷くが、妃奈子だけは分かっていないようだ。ヒロヤはテントの外に出て、ウサギを絞めた。


「無事に絞めましたよ」

「きゃあ!」


 妃奈子が真っ青になって叫ぶ。フォリアとセボーラは、まあ仕方ないねという顔をしている。


「妃奈子さん、普段から死んだもの食べてるじゃないですか」


「だって、怖いです……」


「死んだ直後か、死んでからしばらく経ったか、それだけのことです」


 そういってウサギを切って鍋に入れるヒロヤを、妃奈子は震えながら見ていた。

 少しの間煮込むと、食べごろになった。妃奈子はこわごわと、震える手でウサギ肉を口に運ぶ。


「どうですか」

「…………おいしいです」


 全員が大笑いしだしたので、妃奈子は恥ずかしそうに顔を赤くした。


 ディザイアモンド鉱山は、標高四千メートル。日本の富士山より少し高い。


「ディザイアモンドは、宇宙から来た隕石の元素、つまり地球にはもともと無かった元素と、炭素が結びついたものでね。圧縮の構造が既存の鉱物と大きく違う。セボーラ、お前化学の勉強しただろう。高校生にも分かるように教えてやれ」


 セボーラは、イギリスの大学を出たというエリートだった。


「ディザイアモンドは、宇宙の……により落ちてきた隕石の……の構造とディザイア山の……」


 ひそかに妃奈子を見ると、笑顔が固まっているので、彼女もわけが分からないらしい。自分だけではないとヒロヤは安心した。


「ま、新種の宝玉ってことさ」

「分かりました」

「分かりました」


 二人の顔を見て、セボーラが説明を切り上げてくれた。きっちり説明しようとする堅物な人でなくてよかった。


 ディザイア山は確かに近づいているのに、地上三十から五十メートルの木々のせいで、見えない。


「大昔の先住民たちが、『山の頂上には恐ろしい欲望を叶える力がある』という山岳信仰を持っていた。先住民達は既に滅んでいて、古文書しか残っていなかった。それを見たイギリスの研究者がマウントディザイアという名をつけた」


 ヒロヤはぼんやりと聞いていたが、


「なんだか、皮肉のようですね。先住民の方達の、半ば言う通りですね。……あんなに最新を求める椎名お爺様が」


妃奈子は険しい顔をする。妃奈子の方がヒロヤより様々な知識に関心があるようだ。ヒロヤは妃奈子のそういうところを凄いと思う。



 時間は午後に差し掛かる。昼食をそろそろ食べないといけないのだが、食べられるものがない。


「ははは、こいつを食べられると思ったかい? 毒キノコさ」


 フォリアは明るい。何故こんなに明るいのかとヒロヤには信じられない。


「ボス、妃奈子さんが死にそうですよ」

「わ、私は大丈夫です……」


 お腹を両腕で押さえている妃奈子が可哀想だ。しかし、ヒロヤにはどうしようもできない。その時、セボーラが明るい顔をした。


「ボス、これ!」


 指さす先に蜘蛛の巣がある。大きく、成人男性の身長くらいの長さだ。


「妃奈子さん、こっち」


 妃奈子がセボーラが指さす方にふらふらと行くと、妃奈子の顔と同じくらいの大きさの蜘蛛が落ちてきた。


「きゃあ!」


 驚いて転ぶと、妃奈子が蜘蛛の巣を破壊する形で、糸に巻きつかれる。そして、その拍子に五匹落ちてきた。


「いや、助けて! 蜘蛛が!」

「これは『毒蜘蛛……」


 妃奈子が青ざめて固まる。


「『毒蜘蛛モドキ毒無し蜘蛛』だよ」

「紛らわしいです!」

「食べられるぞ」


 妃奈子に、蜘蛛がぼとぼと落ちる。


「妃奈子さんよかったですね。お腹いっぱいになれますよ」


 ヒロヤは前向きなことを言って励ましたつもりだが、泣きそうな妃奈子に睨まれた。


『毒蜘蛛モドキ毒無し蜘蛛』は美味しかった。しょっぱい味で、醤油を彷彿とさせた。妃奈子は無表情で食べている。


「考えないことにしました」


 妃奈子は強くなった。



 夜、夕食を食べ終えた後、妃奈子が焚火に当たりながら、夜空を見上げている。


「眠れないんですか」


 ヒロヤは隣に座る。オレンジの火に照らされた妃奈子が、星を見ながらも、どこか暗い。


「このようなところでも、生きていけるのですね。もちろん、私は皆さんに守られているから、やっと生きているようなものなのですが」


「守られているけれど、妃奈子さんは頑張っています」


「ありがとうございます」


 星空を見ていた妃奈子の笑みがヒロヤに向けられる。


「ウサギを絞めたことを恐れた私は、愚かなのかもしれません」


 ヒロヤはじっと、妃奈子の言葉を聞くことにした。


「他者が殺した生き物を、お金を払うことによって自らの手を汚さずに食べてきました。生産者に、適正価格かどうかは分かりませんが、お金を渡すことにより、食物を得てきました」


 火がぱちぱちと音を立てる。


「一人では造ることができない船を、皆でお金を出し合って造り、その船で得た食物を、お金を出した全員に分配する。その仕組みは人間らしくあり、合理的です。しかし、船に乗った人間にしか漁業の技術は身に付かない。お金に意味があるから初めて成り立つ、お約束の世界です」


 ヒロヤは何と言っていいのか分からない。妃奈子と違い、自分はお金のことに関しては何も知らない。


「フォリアさんが、助けていただいても迷惑をかけると言った私に、資本主義に毒されていると言いました。確かにその通りです。フォリアさん達が私を助けるための時間とお金と労力と、私を助けることによる利益を考える、というのは、資本主義の考え方と言えるでしょうね」


「すごいですね。妃奈子さんは、ここに来たことで、もっと色々なことを考えたんですね」


 ジャングルで転び、汚れながらも、変わらないし、考え続ける。ヒロヤには今の妃奈子が眩しい。


「ただ、私はお金というお約束を共有する世界を、悪とは思えません」


 話の転換と、真剣な目をする妃奈子に、ヒロヤは見入る。


「数百年前から続く、お金に支配される生き方から、人はどのように解放されるのでしょうか。それは本当に、古代に戻ることなのでしょうか」


 ヒロヤは炎を見つめる妃奈子の横で、空を見ていた。

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