第17話 橘ヒロヤは心配になる

 フォービクティムのヘリはしばらく荒れた海の上を飛んだ。


 ジャングルの木々を強引にかき分けたような小さなヘリポートに見事に着陸。

 隊員と共にヒロヤと妃奈子も下ろされた。

 妃奈子には殺意を向けないが、ヒロヤには向けてくる。


「お前は何者だ?」

 背の高くガタイのいい男が問い詰めてきた。

 ワーレブルア語だ。聞き取れたが、ヒロヤには話せない。


「この方は橘ヒロヤさんといい、私を守る任務に就いている護衛者です」

 妃奈子がワーレブルア語を話している。

「妃奈子様の敵ではないと?」

「ええ。既に何度も守っていただいています。それよりも、貴方がたは本当に私の保護が目的なのですか?」

「当然だ」


 ガタイのいい男と妃奈子がどちらも譲らずに睨み合う。やはり妃奈子には度胸があるとヒロヤは感心した。


「明日、ボスに会わせてくれるそうです」

「分かるんですか!」

「お父様に大体の国の言葉は覚えなさいと言われましたから。それにワーレブルアの言葉ですから」


 真剣な顔をするヒロヤに、妃奈子はいつものように微笑む。

「使える日がきて嬉しいです、ヒロヤさん」

 妃奈子は無力な少女ではない。


 ヒロヤはボスを待つ間、鞄と服にしまっていた武器を確認する。フォービクティムの隊員たちに攻撃の意思が無いことは、妃奈子に説明してもらった。

 体術はこの体さえあれば使える。ナイフもこのくらいあればいいだろう、とヒロヤは考えるが、どうしても弾数の制約がある銃は不安だ。できる限り節約した方がいいだろう。


「うーん、お風呂入りたいですね」

 まだ不安があったことに、たった今気がついた。

 ヒロヤは訓練校時代に、三か月間風呂にも入れないどころか食料を自分で得なければならないような、非常時生存演習を三度受けた。だが、妃奈子はそんなことしていない。ヒロヤは何回か入らせてもらった妃奈子の邸宅の風呂を思い出した。自動で掃除がされるシステム風呂で、ジャグジーなど色々あった。初めて入った時は驚いた。

「妃奈子さん、これから過酷ですが大丈夫ですか」

「お風呂は仕方ないですよね、我慢します!」


 妃奈子は笑顔だ。お風呂どころじゃないんです、と言うのはやめておいた。そのうち分かることだ。この笑顔は果たしていつまで持つのだろうかと、不安になる。今までは、気丈で笑顔の妃奈子ばかり見てきた。彼女の本性が、これから明らかになる。そして、自分の本性も明らかになるだろう。極限の時、人は己を偽れない。


 フォービクティムの基地の屋根はテントの生地だ。良い粘度から作られた石の壁に、整備した土の上に敷物を敷いた床。とはいえ、石と土だ。妃奈子が不思議そうに触っている。電機は通っていてパソコン等は最新だが、湯を沸かすのは薬缶、料理ははんごう、土なべ、たき火。妃奈子をちらりと見ると、薬缶をポットだと思ってコードを探している。

「大丈夫かなあ……」

「何か言いましたか?」

「何も言っていません」

 ヒロヤは乾いた笑みを浮かべた。


 夜。食事は与えろとボスから命令があったらしい。フォービクティムがたき火で食事を焼いているのを、妃奈子は子供のようにじっと見ている。


「ヒロヤさん、火ですよ、火! すごいですね」

 火を見るのは初めてだという。


「はい、すごいですね」

 あなたのお嬢様っぷりがすごいですよと、ヒロヤは心の中で言う。


「電気を使わないのにおいしいですね。停電しても代替え手段があっただなんて」


 妃奈子は木の匙で、ジャガイモとトウモロコシとワ―レブルア米の煮込みを食べて、にこりとする。


「さあ、メインディッシュはなにかしら」

「今のがメインディッシュですよ」

 驚く妃奈子に、ヒロヤは笑えなかった。


 与えられた食事はそれだけだった。随分質素なのね、宗教的な理由かしらと妃奈子は頬に手を当てる。ヒロヤはディナーを食べる妃奈子を思い出す。和食も洋食も、マナーは全て完璧だった。前菜、スープ、サラダ、メインディッシュ、デザートが毎日あった。妃奈子は一度も残したことはない。妃奈子さんはきっと飢えるだろう、どうやって宥めようか、空腹は人をおかしくする、とヒロヤは眉をひそめた。その時薬缶が湧いた。

「あら、音のうるさいポットね。水蒸気で沸いたことを教えるのですか。耳が聞こえない人にも分かりやすい設計ね」

ヒロヤは何も言えなかった。

 敵味方を超えて、隊員たちも妃奈子を心配し始めた。


「ヒロヤさん」

 基地の隅の寝室のドアを開けて、昨日から着たままの制服の、リボンだけを外した妃奈子が出てきた。石でできたドアを重そうに押さえながら、妃奈子が不安そうな顔でヒロヤを呼ぶ。

「ガサガサと音がして、怖いんです」

 行ってみると、確かにガサガサと音がする。寝室に入ると、他の部屋と違って屋根が少し丈夫だ。といっても、テント生地一枚を二枚に増やしただけだが。音を聞いて、布団を裏返すと、黒いあの虫がいた。妃奈子が怖がらないか心配で、慌てて振り返る。しかし妃奈子は平然としている。


「なんですか? これ」

 ヒロヤは絶句する。妃奈子はゴキブリを知らなかったようだ。

「ゴキブリです」

 妃奈子が後ずさると同時に、ヒロヤはゴキブリを踏みつぶした。

「きゃあ!」

「もう大丈夫ですよ。さあ、寝てください」

 妃奈子が後ずさりして壁にぶつかった途端、上から蜘蛛が落ちてきて、妃奈子の目の前にぶらさがった。妃奈子が絶叫する。

「蜘蛛は知ってたんですね……」

 思わずつぶやいたヒロヤに、妃奈子は助けてと泣きついた。


 無事に朝が来た。

「ヒロヤさん、ドライヤーはありますか。寝癖がついてしまったの」

「そんなものありませんよ」

「そうですよね、ここの基地の皆さんは髪が短いですものね」



「ボスの方が、私達にお話ししたいことがあるので、皆さんがボスの方がいらっしゃる別棟に案内してくださるそうです」


 妃奈子さんが言葉を喋ることができてよかった、と思う。言葉も喋れなかったら役にたた、と思いかけた自分を駄目だと怒る。依頼者になんてことを思ってしまったんだ、とヒロヤは首を振る。


 ワ―レブルア国はアフリカ大陸に近い島国だ。今は七月なので、乾季である。まだ過ごしやすい乾季で良かった。ほっとした。暑く雨が多い雨季だったら、妃奈子は参ってしまいそうだ。


 ボスに会うためジャングルを歩く。


 数十メートルの木々のてっぺん、林冠が日光を遮って、少し薄暗い。

 朝食はワ―レブルア米のお粥のみだったので、ヒロヤも空腹だ。お腹いっぱいに食べられないという経験をしたことがないだろう妃奈子は、もっと辛いだろう。朝食の後、隊員に続いて、朝の九時から四時間歩き続けている。乾季なので二十度くらいの過ごしやすい気温だが、蒸し暑い。


 妃奈子が手で目を押さえている。泣いているようだ。膝にはすでに擦り傷が三つ。ヒロヤは転んだ後に毎回妃奈子の手を取って起こして、手当をしていた。妃奈子は、大きな石や、地を這う植物に足を取られている。見ていると気の毒で、つい抱きかかえて歩いてあげたくなる。だけどヒロヤは最初から妃奈子を抱き上げることはしない。


 妃奈子を抱き上げて歩いてあげれば、妃奈子の脚は綺麗なままだが、自分で歩ける脚にならない。護衛者養成訓練校でも、依頼者に尽くすが、甘やかすなと習った。妃奈子はヒロヤに助けを求めない。ヒロヤの意思を分かっているのか、自分で歩くべきだと元々思っているのか、どちらかは分からない。きっと自分が守りたい人間とは、こういう人なのだろう。誰かを守りたいからこの仕事を選んだが、どのような人を守りたいのかを考えたことは今までなかった。今回いい人を守ることになったのはただの偶然で、次の人は嫌な人かもしれない。だが、今この時に次を考えるのは愚かだ。


 天から鳥か虫か分からないが、木管楽器のごとく澄んだ高音の鳴き声がする。薄暗い緑に、時々花の赤が見える世界。日光の直線が差し込むと目が痛い。


 時折スカートの端から見える妃奈子のリングより、彼女の足の傷の方が強い存在感を帯びてきた。泣きながら、歯を食いしばって耐える妃奈子。わがままを言わないからこそ、かえって妃奈子を助けてあげたくなってしまう。しかし妃奈子を本当の意味で守るには、今助けてはいけない。


 隊員が指さした先に、フォービクティムの基地よりも立派な建物があった。壁と天井が石造り。しかしドアは石造りでありながら、タッチパネルが付いている。葉っぱに電子機器を接続しているものだ。隊員がボスを呼ぶ声。


「ヒロヤさん、もしかして……」

 ワ―レブルア語を分かる妃奈子が、驚いた顔をしている。

「入れ、攻撃しない」

 ヒロヤにも分かるように、ゆっくりと言ってくれた隊員に続き、棟に入り、ヒロヤと妃奈子は驚愕する。


「やあ、よく勘付いたね」

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