第16話 橘ヒロヤの誕生日

 七月十日。ヒロヤの誕生日だ。


「帰りにパンケーキのお店に行きましょうね」


 妃奈子の提案に大きく頷いて、二人は登校する。二人は学校の行き帰りに会話をするようになった。


 放課後、すぐにパンケーキ屋に行こうと、いそいそと鞄に教科書を詰めるヒロヤは、芳樹に飛びつかれた。



「頼む、写真の被写体になってくれよ」


 手を合わせる芳樹。七月末が締め切りのコンテストに出したいのだという。


 いつもなら引き受けるが、今日は妃奈子との約束がある。


 芳樹に悪いなと思いつつ、妃奈子を見ると、彼女はいいですよと頷く。


「校庭で、かっこいい感じの。ヒーローが人を助けるような」


 なんだそれと思うが、芳樹がノートにびっちりと描いた構図のアイデアを見ていると、よさそうだと思った。


「橘ヒロヤ! 来なさい!」


「あ、美月さんまた来たね」


 美月がヒロヤにお菓子を持ってくることは、皆が知っている。


「美月さんとヒロヤさんのお二人が被写体になってはいかがですか?」


 笑顔で言う妃奈子にヒロヤはぎょっとするが、芳樹と美月は頷いてしまった。


 校庭でヒロヤは美月を横抱き、つまりお姫様抱っこするはめになった。


 なんで美月さんは嫌じゃないんだろうかと、ヒロヤには不思議だ。


 妃奈子が笑っている。


 芳樹のシャッターが何度も鳴り、しばらくして、撮影が終わった。


「ヒロヤ、私とパンケーキ屋いかない? ……妃奈子さんと芳樹もついでに一緒に来ていいけど」


 美月が腕を組みながら言う。


 ヒロヤは妃奈子を見るが、妃奈子は大丈夫と言う。何も知らないから無理はないが、芳樹は大賛成している。


「私たちは、いつでも二人で行けますから」


 美月と芳樹が喋っている後ろで、二人は頷いた。


 パンケーキを食べ終えた四人。芳樹は大きく手を振って帰る。


 美月がヒロヤに一歩近づくと、妃奈子は一歩離れるのだ。


「ヒロヤ、今度さ、二人で映画でも」


「妃奈子さんも一緒ならいいです」


 美月が俯く。ヒロヤは思わず妃奈子を見る。妃奈子は背を向けている。


「ヒロヤ、こっち来なさい!」


 美月がヒロヤの手を取って、走る。力ではない、逆らえないものがありヒロヤは驚きながらついて行く。


「妃奈子さんが」


「ヒロヤ!」


 美月が大声を出す。夕暮れ、烏が飛ぶ。


「あなたの意思はなに? 妃奈子さんとのことは、仕事よね?」


 美月の声に、いつもの強気さがない。


「あなた、妃奈子さんの仕事が終わったら、妃奈子さんとは離れるのよ……ね?」


 ヒロヤは、頭が真っ白になった。


「ねえ、ヒロヤ、ねえ」


 ヒロヤは、ぼんやりと美月を見つめる。


 何も考えていなかったことに気がついた。


 有川たちの肩入れしすぎるなとは、こういうことだったのだろうか。


 妃奈子と離れた後の未来が、分からない、想像できない。


「ねえ、ヒロヤ。妃奈子さんの任務が終わったら、私とまた会ってよ」


 どうしてですかと聞くことはもうない。


 美月と自分は、任務が関係ない間柄で、ただの友達であると気がついたことは、妃奈子と自分が任務による関係であることを、はっきりと思い出させた。


「分かりました、会いましょう」


 頷くヒロヤに、美月はとても嬉しそうだ。


 ヒロヤにも、分かった。


 きっと、妃奈子とのことが終わった後の未来の方が長いのだろう。


 今の全てである妃奈子は、今だけの存在なのだ。


 肩を落とすヒロヤに、気がついた美月は慌てだす。


「ヒロヤ、どうしたの? 私と会うのが嫌ってわけ?」


 必死な美月。この人を妃奈子より強く思うことができるのか。


 風が吹いた。

 髪が揺れる。ヒロヤは急いで振り返り、走った。


 ヘリコプターの音がした。


 美月の呼ぶ声が、悲しみを帯びていたけれど、構うことができない。


 美月に構えないことは、不幸なことなのかどうか、ヒロヤには分からない。


 逃げてきた妃奈子が、ヒロヤに抱き着く。ヒロヤは彼女を横抱きにした。


「いいですか?」


 ヒロヤの言葉に、二人は頷きあう。


 フォービクティムに囲まれた。


 ヒロヤは、妃奈子に銃口を向けた。


「何をする!」


 フォービクティムの一人が叫ぶ。焦っているのは本気のようだ。これなら、賭けがうまくいくかもしれない。


「フォービクティム、俺と妃奈子さんをワ―レブルアに連れて行け」


 ヒロヤと、腕に納まる妃奈子は、強い瞳でテロたちを見る。


♦︎


 ヒロヤと妃奈子はヘリコプターに乗せられた。


 きちんと椅子に座らされた妃奈子と対照的に、ヒロヤは窓の傍に立つ。


 美月がいた街の一角が遠ざかっていく。

 彼女はヒロヤを好きだった。


「ごめんなさい」


ヒロヤは呟く。


「俺には、今しかありません」


 ヒロヤと妃奈子は二人で命を賭けて、自由を手にいれる。

 それが今の全てだ。




 ヘリコプターの窓から見えるのは、真っ黒い海だけだ。

 夜中の二時、ヒロヤは立って窓に寄りかかったまま、五分ほど眠っていた。


 目を覚まし、気を張りなおすと、妃奈子が泣いているのに気づいた。


 妃奈子を見張っていたフォービクティムの隊員が眠っているので、この隙にヒロヤは彼女に近づき、頭をぽんと優しく叩いた。


 そして、しまったと思った。こういった依頼者と護衛者の関係を超えてしまう気の緩みが、美月にもおかしいと思われたのだろう。


 だが当の妃奈子は頷いていて、ヒロヤを非難していない。


 妃奈子の左右の縦巻き状に巻かれた髪を止めているのが、ハイパワーストーン社製の、何かの石だと気がついた。


「水晶です」


 赤い目で、妃奈子がヒロヤを見る。


「古代の時代より、万物のお守りだと崇められていたそうです」


 妃奈子は、ヒロヤの手を持って、自身の髪飾りに触れさせた。ヒロヤは驚くが、逆らわない。


「ヒロヤさんのことも守ってください……。お願いします」


 人は、結局最後は神頼みなのか。


「俺は確実にあなたを守ります」


 妃奈子の両肩に手を置く自分が立場を超えていることなど、ヒロヤは分かっている。


 夜明けが近づく。ヘリコプターの窓から見る夜明けだ。


「ヒロヤさんの誕生日のお祝い、できませんでしたね」


 泣き止んでからしばらく経って妃奈子の声は明るいものに戻った。


「来年は、リングのない私があなたの誕生日をお祝いいたします」


 ヒロヤはふっと微笑んだ。これだから、美月に言われたのだと思いつつ。


 ヒロヤの初めての依頼者。依頼者とは、こんなにまっすぐに心に入ってくる存在なのか、妃奈子以外を知らないから分からないのだ。

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