第8話 橘ヒロヤ、ドレスを着る

 橘ヒロヤ、十五歳。七月十日生まれ。


 身長一七五センチ、体重七十五キロ。

 空手、柔道、剣道、弓道、少林寺拳法の黒帯を持つ。


 実の両親と早くに死に別れ、東京で道場を営む橘武文十段に育てられた。

 その後、橘氏の家を出る形で、最高位護衛者養成訓練校に最年少で入学。



 妃奈子は、最後の一文を見て、改めてどきっとした。


『現在、ハイパワーストーン社の令嬢、桜井妃奈子の護衛をしている。』


♦︎


「妃奈子さん」


 パソコンの画面には、ヒロヤの経歴がずらりと書かれている。


「なんでこんなのを見ているんですか」


「こんなの、ではないです。最高位護衛者協会の公式ページじゃないですか」


「そうですけど」


 ヒロヤは少し嫌な気分だ。過去を見られるのはあまりいい気分ではない。


 ついに、椎名ロックと三船貴金属の共同主催のパーティの日だ。何人か芸能人も来るらしい。

 椎名福助は、桜井親子にとって、上位の存在だ。


 ヒロヤは黙々と鏡を見ながら、線を描き、色を塗る。つまり、メイクだ。


「……なんですか?」


 先にメイクを終えた妃奈子が、じっくりとヒロヤを見ている。


「可愛らしいですね、ヒロヤさん」


「ヒロ子です」

「すみません、ヒロ子さん」


 ヒロヤ、改めヒロ子。

 黒髪のショートボブのウィッグ。グレーがかった水色に黒いレースのついた、シンプルながら上品なロングドレス。黒いフリルのカチューシャ。

 そして、メイクをした。一重をメイクで見事に二重にしたヒロヤに、妃奈子は感嘆すらしていた。


「今回のパーティ、参加するには、俺が女になるしかないでしょう」


「いえ、そうなのですが、あまりにもお上手で、可愛くて……」


一重の瞳だったヒロヤが二重にして、その上つけまつげも付けると、もうまるで印象が違う。男子らしい黒い肌を、恐ろしくうまく化粧したヒロ子の肌は、よく日焼けした活発な少女の肌にしか見えない。


「化粧映えしますね」

「ありがとうございます」


褒められ、礼を言ったというのに、褒めた側の妃奈子がおろおろしだす。


 妃奈子は、いつもは緩くカールしているこげ茶の髪を、今夜はしっかりと縦巻きにし、優雅な曲線を描かせている。

 ドレスは上が白でスカート部分が落ち着いた赤という上品な印象のものだ。ヒロ子が水色のドレスにしたのは、妃奈子と印象が被らないようにするためだ。主役である依頼者を、際立たせなくてはならない。


 妃奈子のドレスは膝丈だ。しかし、左の太ももだけに深いスリットがある。そのスリットから、ディザイアモンドを付けたインセパレートリングが出る。


「ディザイアモンド」


ただ事実を告げたヒロヤに、妃奈子は弱弱しく笑った。


「ええ。今回のパーティの主役よ」


 装着者からベルトを外せば、爆発する。


 これにより、盗難しようとした者が怪我をするので、誰が盗ったかの捜査が簡単になるのだ。


 装着者の人権を問う裁判に、椎名ロックは数百の弁護士事務所に相談して、勝訴した。しかし、まだ、このベルトによる問題は起きていない。なぜなら、このベルトを付けているのは、現在妃奈子一人だ。


「『命より、大事な情報がある』……」


「ええ、それが椎名お爺様の主張」


ヒロヤは、妃奈子のこの淡い笑みを見て、苦しくなった。


 大企業の令嬢。だが、大抵の令嬢は最高資格を持つ護衛までは必要としない。


『橘ヒロヤ、ディザイアモンドを守って欲しい』


老紳士のふざけた言葉を思い出し、ヒロヤは気分が沈み、怒りで熱くなる。


 記者会見でわざわざ桜井妃奈子という名前を呼んだのは、椎名氏へのあてつけだった。そのせいで妃奈子への思い入れも強くなったのは、反省すべきだが、後悔はしない。


 妃奈子が幼い頃からディザイアモンドを身につけていても今まで何もなかったのは、ベルトが爆発してディザイアモンドに少しでも傷がついたら、盗む方も損をするからだ。


 それに、妃奈子も亘氏も知り得ないだろうが、裏ではすでにディザイアモンドをめぐって死者が出ているのではないか。もちろんヒロヤは、妃奈子には何も知らないでいて欲しい。


 ヒロヤは、カチューシャを持った。


「え?」


妃奈子が驚いて、自身のイヤリングを見る。ヒロヤは優しい笑顔になる。


「俺のカチューシャから通信できます」


妃奈子がほほ笑んだのでヒロヤはほほ笑み、気合を入れた。


 宝石類や貴金属類の企業が集うパーティ。


 集う、と言っても老舗や最大手の企業のみだ。社長、上役、社長夫人、社長令嬢、など女性のドレスの装飾はそれぞれの社の広告だ。


 五月の終わりの晴れた夕方に、椎名ロックが所有するホテルの大広間でパーティの幕が開けた。


 黄金のシャンデリア、ハイヒールが響く床。思い思いに話す参加者たちは、みな笑顔の裏にビジネスチャンスを思考している。


 色とりどりのドレスの女性たち。黒いスーツの男性たちが混ざり、ドレスが一艘際立つ。


 ダイヤモンドが散りばめられた白のレースの袖から妃奈子の白い腕まで、照明に照らされて美しい。


 フリルの無い落ち着いた赤のスカートが、妃奈子が子供ではなくレディであることを物語るように揺れる。


 ヒロ子に扮したヒロヤは怪しまれないように、時々妃奈子から距離を取って、立食形式の食事を食べる。


 妃奈子がヒロヤを笑っているので、甘いものを集中して食べていたことがばれたらしい。


「妃奈子さん」


人々の合間を縫い、背が高い湊が妃奈子を見つけた。上品なストライプのスーツと、小さな船のマークのワンポイントがある青いネクタイだ。


「湊さん。ごきげんよう」


頭を下げる妃奈子。少し離れたところから、カットされたメロンを口に運びつつ、ヒロヤは湊を観察する。


 妃奈子の顔を見ているが、それと同じくらいに、湊は妃奈子の太もものベルトを見ていた。


 ヒロヤはカチューシャから妃奈子と湊の会話を聞く。イヤリングの電源を常時付けておくことを、妃奈子はヒロヤが驚くほどにあっさりと了承している。


「よかったよ、あのボディガードがいなくて」


湊の、涼やかな声。


「ヒロヤさんが、どうかしましたか?」


いつもの妃奈子の声。よく磨かれた石のように、芯があるが滑らかな声だ。


「婚約者としては、妃奈子さんに他の男がくっ付いているのが嫌でね」


「ヒロヤさんは、そういう方じゃありませんよ」


「ごめんね。子供っぽいこと言って。でもまさか、本当にヒロヤくんを置いてパーティに参加してくれるなんて思わなかった。嬉しいよ。僕のために」


 妃奈子のあいまいな笑い声。


 それでいい。下手に繕うより沈黙のほうが安全だ、とヒロヤは妃奈子に心の中で頷く。


 今回ヒロヤがわざわざヒロ子に扮しているのは、三船貴金属の御曹司であり妃奈子の婚約者である、三船湊のせいだ。


 婚約者である自分がいるのに妃奈子が他の男を伴うのは、婚約者を軽んじている、第一、椎名ロック主催のパーティに護衛を付けると言うのは椎名ロックへの不信を表すことになる、と騒いだ。


 湊の父、栄太氏は、基本は息子の意のままにさせている。


 綺麗な好青年、という世間のイメージがある湊が会社を継ぐことを栄太氏は喜んでいる。


 栄太氏自身は見た目に恵まれていないので、見た目がいいと有利だということを考えているのでは、というのがもっぱら囁かれている。


 そして、湊が妃奈子の婚約者であることが、栄太氏が湊を甘やかす最大の要因だ。


「椎名様」


湊の声。


 湊と妃奈子のもとに、椎名福助が歩いてきた。杖をついているが、元気に歩いている。


 ヒロヤは神経を集中させる。談笑する三人。しかし、妃奈子の発言は少ない。


「湊くんがうちに入ってくれると安心だ」


笑いながら言う椎名氏を、ヒロヤは思わず睨む。それににこやかに返す湊にも腹が立つ。


 二人とも、妃奈子に話しかけていない。会話にかろうじて参加しているような笑い声から読み取れない妃奈子の本心。


 何を思っているのか。ヒロヤは妃奈子の声色に注意を向けるが、彼女の本心は読み取れないままだ。


「よぉ。相変わらず可愛いな」


カチューシャの通信機に気を張っていたヒロヤは、後からの声に気がつくのが一瞬遅れた。

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