第4話 橘ヒロヤ、拳法で戦う
「分かるんですか?」
「はい」
口元に添えた手を握る不安そうな妃奈子の背を叩いて、大丈夫ですなどと言いたいが、それは護衛者のすることを超えているだろう。
その時、中高生の叫びが聞こえてきた。
「サインください!」
「久保田選手ですよね」
「どうしてここにいるんですか!」
などなど。
三人の男に男子中高生が群がっている。ヒロヤにはさっぱり分からないが、妃奈子は目を丸くしている。
「ヒロヤさん、柔道の日本代表の方たちです」
ヒロヤはぴんときた。
「妃奈子さん、日本代表のスポンサーに、一条ジュエリーは入ってますか」
妃奈子は驚いたようにびくっとする。
「入っています。ですが、まさか」
「あいつら、こっちに気がつきました」
妃奈子がヒロヤの腕に抱き着く。
「帰りましょう、ヒロヤさん。ここまで連れて来てごめんなさい」
だが三人がこちらに気がついた。ヒロヤは妃奈子を体から離した。
「もう、逃げても無駄なようです」
「妃奈子お嬢様」
にたにたとした日本代表の一人が、腕を捲った。
「妃奈子お嬢様のボディガードを倒したら、強化費を倍にしてくださると、美月お嬢様が言ってました」
もそもそとした喋り方だが、眼光は鋭い。
「どうしてそんなことをするのですか! ヒロヤさんは何もしていません」
声を震わせながらも、妃奈子が叫んでくれる。
「それは、橘ヒロヤが、妃奈子お嬢様を暴行しようとしたからです」
妃奈子が目を丸くするその一瞬に、後ろの男が、携帯で写真を撮った。ヒロヤは後ろを振り返る。ラブホテルらしき建物だ。
「なるほど。だから裏通りの喫茶店を」
柔道家三人が笑う。妃奈子は青い顔をして、おろおろと震える。
「私が証言します。ヒロヤさんが私を襲ったのは、嘘だと」
「俺たちと美月さんの証言の方が強いですよ」
妃奈子が男の前に走った。
「妃奈子さん、後ろに」
「いいえ」
ヒロヤが止めようとするが、妃奈子は男たちの前に出た。
そして、深々と頭を下げた。
これには男たちも驚く。
妃奈子は先頭の男の目をしっかりと見る。
「どうかヒロヤさんを陥れないでください。この方はこれからキャリアを積まれるのですから、芽を摘み取らないでください」
妃奈子は再び頭を下げる。
ヒロヤは驚きすぎて、自分が何を思っているのか分からない。
妃奈子に、男たちはにやにやと笑う。
「妃奈子ちゃん、ヒロヤくんを守りたいんだ」
妃奈子は毅然と、男たちを睨む。
「言うことを聞いてくれたら、ヒロヤくんには何もしないよ」
ぱっと妃奈子は明るい顔になった。
が、男が妃奈子の肩を掴み、ぐいっと引っ張った。
「俺たちといいことしようよ、妃奈子ちゃん」
一瞬呆然とした後、意味が分かったらしい妃奈子は、何も言えないようだった。
「いいところにあるよな」
妃奈子を掴んだ男が指さすのはラブホテル。
妃奈子が歯を食いしばる。
「あなた、それでも日本代表なのですか!」
男たちはにたにたと笑うだけだ。じたばたと、男から逃れようとする妃奈子が、恐怖している。
妃奈子のスカートに手を伸ばす男の手を、ヒロヤが止めた。
「妃奈子さんに危害を及ぼす人間は、倒します。今すぐやめるなら、見逃します。どうしますか」
男より背の低いヒロヤが、上目遣いになる形で睨む。ヒロヤに手を掴まれた男が、忌々しそうにヒロヤの手を外す。
「久保田さん、やっちゃってくださいよ」
後ろの男がはやし立てる。久保田は、妃奈子を離し、後ろの男二人に渡した。不安そうな妃奈子にヒロヤは大丈夫ですと頷く。それを久保田が冷やかすように見る。
柔道として戦うなら、身長百九十を超えている久保田に対してヒロヤは圧倒的に不利だ。
久保田がステップをしてヒロヤに間合いを詰めてきた。ヒロヤの手首を狙っている。手首を掴み、そして足を絡めて倒そうとしているのだろう。ヒロヤは手首を意識した。
久保田が、ついにヒロヤの手首をがちっと掴んだ。
「ヒロヤさん!」
叫ぶ妃奈子が、男たちに押さえつけられる。久保田は、ヒロヤを投げようとした。
ヒロヤは握っていた手をぱっと開いた。
そして身をねじって前進し、自分の腕と体を近付ける。
ヒロヤは久保田に掴まれたままの手首を自分の胸の前に固定した。
ヒロヤが肩を入れながら肘を上げて手首を下げると、久保田の手が外れた。
久保田が驚く。
「少林寺拳法か!」
力ではなく体の原理を使った技だ。
ヒロヤは逃げずに久保田の懐に潜り込み、久保田に目打ちをする。
ひるむ久保田の顔を殴り、ヒロヤは久保田の急所を蹴った。
急所を蹴られ、蹲る久保田の頭を蹴り、ヒロヤは後ろの二人を睨む。二人は妃奈子を強引にヒロヤに返す。ヒロヤは妃奈子の手を握る。
「さっき写真を撮った携帯を貸して下さい」
携帯を投げてよこされ、ヒロヤはその中のデータを保管する端子を抜き出す。不思議そうに見る妃奈子の視線を感じながら、ヒロヤは鞄から小型の機械を出し、端子を取り付けた。
操作したのち、ヒロヤは男に携帯を返した。
「痕跡も残らないようデータを消去しました」
男たちが去った後、ヒロヤは妃奈子に言った。
「写真が出回る心配もありません」
妃奈子は安心したというより、むしろ喜んでいる。ヒロヤが首を傾げると、妃奈子はヒロヤの両手を掴んだ。
「かっこよかったです。まさか柔道日本代表に勝つだなんて!」
「何言ってるんですか。まさか勝つ、じゃあなたを守れません。勝てなければ困ります」
「そうでしたね」
妃奈子に呆れたように言ったヒロヤだが、少し頬が赤い。
妃奈子の強い意志を尊重し、純喫茶ハチの巣へ向かう。
「いませんね」
美月の姿はない。ヒロヤは妃奈子を見る。
「妃奈子さん、あなたの気持ちはわかりますが、相手のいいなりになるのはいかがなものかと」
「ヒロヤさん」
妃奈子は椅子を引いて座る。何か飲むんですかと目線で聞くヒロヤに、妃奈子は頷く。
「人の体力は無限ではありません」
なんの話をするのだろうかと、ヒロヤは首を傾げる。
「私の体力は全て夢のために使いたいのです。人に対抗するという、小さなことに浪費できる力は、私にはないの」
美月のいやがらせを、小さなことと表現する妃奈子の器の大きさ。
「どうなさったの?」
「いえ。面白いなと思いました」
ヒロヤは自然と笑顔になった。
「妃奈子さんに降りかかる小さなことは、俺が振り払います」
妃奈子は、ぱっと明るい顔になって頷いた。
護衛の対象でしかない妃奈子に肩入れし始めていることを、ヒロヤは自覚した。
わざわざ来たのに何も頼まず帰るのは失礼だという妃奈子の気配りを尊重し、二人は純喫茶ハチの巣で、コーヒーを飲むことにした。
「あら、それも頼みますか?」
妃奈子にばれてしまった。ヒロヤは、ケーキのページをじっと見つめ過ぎていた。
「いえ、甘いものは」
「この大きなケーキを頼んで、半分こしましょう?」
ヒロヤは、内心喜びながら頷く。コーヒーそっちのけでケーキを食べ進めるヒロヤに、妃奈子はふわふわの髪を揺らして笑った。
「甘いものが好きなんです」
妃奈子の視線に観念して、ヒロヤは隠さずに言った。
「訓練中は、制限されていました」
「今は制限されていないの?」
「はい。雇い主に従う方が優先です」
妃奈子は、面白そうに笑った。
「では、私についてきている時は、甘いものを食べるのは任務の一環と言えるのですね」
ヒロヤは、じっと妃奈子を見る。
「私の夢は、社長になることです。最初に立ち上げる事業として、飲食の経営もいいなと思っています」
妃奈子の笑みの輝きに驚く。
「だから、研究のためにあちこちに食べに行きたいのだけど、今までは外出を控えろと言われていたの」
二人一緒に頷く。
「いろいろなところに行きましょうね!」
資格所持の護衛者も、世間に名だたる令嬢も、年相応のようである。
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